第32レース 祭りの日
九月に入ると、競馬学校から騎手課程の二年生の姿をほとんど見かけなくなった。
校外の厩舎実務が始まり、それぞれが美浦や栗東の厩舎へ出て、実際の競走馬の世話や調教の現場を学んでいるため、これまでのように食堂や訓練施設ですれ違う機会もほとんどなくなったのだ。
「静かだね」
夕食へ向かう途中、瞳子が何気なく口にすると、小町が隣で頷いた。
「せやな。獅音先輩おらんだけで三割くらい静かなんちゃう?」
「そんなに?」
「声デカいやん。あと、態度もな」
「本人に言ったら怒られるよ」
「言うたことあるで」
「あるんだ……」
そんな会話をしながら過ぎていく九月も、もちろん訓練が中心だった。
梨狩りのあとから、小町は以前にも増して自分の身体の使い方を気にするようになった。筋力をつけるだけではなく、どこに力が入り、疲れたときにどこから姿勢が崩れるのかを意識する。
目に見えて大きな出来事がなくても、毎日同じことをしているわけではない。
少しずつ変わりながら、日々の訓練は続いていた。
そんな九月半ばのある日。
授業の終わりに、教官が教卓の前で一枚の紙を持ち上げた。
「来月のオータムフェスについて話しておく」
教室の空気が少し変わる。
以前から十月に学校の一般公開行事があることは聞いていた。乗馬体験や馬車の試乗、ステージイベントなどが行われ、普段は関係者しか入らない学校へ一般客が大勢やって来る。
「一年生にも当日の役割を割り振る。来場者の案内、馬関係の補助、会場整理。そのほかにもいくつかあるが、詳細は後日伝える」
星羅が机へ頬杖をつきながら、小声で瞳子へ囁く。
「屋台あるかな」
「そこ?」
「祭りなんでしょ?」
「授業中だぞ、藍沢」
「聞こえてたんすか」
「聞こえるように喋ってただろ」
教室のあちこちから小さく声が漏れた。
教官は星羅を一度睨んでから、持っていた紙へ視線を落とす。
「それと今年は、一年生八名によるポニーレースを行う」
今度は明らかに教室がざわついた。
「ポニー?」
瞳子は思わず隣の小町を見る。
小町は驚いてはいるものの、瞳子とは少し違う顔をしていた。
その向こうでは風磨も顔を上げている。
「学校の馬場で、八人が一頭ずつ乗る八頭立てのレースを行う。もちろん正式な競走じゃない。オータムフェスのイベントの一つだが、一般客の前で乗る以上、遊び半分でやるなよ。走るのは砂の走路、ダートの直線三百メートルだ」
「ポニーって、あのちっちゃい馬ですよね?」
星羅が尋ねる。
「藍沢が想像してるほど全部が小さいわけじゃない。個体差もある」
「賞金は?」
「出ない」
「じゃあ急に興味薄れました……嘘です。めっちゃ楽しみです」
あまりにも分かりやすい言い直しに、黒田が隣で呆れた顔をした。
瞳子はもう一度、小町へ視線を向ける。
「小町ちゃん、ポニーレースってやったことある?」
「あるで」
「ほんと?」
「何回か」
「四回や!」
離れた席から風磨が口を挟んだ。
小町の眉がぴくりと動く。
聞けば、二人とも小四から中一の頃にポニー競馬へ続けて出場していたらしい。
それだけなら幼馴染同士で同じ競技をやっていたという話なのだが、どうも二人の間ではそれで終わるわけがなかった。
「どっちが勝ったの?」
瞳子が聞くと、小町と風磨がほとんど同時に口を開いた。
「うち」
「俺」
「……どっち?」
「二勝二敗や」
小町が答えた。
「でも、四年間のトータル的な着順だけで言ったらうちや!」
「アホか。一着かそれ以外かだけや」
普段から張り合う二人だが、どうやらこれは最近始まったことではないらしい。
星羅が面白そうに身を乗り出した。
「なにそれ。昔からライバルじゃん」
「そんなんちゃう。毎回おっただけや」
「毎回意識してたんだ?」
「してへん!」
即答する小町の横で、風磨もあからさまに言いたそうな顔をしている。
その後も普段の訓練は変わらず続き、その合間にはオータムフェスへ向けて、何度かポニーへ騎乗する機会も設けられた。
そうして九月が過ぎ――十月。
オータムフェス当日の競馬学校は、朝から普段とはまるで違う場所になっていた。
