第30レース 軽ければいいわけじゃない
「もちろん体重管理は必要だよ。レースじゃ、騎手だけじゃなく鞍や重りまで含めた『斤量』っていう決められた重さで乗らなきゃいけないし、そのために自分の身体を管理するのも仕事のうちだから」
火山はそう答えると、残っていた梨を一口かじった。
「ただ、軽くすることばっかり考えて身体が弱くなったら、それはそれで乗れなくなる。馬の上で姿勢を保つのも、行きたがる馬を抑えてペースを保つのも、最後までしっかり動かすのも、結局は自分の身体を使うからね」
「でも、筋肉つけたら体重も増えますよね?」
「増えるだろうね」
「どないせえっちゅうねん」
思わず漏れた小町の声に、火山が吹き出した。
「そこなんだよ」
「そこなんですか?」
「そう。強くなりたいからって何も考えずに身体を大きくすればいいわけじゃないし、数字だけ軽くすればいいわけでもない。自分に必要な筋力をつけて、それをちゃんと使えて、そのうえで体重も管理する」
火山は言いながら、小町のほうへ目を向ける。
「だから難しい」
「うわぁ……」
小町が心底嫌そうな声を出した。
その横で、星羅も自分の腕を見下ろしている。
「じゃあアタシも、筋肉あるからラッキーってだけじゃない感じ?」
「藍沢さんは一年の中じゃ身体できてるほうだろうけど、それを維持しながら騎手の身体にしていく必要はあるかな」
「騎手の身体?」
「競技ごとに必要な身体って違うでしょ。短距離走の選手と体操選手が同じ身体じゃないのと一緒」
「あー……」
星羅は納得したような、していないような声を出したあと、持っていた梨を見た。
「食べる前に聞きたくなかったかも」
「聞いたからって、食べちゃダメって話でもないよ」
体重について考えたことがないわけではない。入学してから毎日のように測っているし、食事も学校側が管理している。
けれど、今まではどこか単純に考えていた。
重くなりすぎないようにする。必要な筋力をつける。
その二つを別々のこととして考えていた気がする。
「火山先輩って、そういうの最初から気にしていたんですか?」
瞳子が聞くと、火山はすぐに首を横へ振った。
「全然。入ったばっかの頃なんて、私も軽ければ軽いほどいいくらいに思ってたし」
「先輩でも?」
「先輩っていっても一年しか違わないからね」
「確かに」
「おい、それ俺らが全然成長してないみたいに聞こえるぞ」
畑が口を挟むと、火山の口元が緩んだ。
「獅音は最初から態度だけは三年生みたいだったけど」
「態度だけってなんだよ」
「態度だけ」
一条まで同じ言葉を重ねる。
「優那まで乗っかんな」
「事実だし」
「お前らなぁ……」
畑が二人を睨むと、小町は堪えきれなかったように声を漏らし、その隣では星羅まで肩を揺らした。畑の視線が一瞬だけそちらへ向かったものの、なぜかすぐ手元の梨へ戻っていく。
やっぱり変だ。
瞳子はそう思ったものの、今聞いたらたぶん面倒なことになる気がして、口には出さなかった。
「小町」
星羅が梨を食べながら、急に名前を呼ぶ。
「なに?」
「じゃあさ、筋トレめっちゃやって筋肉つければ解決、ってわけじゃないんだな」
「……せやろな」
小町の返事は、それまでより少し遅かった。
ここ最近、午前の訓練が終わってからも木馬へ跨り、自分から残って身体を動かしている。
瞳子が知っているだけでも、何度も見た。
小町自身も、今いちばん分かりやすい課題は筋力だと言っていたばかりだ。
「別に筋トレが悪いって話じゃないよ」
火山も、それに気づいたらしい。
「必要ならやる。ただ、どこをどう鍛えるかとか、それを乗ってるときにどう使うかまで真剣に考えたほうがいいってこと」
「どう使うか……」
「成瀬さんって、姿勢保とうとすると背中ばっかり頑張ってない?」
「え?」
小町が顔を上げた。
「何回か見たことあるけど、疲れてくると腰が反ってるときあるから」
「あ……」
瞳子にも思い当たるものがあった。
さっき木馬で自主練していたとき、清華から右肩が上がっていると指摘されていた。あれも疲れてきたことで、どこか別の場所へ力が逃げていたのかもしれない。
「姿勢って、背筋だけでどうにかするものじゃないよ。お腹も含めた身体の真ん中で支えて、馬が動いても上半身が必要以上にぶれないようにしないと、どこか一か所に負担が寄るから」
火山が自分の腹部を指しながら説明すると、小町もつられるようにそこへ手を当てた。
「腹筋……?」
「腹筋だけっていうより、体幹全体かな。教官にもそのうち細かく言われると思うけど」
「うち、腹筋もそんな強ないです」
「じゃあ、ちょうど課題見つかったじゃん」
「嬉しないですけどね」
「課題がなくなるのは卒業してからでも無理じゃない?」
一条が淡々と口を挟んだ。
梨を食べながら言うせいか、深刻な話をしているようにはまるで聞こえない。
「優那、それ励ましてる?」
「別に」
「でしょうね」
火山は呆れたように肩をすくめた。
