第29レース 夏はまだ終わらない
八月も終わりに近付いているのに、朝から容赦なく暑かった。
日の出からまだ一時間も経っていない。斜め上から照りつける日差しとその照り返しの中、走路を一周する頃には、早くも額から汗が流れ落ちる。
二周目に入る頃には、背中に張りついたシャツが不快に肌へまとわりついていた。
「暑っ……。マジで朝?」
少し前を走る星羅が、首元をぱたぱた引っ張りながら空を睨んだ。
「朝だよ。まだ六時前だもん」
「六時前でこれなら昼どうなんの? 日本、住むとこじゃなくね?」
「毎年住んどるやろ……!」
その星羅に、後ろから小町の少し苦しそうな声が飛んでくる。
その少し先では清華が一定のペースを崩さず走っている。呼吸こそ普段より深いものの、こちらのように暑いだの疲れただのと口にすることはない。
サマーキャンプから戻って数日。
清華は相変わらず必要以上に誰かへ近づかないし、食堂でも自分から会話の中心に入ることはほとんどない。瞳子に対しても、前より急に話しかけるようになったわけではなかった。
ただ、以前なら三人の会話を横で聞いているだけだったところで、たまに一言返すようになった。
星羅が朝からうるさければ「走る前からそれだけ喋れるなら余裕ですね」と言うし、小町が教科の小テストを嘆けば「昨日復習していなかったからでは?」と容赦なく刺す。
その程度だ。
「斉藤! 藍沢! 喋る余裕があるならペース上げろ!」
後ろから飛んできた教官の声に、瞳子と星羅は同時に肩を跳ねさせた。
「はい!」
「余裕ないです」
そう主張しながら、星羅は分かりやすくペースダウンしてみせた。
悲壮感を演じるように背中を丸めて走っているが、足取りには全く乱れがない。
「藍沢、お前だけ追加一周するか?」
「しません!」
星羅が急に速度を上げ、瞳子も笑いながらその背中を追った。
午前の騎乗訓練では、瞳子は栗毛の訓練馬に跨っていた。
最近になって、馬へ乗った瞬間に考えることが増えた。
今日は自分から前へ出たがっているのか。それとも、促しても反応が鈍く少し重いのか。
首の使い方は。背中の動きは。脚で馬の腹へ合図を送ったとき、どれくらい素早く反応するのか。
以前なら「ちゃんと乗る」ことで頭がいっぱいだったのに、今はその前に、この馬が今日どう動いているのかを知りたくなる。
もちろん、全部が分かるわけではない。
むしろ意識するようになってから、分からないものが増えたような気さえしていた。
「斉藤、そこで脚を使い続けるな。反応したら一度抜け」
「はい!」
教官の声を受け、瞳子は馬の腹を圧していた脚の力をすぐに緩めた。前へ出ろという合図は、馬が応えたあとまで送り続けるものではない。
栗毛の耳が一度だけ後ろへ動く。 今のは、自分の脚に反応したのだろうか
確かめたい気持ちはあったが、考え込む前に次の動きへ備える。
サクラに乗ったときも、ハヤテに乗ったときも、一度できただけでは駄目だと言われた。
感じて、考えて、それから動く。
その順番を、少しずつ自分の身体に覚え込ませるしかない。
訓練が終わる頃には、朝とは比べものにならないほど汗をかいていた。
馬を厩舎へ戻し、手入れを終えてから建物へ戻る途中、瞳子は木馬の置かれた訓練スペースに人影を見つけた。
「あれ?」
小町だった。
午前のメニューはもう終わっている。それなのに、小町は木馬へ跨り、鐙に足をかけたまま姿勢を保っていた。
額には汗が浮かび、細い腕にも力が入っている。
「小町ちゃん、またやってるの?」
声をかけると、小町がちらりとこちらを見た。
「またってなんやねん」
「昨日も残ってたでしょ?」
「見とったん?」
「通ったから」
瞳子が近づくと、小町は一度木馬から降り、首にかけていたタオルで顔を拭った。
「だって、まだ足らへんもん」
「筋力?」
「それ以外も山ほどあるけど、今いちばん分かりやすいんはそこやな」
そう言って、小町は自分の腕を見下ろした。
身長も小さく、身体も細い。入学した頃からそれは変わらず、騎乗技術を理解する速さに身体が追いつかないことを、本人がいちばん気にしている。
「前よりついたんじゃない?」
「そら、入った頃よりはな。でも清華ちゃんとか星羅見てたら、まだ全然やろ」
「私もいるよ?」
「瞳子ちゃんは牧場育ちやから地味に身体できとるしな。せやから、うちもやれるときにやっとくねん。瞳子ちゃんもやる?」
「やる!」
