清華Side② ただ一度でいい
消灯時間を過ぎると、部屋の中には規則正しい寝息と、エアコンの小さな作動音だけが残った。
向かいのベッドでは、斉藤さんがもう眠っている。
サマーキャンプの疲れが残っているのだろう。布団へ入ってからそれほど時間も経っていないのに、起きている気配はない。
枕元の時計へ目を向けたあと、静かに上半身を起こした。
眠れないわけではなかった。目を閉じれば、おそらくすぐに眠れる。
それなのに、斉藤さんから「それなに?」と尋ねられた小さな布袋のことが、ずっと頭から離れなかった。
ベッドから降り、音を立てないよう机の前へ移動する。
引き出しを開けると、一番奥にしまった布袋は昼間と同じ場所にあった。
サマーキャンプへ持っていく必要などなかった。
二泊三日、学校から離れるだけなのだから、ここへ置いていけばいい。それくらい自分でも分かっているのに、荷物をまとめたとき、結局バッグの奥へ入れていた。
布袋を取り出し、机の上へ置く。
結び目をほどく指先は、もう何度も繰り返した動きを覚えていた。
中から現れたのは、二つの毛束。
一つは柔らかく、短い鬣。もう一つは、それよりずっと長く、一本一本に張りのある尻尾の毛。
どちらも一房ずつ丁寧に束ねられ、時間が経ってもばらけないよう端を留めてある。
『エクラ・ドゥ・ヴルール』
艶のある鹿毛が光を受けると、赤褐色の毛並みがベルベットのように輝くことから付けられた競技馬名だった。
もっとも、清華がその名前で呼ぶことはほとんどなかった。
普段の呼び名は『ビジュー』。
宝石という意味の愛称で呼べば、ビジューは、いつも耳をこちらへ向けた。
初めて出会ったのは、清華が七歳のときだった。
祖父のカレッジへ遊びに行った日、清華は初めて馬に乗せてもらうことになっていた。用意されていたのは子どもでも扱いやすいポニーで、まずはその背中で馬に触れることや手綱の扱いを覚えるはずだった。
ところが厩舎の前を歩いている途中、少し離れたところにいた一頭の鹿毛へ、ふと目を奪われる。
まだ乗馬用の馬として訓練を受けていたビジューは、清華と同じ七歳で、去勢された牡馬――セン馬だった。
何が気になったのか、そのときの清華には説明できない。ただ艶のある赤褐色の身体を見つめているうちに、向こうもこちらを見ていることに気づく。
目が合った。
するとビジューのほうから、ゆっくりと清華へ近づいてくる。
大きな身体が目の前まで来ても、不思議と怖くはない。ビジューは清華の顔を確かめるように鼻先を寄せ、そのまま触れそうなところまで近づけてきた。
温かな息が頬にかかる。
手のひらをビジューのに額にそっと押し付けて、ほんの少しだけ顔を近づける。
そのときにはもう、この馬に乗りたいと思っていた。
理由などなかった。
最初はポニーからだと両親や祖父に言われても、清華は譲らなかった。ビジューも清華を嫌がる様子を見せなかったため、十分な補助をつけることを条件に、ようやく背中へ乗せてもらえることになる。
だから清華にとって、初めて背中へ乗った馬は――ビジューだった。
その後の練習ではほかの馬にも乗り、それぞれ違う癖や乗り方を覚えていったものの、大会へ出るときや一つ上の目標へ挑むとき、清華の隣にはいつもビジューがいた。
清華は机の上の鬣へ指を伸ばす。
撫でれば、指先を滑っていく柔らかな感触が返ってくる。
あの頃は首筋に触れれば、その下に温かい皮膚があり、筋肉が動き、こちらの気配に合わせて耳が動いた。
今、手の中にあるのは、そのほんの一部だけ。
それでも触れるたび、七歳のあの日から何度も重ねてきた時間と、そのすべてを変えた日のことが鮮明に蘇ってくる。
事故が起きたのは、いつもと変わらない練習の日だった。
特別に難しいことをしていたわけではない。何度も繰り返してきた障害の練習で、清華自身もいつも通りにこなせると思っていたし、ビジューにも普段と変わった様子はなかった。
踏み切りまでの歩幅も悪くなく、障害を跳び越える飛越そのものにも大きな失敗があったとは思わない。
着地した直後、身体が大きく傾くまでは。
異変を感じた瞬間には、清華も手綱を緩め、体勢を立て直そうとしていた。
それでも間に合わなかった。
倒れ込むほどではなかったものの、ビジューは右前脚へまともに体重をかけられなくなり、その場から動こうとしなかった。
それまで何度も聞いてきた蹄の音が、不自然に途切れた。
獣医師の診察を受け、治療が始まった。怪我は軽くなく、競技へ戻れるかどうかも分からないという。
そう説明されたとき、清華は一瞬だけ、次の大会のことを考えてしまった。
ジュニアの大会で勝ち続けること。また全国へ行くこと。この馬と、もっと上を目指すこと。
ずっと当たり前のように思い描いてきた未来が、一度に遠ざかる。
そのことが怖かったのは、ほんのわずかな時間だけだった。
馬房で横にならずに立っているビジューを見た瞬間には、そんなものはどうでもよくなっていた。
もう大会に出られなくてもいい。障害を飛べなくてもいい。
自分が二度と背中へ乗れなくても、それでも構わない。
生きていてくれれば、それでいい。初めてそう思った。
治療が始まった翌日も、その次の日も、清華はできる限りそばにいた。
右前脚にはまだ痛みが残っているようで、立ち方も普段とは違っていた。それでも餌を口へ運び、水を飲み、清華が近づけばこちらへ顔を向けてくれる。