正門の向こうには開場を待つ人の列ができ、敷地内では職員や関係者が慌ただしく行き来している。一般客が入れるエリアにはテントが並び、そのさらに奥には色とりどりのキッチンカーまで見えた。
ソースの焦げる匂い、揚げ物の香り、甘い菓子の匂い。
馬場や厩舎の匂いに慣れきった瞳子には、それらが同じ学校の中から漂ってくること自体が妙に新鮮だった。
「唐揚げ」
隣から声がする。
見ると、星羅が一台のキッチンカーを凝視していた。
「朝ごはん食べたばっかでしょ」
「見るだけならゼロカロリー」
「意味分からん」
小町が呆れる。
「昨日も体重測ったやろ」
「食うとは言ってないじゃん。見てるだけ」
開場時刻になると、学校の中へ一気に人が流れ込んできた。
家族連れ、小さな子ども、競馬ファンらしい大人たち。帽子やタオルに競走馬の名前が入っている人もいれば、純粋に地域のお祭りとして遊びに来たらしい人もいる。
一年生八人にも、それぞれ役割が割り振られていた。
瞳子たち女子四人は午前中、乗馬体験エリアの案内と補助を担当することになった。実際に馬を引くのは職員や上級生が中心だが、来場者の列を整理したり、ヘルメットの着用を確認したり、小さな子どもへ馬へ近づく際の注意を伝えたりする。
「おねえちゃん、騎手なの?」
順番を待っていた小さな女の子に聞かれ、瞳子は一瞬だけ返事に迷った。
「まだだよ。騎手になるために勉強してるの」
「すごいね、こわくないの?」
「こわいより、わくわくするよ」
「のってみたい!」
女の子が声を立て、瞳子もつられて口元を緩めた。
その少し先では星羅が、子ども二人に囲まれている。
「お姉ちゃん髪きれい!」
「でしょ! これね。馬シャンってやつなんだ」
「うま……しゃん?」
「おばあちゃんが特別に。って、買ってくれたんだよ」
「星羅ちゃん、接客!」
「してるじゃん!」
小町は小町で、馬を怖がっている男の子へしゃがんで目線を合わせ、ゆっくり手を伸ばせばいいと教えていた。
清華も愛想よく振る舞うわけではないものの、聞かれたことには一つずつ丁寧に答えている。
学校で八人だけを相手にしているときとは、みんな少し違って見えた。
それから瞳子が気づいたのは、一般客だけではなかった。
馬場の近くやステージ脇には、首から取材証を提げた人たちが何人もいる。大きなカメラを肩へ載せたスタッフや、メモを取りながら職員へ質問している記者らしい姿も見えた。
「あれ、撮ってるよね?」
瞳子が小町へ囁く。
「そら来るやろ。学校のイベントやし」
「私たちも撮られるかな」
「もう撮られたんちゃう?」
「えっ」
慌てて振り返ると、少し離れた場所にカメラがあった。
「ど、どうしよう。変な顔してなかった?」
「今さらやろ」
「どういう意味!?」
ダービー研修の日にも公式SNS用の写真を撮られたことはある。
それでも、今日は少し感覚が違った。
学校の宣伝用に並ばされて撮るのではなく、自分たちが働いたり、馬へ触れたりしている姿を外から見られている。
そして午後になれば、馬に乗っているところまで見られる。
そう思うと、不思議と緊張より先に胸が高鳴った。
早く乗りたい。
一般客がいるからではない。
カメラがあるからでもない。
これまで訓練でしか乗ったことのない同期八人が、同じゴールを目指して一緒に走る。
それが単純に楽しみだった。
昼前になると、一年生は一度役割から外され、ポニーレースの準備へ移ることになった。
馬場裏の関係者エリアへ向かう途中、瞳子たちは男子四人と合流する。
「緊張してんのか?」
黒田が聞いてきた。
「ちょっとだけ。でも楽しみ!」
「初めてなんだろ?」
「ポニーはね」
「女子は成瀬以外全員初めてか」
黒田がそう言うと、星羅は「そうなるね」と特に気にした様子もなく答えた。
「男子は経験者多いし、ちょっと有利かもな」
宮坂も何気なく続ける。
「経験だけで勝てるんやったら楽やな」
小町が返すと、風磨がすぐに反応した。
「それ、経験者のお前が言う?」
「経験あるから分かんねん」
二人の目つきが変わった。
九月にポニーレースの開催を聞かされてから、何度かポニーへ乗る機会は設けられていた。
瞳子たち初経験組も、スタートしたときの加速の感覚や、身体の大きさ、普段乗るサラブレッドとの違いを少しは知った。