即答すると、小町が目を丸くした。
「なんでそんな嬉しそうなん」
「一人より二人のほうが楽しいじゃん」
「自主練に楽しさ求めとらんねんけど」
文句を言いながらも、小町はもう一度木馬へ跨った。
瞳子も隣の木馬へ向かう。
しばらくすると星羅までやって来て、何をしているのか聞いた末に混ざり、そのさらに少し後には清華が通りかかった。
「清っちもやる?」
星羅が呼びかける。
清華は立ち止まり、三人を眺めた。
「私は先ほど終えました」
「自主練もう終わってんの?」
「はい」
「早っ」
「藍沢さんたちが始めるのが遅いんです」
清華はそのまま行くのかと思ったが、小町の姿勢を一度見てから足を止めた。
「成瀬さん」
「ん?」
「さっきから右肩が少し上がっています」
「え、ほんま?」
「疲れてくると余計に」
小町が姿勢を直す。
「こう?」
「さっきよりは」
「ありがと」
「いえ」
それだけ言うと、清華は建物のほうへ歩いていった。
星羅がその背中を眺めてから、にやっとする。
「清っち、前よりちょっとだけ世話焼くようになってね?」
「言うたら逃げるから黙っとき」
「猫みたいに言うなよ」
瞳子は笑いながら、もう一度姿勢を整えた。
授業の最後。
一年生八人が教室に座っていると、教官は前に立ったまま簡単に用件を告げた。
「今度の水曜、二年生と一緒に外出する」
途端に星羅が顔を上げる。
「どこですか?」
「梨園だ」
「梨!! いや、あり!!」
教室の中でいちばん大きな声が響いた。
黒田が横から笑う。
「食い物って分かった瞬間それかよ」
「梨好きだし。てか梨狩り?」
「そうだ。ただし遊びに行くわけじゃない」
教官が先回りして釘を刺す。
「二年生は九月から校外の厩舎実務に入る。学校で顔を合わせる機会も今までより減る。その前の交流も兼ねている」
「ダウナー先輩が梨狩り……なにそれ、イメージするだけでおもろいんだが」
星羅が嬉しそうに声を上げる横で、小町も「久しぶりにゆっくり話せそうやな」と呟いた。
清華だけは特に表情を変えなかったものの、嫌そうにも見えない。
「あと、言っておくが」
教官が一年生全員を見回す。
「食い放題だと思うなよ」
「えっ」
星羅の顔から笑顔が消えた。
「藍沢。お前に言ってる」
「まだ何もしてないじゃないですか!」
「する顔してるんだよ」
教室に笑いが起こった。
水曜日。
梨園へ到着すると、木々の間に丸々とした梨がいくつもぶら下がっていた。
「すっげ!」
バスを降りるなり、星羅が真っ先に声を上げた。
「でかくない? 普通こんなデカい?」
「品種によるんちゃう?」
「小町、詳しい?」
「詳しそうに見えるんか?」
「質問を質問で返すな」
「むっちゃ。腹立つわぁ」
二人のやりとりを聞きながら、瞳子も木を見上げる。
袋を外された梨の表面には細かな点が散り、枝の向こうにも同じような実がいくつも見えた。
「どれ取っていいんだろ」
「説明聞いてからにせえよ」
小町に止められたところで、後ろから声がした。
「斉藤なら説明聞く前に一個もぎそうだけどな」
聞き覚えのある声に、言葉に振り返る。
畑獅音が、いつもの鋭い目つきのまま立っていた。その隣には火山新煌と一条優那もいる。
「もぎませんよ!」
「ほんとか?」
「私、そんなイメージなんですか?」
「食堂で、大盛りを食べてるのは見掛ける」
「で、でも、ちゃんと体重管理したうえでの大盛りですからね。栄養価やらカロリー計算やら」
「それは、当たり前だ」
畑が笑う。
学校では常にどこかギラついて見える先輩だが、こうして訓練以外で話すと、案外普通に冗談も言う。
そこへ小町が近づいた。
「獅音先輩、ご機嫌さんですね。梨、好きですもんね」
「あ? どこで知ったんだよ」
「昔。先輩のお父さんが、おじいちゃんの厩舎に来たときに言ってはりました」
「はずっ。他に変なこと聞いてないよな?」
「どうでしょ」
「お前、先輩に対する敬意どこ置いてきた?」
「学校」
「一番、忘れちゃなんねーもんだ。持って来いよ」
畑が小町の頭を軽く小突こうとし、小町が笑いながら避ける。
「うわ、暴力やパワハラ!」
「当たってねえだろ!」
「今の見ました? 火山先輩」
「うーん。どっちもどっちかなぁ……でも、先輩なんだから獅音が悪い」
「火山先輩、神」
「お前、同期の味方をしろ!」
火山の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
