第34レース 十八対十八
ゴール板を通過したあとも、瞳子はすぐには力を抜けなかった。
ハクの勢いを少しずつ落としながら前方を見ると、先にゴールした小町と風磨のポニーが並ぶように速度を緩めている。そのさらに前では係員が待っており、八頭を順番に誘導していた。
「はぁ……っ」
ようやく息を吐くと、身体の奥から遅れて心臓の音が聞こえてきた。
三百メートルしか走っていないはずなのに、あっという間だったという感覚と、もっと長く走っていたような感覚が同時に残っている。
瞳子は五番手を走る馬との差を最後まで詰めようとしたものの、結局届かなかった。ハクの特徴にもう少し早く気づいていれば違ったのかもしれないと思う一方で、他の馬が近いと動きが鈍ることに気づいてからは、空いた場所へ誘導して最後まで走らせることができた。
悔しくないと言えば嘘になる。それでも、ただ乗って終わったわけではなかった。
「ハク、ありがとね」
首筋へ手を伸ばすと、ハクは少しだけ耳をこちらへ向けた。
八頭が落ち着いたところで、場内アナウンスから正式な着順が読み上げられた。
『一着、成瀬小町。二着、狛井風磨。三着、清華鈴乃――』
小町の名前が最初に呼ばれた瞬間、馬場の周囲からもう一度、拍手が起こる。
四着は黒田、五着が宮坂、六着に瞳子、七着が三浦。そして最後に、星羅の名前が八着として読み上げられた。
「六着かぁ……」
分かってはいたものの、改めて聞くと少しだけ悔しい。
その隣では、三着だった清華が結果を聞いていた。
「清華さん、三着だったね。初めてなのにすごいじゃん」
「初めてとか言い訳になりません。二人に負けました」
「でも、経験者だし」
「同じルールでやっている以上、関係ありません」
ヘルメットを取りながら唇を噛み締めている。
どうやら清華にとっては、初めてのポニーレースだったことなど慰めにもならないらしい。
瞳子が返す言葉を探している間に、小町がこちらへやって来た。さすがに嬉しいのか足取りまで軽く見える。
「勝ったで!」
「おめでとう、小町ちゃん! すごかった!」
「やろ?」
胸を張る小町の後ろから、風磨も歩いてくる。
「半馬身やからな」
「半馬身でも一馬身でも勝ちは勝ちや」
「お前の馬の能力が高かっただけや」
「見苦しい言い訳やな」
言い返した小町は、そこで何かを思い出したように風磨を見る。
「これで三勝二敗や」
「……お前、めっちゃ数えてるやん」
「そら勝敗くらい覚えとる」
「前に『毎回おっただけ』『意識してへん』言うてたやろ」
「それとこれとは別や!」
瞳子は二人のやり取りを聞きながら、やっぱり昔から十分意識していたんじゃないかと思ったが、わざわざ口に出すのはやめておいた。
騎乗したポニーを係員へ引き渡したあと、教官が小町を呼び止めた。
「成瀬」
「はい」
「よく乗ったな。最初から前へ行ったのに、途中で余計なことをしなかったのが良かった」
「ありがとうございます」
「距離はどう測った?」
「感覚です。最初の百でどれくらい出して、そのあとどこまで我慢したらええかは、乗ったときの感じで大体決めました」
「大体、か」
教官が少し呆れたように言う。
瞳子には、その“大体”が普通の大体ではないことが分かっていた。
小町には優れた体内時計があって、今日もその感覚で三百メートルを細かく区切り、黒鹿毛のポニーの速さまで合わせていたのだろう。
「レースの序盤から先頭に立つ『逃げ』は、ただ前へ行かせればいいってもんじゃない。どこまで行かせて、どこで我慢させるかまで考えるんだ。覚えとけ」
「はい!」
教官が離れると、小町は満足そうに何度も頷いていた。
一方、星羅は自分が乗っていたポニーのそばで、職員と何か話していた。
「八着だったね」
瞳子が近づくと、星羅は肩をすくめる。
「まあ、賞金ないし」
「それ関係ある?」
「めっちゃ関係ある」
「藍沢」
ちょうど戻ってきた教官に呼ばれ、星羅が姿勢を正した。
「はい」
「八着だからって適当に終わらせるなよ」
「してないっすよ」
「分かってる」
予想していなかった言葉だったのか、星羅が少し目を見開く。
「あの馬、スタートしてから何度も左右の馬に反応してただろ。途中でも外側へ進路を逸らそうとしてた」
「めっちゃしてました」
