第31レース 力の使いどころ
梨狩りから学校へ戻った翌日、小町はさっそく昨日聞いた話を試していた。
午後の授業を終え、夕食までにはまだ少し時間がある。
木馬の置かれた訓練スペースへ顔を出した瞳子が見つけたのは、鐙に足をかけたまま背筋を伸ばし、妙に険しい顔をしている小町だった。
「……何してるの?」
「見たら分かるやろ。昨日のやつ」
「お腹?」
「そう」
返事をしながら、小町は自分の腹へ力を込めたらしい。
姿勢がさらに真っ直ぐになる。
真っ直ぐというより、固まった。
「小町ちゃん」
「なに?」
「なんか、すっごい力入ってない?」
「入れとるんやから当たり前やろ」
「でも馬に乗ってるっていうより、動かないように耐えてる人みたい」
「耐えてるちゅーねん!!」
小町が一度力を抜き、大きく息を吐いた。
昨日、火山から教わったのは、背中だけで姿勢を保つのではなく、腹部を含めた体幹全体を使うということだった。
だからといって、腹に思い切り力を入れればいいわけではないらしい。
そこまでは小町自身も分かっているようだが、では実際にどうすればいいのかとなると、話は別だった。
「もう一回」
小町が姿勢を整える。
瞳子は隣へ回り込み、その様子を眺めた。
昨日までより背中は反っていないように見える。ただ、その代わり肩にまで力が入っていて、両腕もどこか窮屈そうだった。
「瞳子ちゃんも乗ってみ。自分も試す言うてたやろ」
「あ、そうだった」
隣の木馬へ跨り、瞳子も腹へ力を入れてみる。
普段、騎乗中に腹筋をまったく使っていないわけではないはずだ。それでも、改めてそこだけ意識すると途端に分からなくなる。
お腹に力を入れて、それから背筋を伸ばす。
肩の力を抜こうとすると、今度は腹の力まで一緒に抜けてしまう。
「……むずかしい」
「やろ?」
「小町ちゃん、昨日までこれ知らずに乗ってたの?」
「知らんいうか、教官から体幹使えとは前から言われとったで。でも、うちの中では『もっと筋力つけな』で終わってたんや」
小町は自分の腹へ手を当てる。
「昨日、火山先輩に背中ばっかり使っとるって言われて、初めてそこまで考えた」
「筋力って、つけるだけじゃなくて使い方もあるんだね」
「そらそうやろ。腕立てできたら、上手く乗れるんやったら、話早いわ」
「確かに」
納得したところで、入口から足音が聞こえた。
「何やってんだ、お前ら」
振り向くと、風磨がタオルを肩へ掛けて立っていた。
どうやら男子側も自主練を終えたところらしく、額に汗が残っている。
「見たら分かるやろ」
小町がさっき瞳子へ返したのとまったく同じ言葉を使った。
「分からんから聞いてんねん」
「体幹」
「また?」
「またってなんや」
「お前、昨日からずっと腹とか背中とか言うてるやん」
「必要なんやからしゃあないやろ」
小町は言い返しながら、もう一度姿勢を作る。
腹へ力を入れ、背中が反らないように意識しながら、そのまま十秒ほど保ったところで、風磨が眉を寄せた。
「小町」
「なに?」
「息」
「……息?」
「止まってる」
一拍遅れて、小町が勢いよく息を吐いた。
「止まってへんし!」
「止まってたやん」
「ちょっとだけや!」
「それを止まってる言うねん」
風磨は呆れたように鼻から息を抜いた。
「しんどなると息止めるん、昔からやろ」
「……そうやったっけ?」
「そうやった。鉄棒でも走るときでも、きつなったらすぐ顔真っ赤にして息止めとったやん」
「いつの話してんねん」
「小学校」
「古すぎるわ!」
「癖は変わってへんけどな」
言い返そうとした小町の口が、一瞬だけ止まった。
それから何もなかったように前を向き、もう一度姿勢を整える。
「ほな今度は呼吸する」
「最初からしろよ」
「風磨は黙っとけ」
「教えたったのに」
「頼んでへん」
二人のやり取りを聞きながら、瞳子は首を傾げた。
小町自身が忘れているような昔の癖を、風磨はよく覚えているらしい。
幼馴染なら、そんなものなのだろうか。
「とこ、何してんの?」
今度は星羅までやって来た。
その後ろには清華もいる。
「みんな来た」
「集合場所じゃないんだけどな」
小町がぼやく。
事情を説明すると、星羅は面白そうに空いている木馬へ跨った。
「要は腹に力入れながら普通にしてりゃいいんでしょ?」
「そう簡単に――」
「こんな感じ?」
星羅が背筋を伸ばしたまま、腹へ軽く力を入れる。
肩にはほとんど余計な力が入っておらず、そのまま普通に喋っている。
小町が黙った。
「……なに?」
「腹立つわ!」
「なんで!?」
「星羅はそういうの感覚でできるから嫌やねん」
「褒められてんの? けなされてんの?」
「両方」
清華は三人の木馬を順番に見てから、小町へ視線を戻した。
「成瀬さん」
「今度はなに?」
「前より肩は上がっていません」
「ほんま?」
「ただ、腰を動かさなさすぎです」
「……はい?」
「木馬なので分かりづらいですが、それだけ身体を固めたままだと、実際の馬の動きについていけないと思います」
小町の顔から、ほんの少しだけ達成感が消える。
「一個直したら一個増えるやん……」
「普通では?」
「清華ちゃん、たまに平気で残酷なこと言うよな」
「事実を言っただけです」
