第33レース 三百メートル
柵の前へ一年生八人が集まると、教官は待機しているポニーたちを見渡してから、小さな箱を持ってきた。
「これから騎乗馬をくじで決める」
箱の中には、折り畳まれた紙が八枚入っているらしい。
瞳子はもう一度、柵の向こうへ目を向けた。
近くで見ると、やはり一頭ずつまるで違う。サラブレッドほど大きくはないとはいえ、馬の背の高さを表す体高も、身体つきも揃っているわけではなく、ずんぐりした馬もいれば、脚が長くすらりとして見える馬もいる。
じっと大人しく待っている馬の隣では、しきりに地面の匂いを嗅いでいる馬がいて、そのさらに向こうでは何度も首を振っている馬もいた。
「どれ引いても文句言うなよ」
教官の言葉に、星羅が箱を覗き込む。
「速いの入ってます?」
「全頭ポニーだ」
「いや、その中で速いの」
「乗れば分かる。早く引け」
結局、出席番号順に一人ずつ紙を引くことになった。
瞳子が折り畳まれた紙を開くと、そこには『ハク』と書かれている。
「ハク……」
名前を探して視線を巡らせると、職員が一頭のポニーを連れてきた。
栗毛の牡馬だった。額には名前の通り白い模様があり、瞳子が近づくと耳をこちらへ向けたものの、すぐに隣の馬へ興味を移してしまう。
「よろしくね」
首筋へ触れると一度だけ鼻を鳴らしたものの、嫌がっているわけでも、こちらへ強く興味を示しているわけでもなさそうだった。
小町が引いたのは黒鹿毛の小柄なポニーで、騎乗馬を確認した途端、「よっしゃ」と小さく声を漏らした。
「なんで、喜んでるの?」
瞳子が聞くと、小町は首を振った。
「黒鹿毛は、ジョッキーベイビーズで勝った馬と同じ毛色や」
「毛色同じでも、走りは違うでしょ」
「黒鹿毛とは相性ええねん」
そう答えた小町の視線は、もう自分が乗るポニーへ向いており、少し離れたところでは風磨も騎乗馬を確認している。
「小町」
「なんや」
「二勝二敗だからな」
風磨が口元を上げた。
「今日で三勝二敗にしてやる」
「負けてもあとで言い訳すんなよ」
「負けへん」
小学四年生から中学一年生まで四年続けて競い合い、その対戦成績は二勝二敗。まさか競馬学校へ入ってからも、ポニーでの五度目の勝負が待っているとは二人とも思っていなかったのだろう。
騎乗馬が決まると、今度は装具と斤量の確認が行われた。
今回のポニーレースは、八人全員が同じ斤量で走ることになっている。体重と装具を合わせて確認し、足りない分には重りを加えて条件を揃える。
「これで全員同条件だ。軽い重いを負けた理由にするなよ」
「先生、それ小町に言ってます?」
黒田が余計なことを言った。
「誰が軽いから勝つ言うてんねん!」
「まだ誰も言ってねえよ!」
すぐに言い返す小町の声を聞きながら、瞳子はハクの鞍を改めて確認する。その後、それぞれのポニーへ短時間だけ騎乗する時間が与えられた。
ハクへ跨った瞬間、まず感じたのは身体の近さだった。
もちろん九月から何度かポニーへ乗ってはいるが、普段の訓練馬とは一歩の幅も動きの細かさも違う。
軽く前へ促す。
ハクは歩き出したが、手綱を少し短く持って口元への働きかけを強めると、首を上げた。
「あれ?」
もう一度、今度は手綱を少し緩めてみると、さっきより素直に前へ出た。
抑えられるのが嫌なのかな。
そう思いかけたものの、瞳子はすぐに決めつけるのをやめた。一度そう動いたからといって、いつもそうだとは限らない。
条件を少しずつ変えながら反応を見ると、ハクは前へ行くこと自体を嫌がっているわけではなく、手元から強く制限されると動きが小さくなるらしい。それなら、この馬が自分から進めるところを邪魔しないほうがいい。
六月なら、一つの反応を見ただけで「この馬はこういう馬なんだ」と覚えようとしていたかもしれない。