「そこで慌てて手綱を引きすぎたら、まともに走らせられなかった。着順は八着でも、最後まで競走させたこと自体は悪くない」
近くにいた職員も頷いた。
「藍沢は身体が反応するのが早いな。あれだけ馬に動かれても、上半身の姿勢がほとんど崩れてなかった」
「マジすか?」
「だからって満足するなよ」
「今ちょっと褒められた気分だったのに」
星羅は不満そうに言いながらも、さっきまでより少しだけ嬉しそうに見えた。
瞳子はその様子を見て、着順だけでは分からないこともあるのだと思う。自分の六着も、清華の三着も、小町の一着も、それぞれが同じ意味を持っているわけではない。
競馬は着順がすべてだと思っていた。
もちろん、勝った馬が一番なのは変わらない。それでも、その着順にたどり着くまでに何をしたのかは、ちゃんと見ている人がいるらしい。
「そういやさ」
黒田の声がした。
「男女対抗、どうなった?」
その一言で、さっきまで忘れかけていた勝負を全員が思い出した。
「あったな、そんなん」
「小町、お前が一番張り切ってただろ」
三浦が着順を書いた紙を覗き込みながら、指を折り始める。
「男子は風磨が二着で七点、黒田が四着で五点、宮坂が五着で四点、俺が七着だから二点……」
「七足す五足す四足す二やろ?」
風磨が先に計算する。
「十八点やな」
「じゃあ女子は?」
星羅に聞かれ、小町もすぐに数え始めた。
「うちが一着で八点、清華ちゃん三着で六点、瞳子ちゃん六着で三点、星羅が八着で一……」
そこまで言ったところで、小町の声が止まった。
瞳子も頭の中でもう一度足してみる。
八と六で十四。そこへ三を足して十七。最後に一。
「十八……?」
誰かが呟いた。
一瞬だけ、八人の間が静かになる。
「え、同点じゃん」
星羅が最初に言った。
「ほんまやん!」
「なんだよ、それ!」
「ちょっと待て、同点のときどうするか決めてねえぞ」
黒田が言うと、全員の視線が自然と瞳子へ集まった。
「え、私?」
「点数決めたの斉藤だろ」
「そこまで考えてなかったよ!」
男女四人ずつで合計点を競えば、どちらかが勝つものだとばかり思っていた。
どうするの、と周囲を見回したところで、瞳子は一人だけ妙に落ち着いている清華に気づいた。
そういえば。
瞳子が配点を提案したとき、清華だけはすぐに返事をしなかった。
ほんの一瞬、何かを数えるように視線を落としていた。
「清華さん」
「なんですか?」
「同点になる可能性あるって分かってた?」
「はい」
あまりにもあっさり返され、瞳子は言葉を失った。
「はい!?」
「八点から一点までの合計は三十六点ですから、十八点ずつになる組み合わせが存在することは分かっていました」
「なんで言わなかったの!?」
今度は小町まで声を上げる。
「そうなる可能性は高くないと思いましたので」
「あるなら言えや!」
「聞かれませんでした」
「そういう問題ちゃう!」
清華は本気で何が悪いのか分かっていないらしく、小町に詰め寄られても首を傾げている。
「何騒いでる」
再び教官がやって来たので、瞳子が事情を説明した。
男子十八点、女子十八点。同点の場合を決めていなかったことまで聞いた教官は、八人の顔を順番に見てから呆れたように息を吐く。
「同点なら同点だろ」
「えっ」
「勝手に始めた勝負のために延長戦でもやるつもりか。団体戦は引き分け。以上」
「そんな雑な!」
黒田が抗議したものの、教官はもう取り合わなかった。
「個人の順位は出てるんだから、それで十分だ。成瀬が一着。それは変わらん」
「ほら!」
すぐに小町が風磨へ向き直る。
「聞いた? 一着はうちやで」
「聞こえとるわ」
「三勝二敗」
「何回言うねん」
「次勝つまで言うたる」
「次は俺が勝つ」
また始まった二人を横目に、星羅が「結局、男女は仲良く引き分けってことね」と笑う。
さっきまで勝負に熱くなっていたはずなのに、終わってみれば男子十八点、女子十八点。
なんとも締まらない結果ではある。
それでも、観客の拍手を浴びながら三百メートルを走ったことも、ハクの癖を探りながら初めて同期と競走したことも、瞳子には全部が楽しかった。
そして何より、今日一番速かったのは小町だ。
その小町は風磨へ三本の指を突きつけながら、まだ「三勝二敗や」と言い続けていた。