「それが残酷や言うてんねん」
昨日、火山が「だから難しい」と言っていた意味が、少しだけ分かった気がした。
翌日の騎乗訓練。
馬場へ出た小町は、いつも以上に自分の身体へ意識を向けているように見えた。
瞳子も別の訓練馬へ跨りながら、ときどきその姿を視界の端へ入れていた。
「成瀬、肩に力入ってるぞ」
「はい!」
教官の声が飛ぶと、小町はすぐに肩を落とした。
「背中だけで姿勢作るな。腹も使え」
「はい!」
昨日から何度も聞いた言葉だった。
小町が腹部へ力を入れる。
「固めすぎだ。腰まで止めるな」
小町が慌てて力を緩めると、今度は数歩もしないうちに上半身がわずかに前へ流れた。
「違う。全部一遍に直そうとするな」
教官が馬場の中央から小町を見る。
「まず呼吸しろ」
「……はい」
返事のあと、小町の胸が大きく上下した。
瞳子は思わず風磨のほうを見る。
少し離れた位置で騎乗していた風磨も、ちょうど小町を見ていた。
視線に気づいたのか、すぐ前へ向き直る。
「斉藤! 人の騎乗見てる場合か!」
「はいっ!」
慌てて自分の馬へ意識を戻す。人のことを気にしている場合ではなかった。
今日の馬は、脚で送る合図には素直に応じるものの、少しでも瞳子の上半身が前へ流れると、それにつられるように一歩ごとの進み幅――歩度まで変わってしまう。
自分がどう乗るかで、馬の動きも変わる。
それは以前から何度も感じてきたことだった。
それでも、小町のことが少し気になった。
馬場を一周して再び近くを通ったとき、小町の姿勢はさっきより落ち着いて見える。
まだ完璧ではない。
身体の小ささも、筋力が足りないという課題も、昨日今日で消えるはずがない。
それでも、さっきまで上がりかけていた右肩が、途中でほんの少し動いた。
あっ、 上がる。
その直前で、小町自身が気づいたように肩を落とした。
「成瀬」
教官が呼ぶ。
小町の身体が一瞬だけ強張る。
「今、自分で戻したな」
「……はい!」
「それでいい。崩れないことより、崩れたときに気づけ」
小町が小さく頷く。
「筋力は一日じゃつかん。だが、自分がどこで崩れるかは今日から覚えられる」
「はい!」
その返事は、さっきまでより少しだけ大きかった。
その後も騎乗訓練は続き、小町は馬場を回るたびに、自分の姿勢を確かめていた。
疲れが溜まってくると、やはり右肩が上がり、腰も少しずつ反り始める。
そのたびに呼吸を整え、腹部を意識して姿勢を戻すものの、しばらくすればまた別のところが崩れてしまう。
それでも訓練の後半になる頃には、教官から指摘される前に自分で気づき、修正できる場面が少しずつ増えていた。
やがてその日の訓練が終わり、騎乗した馬の汗を拭い、手入れを済ませて馬房へ戻す。
厩舎を出ると、少し先を歩いていた小町が壁へ背中を預け、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。
「むり……」
「昨日より疲れてない?」
声をかけると、小町は力なく顔を上げた。
「今まで使えてへんかったとこまで意識したからやろ。腹も腰も背中も、全部だるい」
「でも教官に褒められてたじゃん」
「褒められたいうか、スタート地点見つけただけや」
小町が壁に頭を預ける。
そこへ、少し遅れて風磨が厩舎から出てきた。
しゃがみ込んでいる小町を見るなり、足を止める。
「また死んどる」
「死んでへん」
「顔は死んどるで」
「うるさい」
風磨は自分の首へ掛けていたタオルを外すと、小町の頭へ放り投げた。
「汗すごいぞ」
「自分の使ったやつ投げんなや!」
「まだそんな使ってへん」
「そういう問題ちゃう!」
文句を言いながらも、小町はそのタオルを頭からどけると、結局そのまま手に持った。
「で?」
風磨が聞く。
「なにが?」
「息、止めへんかった?」
一瞬、小町が黙る。
「……一回だけ」
「止めとるやん」
「途中からはちゃんとした!」
「ならええけど」
風磨はそれだけ言うと、先に建物のほうへ歩いていった。
小町は手元のタオルを見たあと、その背中へ向かって声を飛ばす。
「これ返すで!」
「あとでええ!」
遠ざかる風磨へまだ何か言いたそうにしてから、小町は諦めたように息を吐いた。
「ほんま、昔から余計なことばっか覚えとるわ」
「でも、小町ちゃんが忘れてたこと覚えてたね」
「幼馴染だからやろ」
小町は何でもないことのように答え、立ち上がった。
その手には、風磨のタオルが残っている。
「瞳子ちゃん、行くで」
「あ、うん!」
先に歩き始めた小町を追いながら、瞳子はもう一度その背中を見る。
右肩は今は上がっていない。
けれど、疲れればまた上がるかもしれない。
だから気づいて、そのたびに戻せばいい。
一度で全部できなくても、自分の癖をひとつずつ知っていけばいい。
そういう意味なら、小町は今日、昨日まで知らなかった自分を一つ見つけたのだろう。
八月も、もうすぐ終わる。
そして九月になれば、二年生たちは校外の厩舎実務へ入り、学校で顔を合わせる機会も減っていく。
その先には、秋の大きな学校行事が待っていた。
オータムフェス。
一年生にとって初めて迎えるその日が、少しずつ近づいていた。