そのやり取りを見ていた星羅が、畑へ近づいた。
「畑先輩って梨好きなんすか?」
「……あ?」
なぜか畑の動きが止まった。
「いや、会話聞こえてたし。先輩、さっきめっちゃ梨見てたから」
「まあ……普通」
「普通?」
「ああ」
「なしよりの有り的な……どっちやねーん!って……」
星羅が不思議そうに首を傾げる。
「つ、つまらなかったですよね。すみません」
「べつに」
瞳子も首を傾げた。
さっきまで小町にはあれだけ普通に喋っていたのに、星羅が相手になった途端、畑の返事が妙に短い。
「獅音」
一条が横から低い声で呼んだ。
普段と変わらない、少し眠そうにも聞こえる声だった。
「なに」
「さっきから挙動不審」
「うるせぇ」
「一年生相手に何やってんの」
「お前は黙ってろ」
畑が一条を睨んでも、一条はまったく動じず、むしろほんの少しだけ口元を上げた。
その隣では火山が露骨に顔を逸らしているものの、肩が小さく揺れていて、笑いを堪えているのが丸分かりだった。
星羅は腑に落ちない顔をしながら、畑と火山と一条を順番に見ている。
「……畑先輩、アタシなんかしました?」
「してねえ」
「藍沢さん」
一条が星羅へ静かに声をかけた。
「放っといていいよ。獅音が勝手におかしくなってるだけだから」
「優那、お前マジで黙れ」
「はいはい」
一条は素直に引いたものの、その顔には明らかに面白がっている色が残っている。
なんだろう。
瞳子には理由がさっぱり分からなかった。
畑先輩は、星羅ちゃんが苦手なんだろうか。
そう考えかけたところで、梨園の人から集合の声がかかり、一同は説明を聞くため木の前へ集まった。
梨は、下へ引っ張るのではなく、実を持ち上げるようにすると簡単に枝から外れた。
「取れた!」
瞳子の手の中へ、ずっしりとした重みが落ちてくる。
「瞳子ちゃん、それ大きない?」
「でしょ!」
「なんで自慢げなん」
「私が選んだから!」
隣では星羅が、すでに自分の梨を眺め回している。
「これ絶対うまいやつ」
「見ただけで分かるん?」
「勘」
「信用ならんなあ」
「野生と女を足したような勘だよ」
「せめて割らへん? 足すだけにすな」
「割ったら半分じゃん。それだけ凄い勘なんだって」
少し離れたところでは男子たちも、どの梨が大きいだの甘そうだので騒いでいる。
清華はその輪から少し外れていたものの、一人で離れているわけではなかった。
瞳子が見ていると、清華は枝の奥にあった梨を慎重に持ち上げる。
綺麗に外れた実を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「清華さん、大きいね」
「斉藤さんのほうが大きいと思います」
「でも私の、ちょっと形変じゃない?」
「味には関係ないのでは?」
「そっか!」
「たぶん」
たぶんなんだ、と瞳子は笑った。
採った梨をその場で食べられる場所へ移動し、人数分に切り分けてもらう。
一口かじると、しゃりっとした歯触りのあとに冷たい果汁が広がった。
「おいしい!」
「うっま!」
星羅の声が重なる。
「騒がしいな、お前ら」
畑が呆れながら言う。
「だってうまいっすよ、畑先輩も食べれば?」
「食ってる」
「もっと食べればいいじゃん」
「……おう」
また妙にぎこちない。
その横で一条が無言のまま梨を食べているのに、なぜか楽しそうに見えた。
瞳子も二切れ目へ手を伸ばす。
甘くて、水分が多くて、暑い日に食べるにはちょうどいい。
もう一つくらい余裕で食べられそうだった。
「こういうのってさ」
梨を口へ運びながら、瞳子は何気なく言った。
「私たちが騎手になったら、好きなだけ食べられなくなっちゃうのかな」
小町の手が止まる。
星羅も三切れ目を持ったまま、こちらを見た。
その問いに答えたのは、一年生ではなかった。
「まあ、体重次第だろうけど、好きなだけってわけにはいかないかもね」
火山が梨の芯を皿へ置く。
いつの間にか畑と一条も、こちらへ視線を向けていた。
「ただ」
火山はそこで少しだけ言葉を切った。
「体重も軽けりゃいいって話でもないよ」
「え?」
小町が眉を寄せる。
火山はそんな一年生たちを見回してから、自分の腹を軽く叩いた。
「馬に乗るのに、身体は使うからね」
小町の視線が、火山の手元へ落ちた。
さっきまで楽しそうに梨を食べていた顔から、ほんの少しだけ笑みが消えていた。