今は、それだけでは足りないと思える。
耳の向きや首の高さ、身体の動きまで見ながら、短い時間で一つでも多く知っておきたかった。
「とこー」
星羅の声がして、瞳子は振り返る。
「こいつ、ヤンチャすぎない?」
星羅が引いたポニーは、さっきから一頭だけ妙に忙しかった。
首を何度も動かし、隣の馬が近づくたびに身体の向きを変えようとする。星羅が跨ってからも落ち着かない様子で、じっとしている時間のほうが短い。
「星羅ちゃん、大丈夫?」
「たぶん? 知らんけど」
「藍沢、余計なこと考えなくていいからな」
近くにいた教官が声をかけた。
「その馬は反応が大きい。慌てるなよ」
「はーい」
返事だけを聞けば、いつもの星羅だった。
ポニーが急に身体を動かしても、星羅自身はほとんど姿勢を崩さない。乗馬経験の差というより、動かされた瞬間に身体が勝手についていっているように見える。
やっぱり、こういうところはすごい。
そう思いながら視線を戻すと、黒鹿毛のポニーを一度前へ出したあと、すぐに速度を緩める小町が目に入った。もう一度走らせても長くは追わず、速さを確かめているというより、その馬がどれくらい促せばどれくらい動くのかを測っているように見える。
小町と風磨の二人だけは、やはり乗り方に迷いが少ない。ポニー競馬を経験してきた差なのだろうが、今の小町にはそれだけではないようにも見えた。
梨狩りの翌日、木馬の上で腹に力を入れすぎて身体を固めていた小町を覚えている。疲れると息まで止めてしまい、教官にも風磨にも指摘されていた。
今はあのときの窮屈さがなく、ポニーの細かい動きに合わせながらも必要以上に上半身が揺れず、力んでもいなかった。
「小町ちゃん、なんかいい感じだね」
近くを通ったときに声をかけると、小町がこちらを見る。
「ほんま?」
「うん。前より楽そう」
「そら、あれから何回木馬乗った思てんねん」
「知らないよ」
「数えてへんから、うちも知らん」
やがて準備の時間が終わり、八人はポニーとともに一般客から見えるエリアへ移動した。馬場の周囲には、午前中よりもさらに多くの人が集まっている。
最前列には子どもたちが並び、その後ろではスマートフォンを構えている人もいる。取材用の大きなカメラも何台かこちらへ向けられていた。
場内スピーカーから声が響く。
『お待たせいたしました。続いては、騎手課程一年生八名によるポニーレースです!』
歓声と拍手が起こった。
「うわ……」
もちろんダービーとは比べものにならないけど、思っていたよりは多い。
瞳子が客席のほうへ目を向けると、午前中の乗馬体験で話した女の子がこちらに気づき、大きく手を振っていた。瞳子も思わず手を上げかけたものの、今はレース前だと思い直してすぐに戻す。
「緊張しているのですか?」
隣から清華に聞かれる。
「ちょっと。でも楽しみのほうが大きいかも。清華さんは?」
「特には」
「ほんとに?」
「なぜ疑うんですか」
そう答える清華の視線は、すでに発走地点へ向いていた。
緊張していないというより、完全に勝負へ意識が切り替わっているように見える。
「清華さん」
「なんですか」
「男子に勝ちたい?」
「勝ちたいではなく、勝ちます」
間髪入れずに返ってきた。
八頭が向かう発走地点の先には、三百メートルのダートコースが真っ直ぐ伸びている。
普段サラブレッドで走る距離を考えればあっという間に終わる長さだが、だからといって最初から最後まで闇雲に走らせればいいわけでもない。三百メートルの中でどこまで馬を行かせ、どこで力を使わせるのか、その判断が少しずれるだけでも最後には差になる。
発走地点へ八頭が並ぶと、係員たちが一頭ずつ状態を確認していく。その先には真っ直ぐ伸びるダートとゴール板が見え、さっきまで聞こえていた観客のざわめきも、瞳子には少し遠く感じられた。
