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第28レース まだ知らない

 翌朝、目を覚ましたときから、瞳子の頭には昨日のことが残っていた。


 四時起床は普段と変わらず、着替えを済ませれば朝のランニングが待っている。眠そうな顔で外へ出た星羅ちゃんが「サマーキャンプでも走るんかい」とぼやき、小町ちゃんから「初日に説明されたやろ」と返されるのも、いつもなら笑って聞いていられる会話だった。


 それでも今日は、少し前を走る清華さんの背中へ何度も目が向いてしまう。


 露骨に避けている様子はなかったものの、朝起きてから交わした言葉といえば「おはようございます」くらいで、それ以上の会話は一度もなかった。


「とこ、遅れてるよ」


 隣から声をかけられ、瞳子は慌てて前を見る。


「え?」

「考え事しながら走るとか器用だね」

「そんなつもりじゃなかったんだけど」

「昨日、清っちとなんかあった?」


 いきなり核心を突かれ、足が少しだけ乱れた。


「なんで?」

「昨日、片付け終わったあと明らかに空気変だったじゃん」


 星羅ちゃんはそう言いながらも、詳しく聞き出そうとはせず、少し先を走る清華さんへちらりと目を向けるだけだった。


「喧嘩したん?」


 反対側から小町ちゃんまで加わる。


「喧嘩っていうか……私が怒らせた」

「珍しいな。清華ちゃん、そんな露骨に怒るタイプちゃうやろ」

「うん。それが私も分かんなくて」


 何がそんなに嫌だったのか、夜に布団へ入ってからも考えた。


 馬と話せたら楽しそうだと言ったことなのか。そのあと清華さんが真面目に話していたのに、自分が言葉遊びをして笑ったことなのか。それとも、もっと前から何か引っかかっていたのか。


 考えても、やっぱり答えは出ない。


「まあ、とこが分かんないなら、本人に聞くしかないんじゃね?」

「うーん……」


 聞けば教えてくれるとも思えなかった。


 昨日の最後の「もういいです」は、それ以上話したくないという意味だったのだろうし、理由を説明するつもりがあるなら、その場で何か言っていたはずだ。


 瞳子が黙っていると、星羅ちゃんが横から顔を覗き込んでくる。


「とりあえず走るで。教官見はっとる」

「オッケー。ペース上げるから、小町もしっかり付いてきなよ」

「分かっとるわ! さっそく後ろ振り向くなっちゅーねん!!」


 少し離れた場所からこちらを見ている教官と目が合い、瞳子は慌てて速度を上げた。






 ランニングと体重確認を終え、朝食を済ませたあとも、清華さんとまともに話す機会はなかった。


 今日でサマーキャンプは最終日。


 午前中には宿泊先を出る予定で、その前に荷物をまとめたり、使った場所を掃除したりしなければならない。八人で手分けして動いているうちに時間はどんどん過ぎ、気づけば清華さんと二人になるどころか、声をかけるきっかけすら見つからなかった。


 それでも、このまま学校へ戻るのは嫌だった。


 理由が分からないから何もしない、というのも違う気がする。

 昨日、最後に見た清華さんの表情を思い出すたび、胸の奥に小さな引っかかりが残る。


 掃除を終えたあと、外へ運ぶ荷物を取りに戻ったところで、ようやく廊下の先に清華さんを見つけた。


 一人でバッグを持ち、部屋から出てくる。


「清華さん」


 呼ぶと、清華さんが足を止めた。


「どうかされましたか?」


 声はいつも通りで、怒っているようには聞こえない。ただ、それだけでは昨日のことが終わったのかどうか分からなかった。


 瞳子は近くまで歩いていき、少し迷ってから口を開く。


「昨日のこと、ごめん」


 清華さんの表情がわずかに動いた。


「……何について謝っているんですか?」


 その問いに、瞳子はすぐ答えられなかった。

 適当に理由を作って謝るのは違うし、分かったふりをするのも嫌だった。


「清華さんが、なんであんなに怒ったのかはまだ分かんない」


「……」


「馬と喋る話が嫌だったのか、私が笑ったのが嫌だったのか、それとも別のことなのかも分かんないんだけど……私が笑っていいことじゃなかったんだよね。そこは、ごめんなさい」