小町も困ったように口元を緩めていたが、その手はまだ自分の腹の上に置かれたままだった。
梨狩りが終わる頃には、日差しがさらに強くなっていた。
採った梨を持ち帰るための箱へ詰めたり、梨園の人へ礼を言ったりしているうちに、一年生と二年生の集まりも自然といくつかに分かれていく。
男子たちは少し離れたところで黒田たちと二年生の男子が何か話しており、畑もそちらへ呼ばれていった。
気づけば、瞳子の近くに残っていたのは小町、星羅、清華、それから火山と一条の女性陣だった。
「暑……」
星羅が日陰へ逃げ込む。
「梨食べたのに喉渇いた」
「水飲みや」
「分かってるって」
ペットボトルを取り出した星羅を見ながら、火山が何気なく口を開いた。
「体重の話ついでに言っとくけど、女子は数字だけ見て一喜一憂しないほうがいいよ」
「え?」
今度は瞳子だけでなく、小町と星羅も同時に火山を見た。
清華も何も言わないまま視線を向けている。
「日によって身体の状態って変わるから。特に私らは、周期で体調変わったり、水分ため込みやすくなったりすることもあるでしょ」
「ああ……」
小町が小さく頷いた。
「お腹痛くなったりするやつ?」
星羅が遠慮なく言うと、小町が横から肘で軽く小突いた。
「言い方」
「だってそうじゃん」
「まあ、そうなんだけど」
火山は少し困ったように眉を下げてから、話を続けた。
「体調だけじゃなくて、食欲が変わったり、同じように過ごしてても身体の感じが違ったりする人もいる。だから昨日と同じことしてるのに数字が違うって、自分を責めすぎないほうがいい」
「でも、体重は管理せなあかんのですよね?」
「するよ。ただし、無理やり数字だけ合わせるって意味じゃない」
火山の声が、少しだけ真面目になった。
「自分の身体がどういうときにどう変わるのか知っておくのも管理だから。しんどいなら先生に言えばいいし、必要なら医務の人に相談する。黙って一人で何とかしようとするほうが危ないからね」
瞳子は黙って頷いた。
学校へ入ってから、体重を測ること自体はすっかり日常になっている。
数字が増えたり減ったりすれば、その理由を考えることもある。
でも、身体はいつも同じではない。
それは馬についてなら、最近ようやく分かり始めたことだった。
昨日と今日で反応が違う。同じ馬でも、毎回同じように動くわけではない。
考えてみれば、人間の身体だけが毎日まったく同じなはずもない。
「なんかさ」
星羅がペットボトルを握ったまま、少しだけ眉を寄せる。
「めんどくさくない?」
「めんどいよ」
一条が言った。
「運動できればいいと思ってた。アタシ、身体動かすの得意だし」
「だから余計に面倒なんじゃない?」
「どういう意味っすか?」
「今まで得意だったことが、そのまま全部正解になるわけじゃないってこと」
一条は眠そうな顔のまま、星羅の腕へ視線を落とした。
「筋肉あるのは長所。でも、騎手としてどう使うかは別」
「うわ。火山先輩と同じこと言ってる」
「優那より私のほうが先に言った」
「どっちでもよくない?」
「先に言ったほうが勝ち。レースと一緒」
「はいはい」
二年生二人のあっさりしたやり取りに、星羅が口の端を上げた。
その隣で、小町だけはまだ何か考えている。
「小町ちゃん?」
瞳子が呼ぶと、小町は少し遅れて顔を上げた。
「ん?」
「難しい顔してる」
「そらするやろ。筋肉足らんからつけなって思ってたのに、つけ方も考えなあかんし、使い方も考えなあかんし、体重も見なあかんのやで?」
「いっぱいあるね」
「他人事みたいに言うな」
「私もあるよ?」
「その顔で言われても説得力ないわ」
「どんな顔!?」
思わず声を上げた瞳子に、小町の表情もようやく少しだけ和らいだ。
それでも、さっきまでとは違う。
梨を選んでいたときにはなかったものが、小町の頭の中にひとつ増えたのだろう。
筋肉をつける。
それだけなら、昨日までと同じように残って鍛えればいい。
でも今日聞いた話は、その先まで考えろと言っている。
何を鍛えるのか。
それをどう使うのか。
そして、その身体をどうやって騎手として保っていくのか。
「……次、木馬乗るとき」
小町が自分の腹へ手を当てた。
「ちょっと意識してみよかな」
「お腹?」
「うん。背中ばっかりで支えとるって言われたん、ちょっと心当たりあるし」
「じゃあ私も見る!」
「なんで瞳子ちゃんが嬉しそうなん」
「だって、分かること増えるじゃん」
「自分の課題ちゃうからって気楽やなぁ」
「そんなことないよ!」
瞳子が抗議すると、小町は「はいはい」とでも言いたげに目を細めた。
その様子を見ながら、瞳子も自分の腹へそっと力を入れてみる。
立っているだけでは、よく分からない。
次に馬へ乗ったときなら、何か違いが分かるだろうか。
梨狩りへ来たはずなのに、帰る頃にはまた馬のことを考えている。
結局そうなるんだな、と瞳子は自分でも少し可笑しくなった。