それでも、小町と風磨がポニーへ跨ったときだけは、明らかに空気が違った。
「男子のほうが有利、ですか」
不意に清華が口を開いた。
声はいつもと変わらず落ち着いていたが、男子四人を見る目がほんの少しだけ鋭くなった気がした。
「では、男子と女子で勝負をしましょう」
「え?」
瞳子が清華を見る。
星羅まで目を丸くした。
「清っちからそういうこと言うんだ?」
「何かおかしいですか?」
「いや、めっちゃ意外」
「馬術競技三連覇やもんな、トップアスリートは大の負けず嫌いやろ」
清華は小町の指摘には答えず、男子側へ視線を戻した。
「いいじゃん。受けてやるよ」
黒田が応じると、三浦もすぐに乗った。
「こっちが有利だし、良いんじゃね」
「へぇ そっちが有利なん?」
小町がすぐに返す。
「なんだよ、その言い方」
「せやから、経験あるだけで勝てるなら苦労せえへんって言うとるだけや」
「お前、清華が言い出した勝負なのに、もう一番やる気になってるやん」
風磨が横から口を挟む。
「売られた勝負に乗っただけや!」
「誰に売られたんや。言い出したん女子側やろ」
「細かいこと気にすんな!」
「めちゃくちゃやな、お前」
「そもそも風磨には昔から負けたないねん!」
「ほら、結局やる気満々やんけ!」
あっという間に声が大きくなっていく。
清華は勝負を持ちかけた本人なのに、いつもと変わらない表情で男子側を見ているし、星羅は面白そうに眺めているだけだ。
「ちょ、ちょっと待って」
瞳子が両手を上げた。
「男女で勝負するのはいいけど、どうやって勝ったほう決めるの?」
一瞬、全員が黙った。
「……一着取ったほう?」
黒田が言う。
「それやったら一人だけの勝負になるやん」
小町がすぐに返す。
「四人ずつなんだからさ」
瞳子は少し考え、指を折りながら続けた。
「一着が八点、二着が七点、三着が六点って、一個ずつ減らしていくのはどう? 八着が一点。それで男子四人と女子四人の点数を全部足して、多かったほうが勝ち」
「あ、それ分かりやすいじゃん」
星羅がすぐに頷いた。
「個人の順位はそのまま残るしな」
三浦も納得したように言う。
清華だけはすぐに返事をせず、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
何かを数えているようにも見えたが、やがて顔を上げる。
「……それでいいと思います」
「よし、決まり!」
黒田が手を叩いた。
「後から文句言うなよ、女子」
「そっちこそ」
小町が即座に返す。
「清っち、ガチで勝つ気?」
星羅が横から尋ねる。
「勝負をする以上、負けるつもりはありません。藍沢さんも頑張ってください」
「あーね。でも、アタシ初めてなんだから、ゴールするだけでも良くね?」
「ダメです。一つでも上の着順を取ってください」
普段、誰かと言い争うこともほとんどなく、自分から前へ出ることも少ない。
それなのに勝負となった途端、誰より先に男子へ挑んだのは清華だった。
もしかすると、清華さんって思っていたよりずっと負けず嫌いなのかもしれない。
「じゃあ決まりやな」
小町が腕を組む。
「言い出したん清華ちゃんなんやから、ちゃんと点稼いでや」
「成瀬さんこそ。経験者なのでしょう?」
「もちろん。風磨含めて男子には負けへんで」
「お前、勝手に名指しすんな」
さっきまで学校のお祭りだったはずなのに、いつの間にか同期八人の勝負になっていた。
そのことが、瞳子にはなんだかおかしかった。
「斉藤」
教官の声が飛んできた。
「はい!」
「そろそろ騎乗馬の確認するぞ」
「はい!」
返事をして、瞳子は馬場の奥へ目を向ける。
柵の向こうには、今日八人が乗るポニーたちが待っていた。
大人しく立っている馬もいれば、隣を気にして落ち着かない馬もいる。首を高く上げたまま周囲を見回している馬もいて、同じポニーと呼ばれていても、一頭ずつ雰囲気がまるで違った。
誰に、どの馬が当たるのだろう。
そう考えた瞬間、瞳子の胸がまた少し高鳴った。
男子に勝つのもいいし、もちろん一着も取りたい。
でも、その前に。これから、自分が乗るのはどんな馬なのか。
瞳子は八頭のポニーを眺めながら、それを知るのがいちばん楽しみだった。