 清華さんはしばらく何も言わず、瞳子を見ている。


「理由も分からないのに謝るんですか?」

「うん」

「どうしてですか?」

「だって、嫌だったのは分かったから」


 答えたあと、自分でもずいぶん曖昧なことを言っている気がした。

 それでも今の瞳子には、それ以上うまく説明できない。

 清華さんは目を伏せ、持っていたバッグの持ち手を握り直した。


「……もういいです」


 昨日と同じ言葉だった。

 思わず顔を上げる。


 清華さんはそれ以上何も言わず、また歩き出そうとしている。


「それって……もう怒ってないって意味?」


 清華さんが一瞬だけ黙った。


「少なくとも、昨日の続きをするつもりはありません」

「そっか」


 怒っていない、とまでは言ってくれなかった。


 それでも、昨日のように会話を打ち切られた感じもしない。

 瞳子が少しだけ息をつくと、清華さんは不思議そうにこちらを見た。


「何ですか?」

「いや、よかったなって」

「そうですか」


 清華さんはそれだけ返し、今度こそ先へ歩いていく。

 瞳子も後ろからついていったものの、隣へ並ぼうとはしなかった。


 全部元通りになったわけではない。


 清華さんがなぜ怒ったのかも、結局まだ分からないままだった。

 それでも、昨日よりは少しだけマシになった気がする。





 宿泊先を出たあとは、帰校する前に立ち寄った水族館で短い自由時間が設けられた。


 星羅ちゃんは入口をくぐるなり巨大な水槽へ駆け寄り、


「でっか! あれ食えそうじゃね?」

「最初に出てくる感想それなん?」


 小町ちゃんが呆れた声を返した直後、星羅ちゃんが別の水槽を指さした。


「あ、ウミガメいる! 小町なら乗れそうじゃん?」

「そのボケにもウミガメにも乗らへんよ」

「でも小町ちゃんなら、意外と上手に乗りこなしそう」

「瞳子ちゃんまで乗っからんでええ!」

「ごめん。つい……あれ? ウミガメどこ行ったの?」



 三人で話していると、少し後ろから男子たちの笑い声も聞こえる。

 清華さんは相変わらず騒ぎには混ざらず、水槽の中を静かに見ていた。


 ただ、昨日の海辺ほど離れてはいない。


 同じ展示の前で立ち止まり、瞳子たちが次へ進めば少し遅れてついてくる。星羅ちゃんが「あれ見て、清っち」と声をかければ普通に顔を向け、それについて短く答えていた。


 それくらいの距離が、今はちょうどいいのかもしれない。


 大きな水槽の前で星羅ちゃんと小町ちゃんが先へ進み、瞳子もついていこうとしたところで、後ろから声をかけられた。


「斉藤さん」

「ん?」


 振り返ると、清華さんが水槽の一角を見ている。


「さっき、あれを見たがっていませんでしたか?」


 指さした先には、岩陰からゆっくり姿を現した大きなウミガメがいた。


「あっ、ほんとだ!」


 瞳子が探していたのを聞いていたらしい。


「いたんだ。全然見つかんなかったのに」

「奥に隠れていたようです」

「教えてくれてありがとう!」

「別に」


 清華さんはそれだけ言うと、先に歩き始めた。


 瞳子もすぐ追いかける。

 たったそれだけのことだった。


 それでも、清華さんのほうから自分を呼んだことに気づいて、自然と口元が緩む。


 前を歩く本人には見えないよう、瞳子はすぐに表情を戻した。

 帰りのバスは、行きとは比べものにならないほど静かだった。


 海で遊び、料理をして、朝から走り、最後に水族館まで歩き回ったせいか、座席へ座ってしばらくすると眠り始める生徒が続出した。


 星羅ちゃんは窓へ頭を預け、小町ちゃんもその隣でうとうとしている。男子のほうも似たようなもので、風磨くんだけが何度か欠伸をしながら外を眺めていた。


 瞳子も眠かったが、流れていく景色を見ているうちに、この三日間のことを思い返していた。


 海では思いきり遊んだ。


 カレー作りでは、清華さんが想像以上に料理ができないことも知った。

 昨日は喧嘩のようなことになって、今朝までずっと気まずかった。


 全部ひっくるめても、楽しかったと思う。





 学校へ戻ると、それぞれ荷物を持って寮へ向かった。

 部屋へ入った瞳子がバッグの中身を整理していると、向かいでは清華さんも荷物を片づけ始めていた。


 着替えや洗面道具を順番に出していく中で、清華さんの手が一度だけ止まる。


 バッグの奥から取り出したのは、手のひらに収まるほどの小さな布袋だった。


 特別目立つものではない。


 それでも、清華さんは他の荷物とは明らかに違う扱い方をしていた。両手でそっと持ち上げ、形を崩さないよう確かめるように指先を添えている。


「清華さん、それなに?」


 何気なく聞くと、清華さんはわずかに顔を上げた。


 それから手元の布袋へ視線を戻す。


「……大切なものです」

「そっか……」


 それ以上は聞かなかった。


 清華さんは布袋を机の引き出しへ静かにしまい、何事もなかったように残りの荷物を片づけ始める。


 瞳子も自分のバッグへ視線を戻した。


 三日間一緒に過ごして、前より清華さんのことを知れた気がしていた。


 料理ができないことも、海では足を浸すくらいで十分なことも、意外とくだらない話に付き合ってくれることも。


 それでも、まだ知らないことのほうがずっと多い。

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