隣のポニーへ耳を向けるハクの首筋を軽く撫でながら、瞳子は小さく声をかける。
「よろしくね」
ここまで来たら考えすぎても仕方がない。ハクがどう走るのかを感じ、それに合わせるために今まで練習してきたのだ。
少し離れた位置では小町と風磨が前を向き、清華も静かに発走を待っている一方で、星羅のポニーだけは最後まで落ち着かず、何度も首を上下に動かしていた。
『まもなくスタートです』
場内アナウンスの声色が変わると、瞳子は一度ゆっくり息を吐き、前方へ意識を集中させた。
スターターが八頭の態勢を確認し、全馬が揃ったのを見届けた次の瞬間、発走の合図が出る。
一斉にポニーが飛び出した。
「っ!」
ハクも前へ出たものの、左右の馬が一気に近づいたことで首を上げ、ほんの一瞬だけ脚が鈍った。
前へ行けないわけじゃなく、他の馬が近いのを嫌がっているんだ。
瞳子は無理に押し込まず、前方にできたわずかな隙間へ向ける。
「行こう!」
進路が開いた途端、ハクの動きが変わり、そのまま前へ伸びていく。
『好スタートから成瀬! 先頭へ出ます! 狛井が二番手、その後ろも続いていく!』
小町ちゃんだ。
スタートしてすぐ、小町の黒鹿毛が先頭へ立ち、風磨もその後ろへつけ、その外から清華が追っている。男子三人も大きくは離れておらず、瞳子は六番手あたりだった。
後ろを確認する余裕はなかったが、スタート直後に星羅のポニーが大きく首を振っていたのだけは視界の端に入っていた。
前へ視線を戻すと、小町はすでに先頭へ立っていたが、序盤から飛ばしているようには見えなかった。後ろから風磨が迫っているのにむやみに手を動かすこともなく、黒鹿毛のポニーが自分から前へ出るリズムを崩さず、そのまま一定の速さで走らせている。
小町には昔から、時間の感覚が異様なほど正確なところがある。訓練でも、決められた時間を感覚だけで測らせればほとんどずれない。
それが三百メートルの中でも同じなのかまでは瞳子には分からなかったが、先頭にいる小町だけが、どこか慌てていないように見えた。
『先頭は成瀬! 狛井が半馬身差まで迫る!』
実況どおり、風磨が小町のすぐ後ろまで詰め寄り、もういつ並びかけてもおかしくない距離まで迫っている。それでも小町は、手脚を使ってさらに加速を促すことはせず、先頭を走りながらそれまでのリズムを崩さなかった。
え、待つの?
瞳子がそう思った直後、小町の手が初めて大きく動き、それに応えるように黒鹿毛のポニーがもう一段ギアを上げた。
『成瀬、ここからさらに伸びる!』
風磨もすぐに追い始め、その後ろでは清華が差を詰めようとしているのに、小町のポニーにはまだ余力があり、走りの勢いは少しも鈍らない。
最初から先頭を走り続けていたはずなのに、最後の勝負どころで使える力をまだ残していた。
瞳子もハクを前へ促し、五番手との差を少しずつ縮めていくものの、残された距離はもうわずかしかない。
三百メートルという距離では、馬の反応を一つ確かめ、どう動くかを判断しているうちにもゴールはどんどん近づいてくる。
『残りわずか! 成瀬先頭! 狛井が追うが差はつまらない!』
瞳子の前方に見える小町の背中は最後までほとんど崩れず、力んで身体を固めることもなく、ポニーの細かな動きに合わせながらまっすぐ前だけを見ている。
どこまで馬を行かせ、どこで我慢し、どの瞬間から残していた力を使うのか。その三百メートルすべてを、小町は自分の中で正確に測っているように見えた。
ゴール板が迫る中、風磨も最後まで懸命に追い続けていたが、二頭の差はほとんど縮まらないまま、小町のポニーが風磨より半馬身ほど前に出たまま、ゴール板を駆け抜ける。
直後、馬場を囲む観客から歓声が上がった。
最初から最後まで先頭にいたのは、小町だった。