差し出した手のひらへ鼻先を寄せられたときには、大丈夫だと思えた。
時間はかかってもいい。
競技馬として戻れなくても、いつかまた草の上を歩けるようになればいい。
ビジューにとっては、そちらのほうが幸せかもしれない。
四日目には、少しだけ食欲も戻り、五日目には獣医師から状態が安定していると聞いた。
清華はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
安定している。
助かる。
きっと大丈夫。
根拠のない希望だと分かっていても、そのときだけは信じたかった。
異変が出たのは、それからだった。
最初に問題が見つかったのは、怪我をした右前脚ではない。
反対側の左前脚――右を庇い続けたことで、健康だった左側へ負担が集中している。
その負担によって、蹄の内部で骨と蹄を支える組織に炎症が起きている。獣医師から告げられた病名は、支持肢性の蹄葉炎だった。
どうして。
清華が最初に考えたのは、それだった。
怪我をした脚を治していたはずなのに、なぜ何でもなかった脚まで悪くなるのか。
片方を守れば、もう片方へ負担がかかる。
馬の身体を支える四本の脚は、それほど単純には切り離せない。
理屈を説明されれば理解できた。
理解できたところで、何一つ納得はできなかった。
昨日までより、あの子が立っていることをつらそうにしている。
身体の向きを何度も変え、少しでも楽な位置を探しているようにも見えた。
その姿を前にしても、清華にできることはほとんどない。
治療は獣医師に任せるしかなく、自分に許されたのは、そばにいることだけだった。
ビジューの額を撫でながら、何度も考えた。
痛いのだろうか。
怖いのだろうか。
自分がそばにいることを、どう思っているのだろう。
あの日、もっと上手く乗っていれば。
踏み切る前に何か気づけていれば、事故を防げたのではないか。
もしそうなら、この馬は自分を恨んでいるのではないか。
考えれば考えるほど、聞きたいことだけが増えていく。
問いかけても、返ってくるものはない。
鼻先へ手を伸ばせば、その匂いも温かさも分かる。耳の向きや目の動きを見れば、ある程度の気持ちを読み取ることだってできる。
長く一緒にいた。誰より分かっているつもりだった。
それでも、そのときビジューが本当に何を思っているのかだけは、どうしても分からなかった。
六日目。
状態はさらに悪くなった。
七日目には、もう昨日までと同じ期待を持てる状況ではなくなっていた。
清華は最後まで、あの子のそばにいた。
何度も首へ触れ、鬣へ指を通した。
口からこぼれるのは、何度繰り返したかも分からない「ごめんなさい」と「ありがとう」ばかりだった。
もう競技なんてどうでもいい。
この先また競技に戻れるかどうかも、馬術を続けられるかどうかも、そのときは何の意味もなかった。
ただ生きていてほしかっただけなのに、その願いは無残にも散っていった。
事故から一週間。ビジューはいなくなった。
清華は机の上に置いた尻尾の一房へ指先を添え、ゆっくり撫でた。
斉藤さんが言っていた、馬と喋れたら楽しそう。
今日の調子はどうなのか。乗っているとき、何を考えていたのか。
レースなら、どこが苦しかったのか。
聞いてみたい、と。そこに悪意がなかったことくらい分かっている。
――そんなものは必要ないと、わたしは言った。
そう言えるようになるまでに、どれだけ時間がかかったのかも、その間に自分が何を願っていたのかも、話していない。
馬と話せたら。
昔の自分が何度願ったのか、もう数えられない。
楽しい話など、できなくてもよかった。自分のことを好きだと言ってほしかったわけでも、上手く乗っていたと褒めてもらいたかったわけでもない。
痛かったと言われてもよかった。怖かったと言われてもいい。
あの事故はお前のせいだと責められても、それがビジューの本当の気持ちなら受け入れるつもりだった。
どれだけ酷い言葉でもよかった。
罵声でもよかった。
それでも、声があるなら聞きたかった。
何も分からないまま、その命が消えてしまうよりは、ずっとよかった。
清華は唇を結び、手の中の鬣をそっと握る。
自分が口にした「罵声」という言葉を、斉藤さんは馬の声に引っかけて笑った。
私の過去を何も知らない。話していないのだから、知るはずもない。
それなのに、あの言葉を聞いた瞬間、平静ではいられなかった。
どうしても許せなかった。
斉藤さんに怒る理由など本当はなかったのかもしれない。ただの八つ当たりにしか過ぎなかった――知らなかったのだから。
今朝、理由も分からないまま謝ってきた斉藤さんへ、自分は結局何も説明しなかった。
まだ、話したくない……まだ、話せない。
この記憶を誰かへ渡して、その人に理解してもらいたいとも思わない。
だから、あれでいい。
清華は毛束を布袋へ戻そうとして、ほんの少しだけ手を止めた。
柔らかな鬣が指先に触れ、昔はその先にはビジューがいた。
顔を上げれば目が合い、名前を呼べば耳がこちらへ向いた。
擦り寄せるように鼻先を合わせてくる……
言葉などなくても、それで十分だと思っていた。
失ってから初めて、十分ではなかったのだと知った。
もし、あの一週間だけでも話せていたなら。
優しい言葉でなくてよかった。
怒っていても、恨んでいても、責められてもよかった。
ただ一度でいい。
あの子の声を、聞いてみたかった。




