第27レース 聞こえない声
食器を洗う場所へ着くと、清華さんと並んで蛇口の前に立った。
夕食に使った皿やスプーンは思っていたより多く、重ねられた食器を見ているだけでも、八人分という人数の多さがよく分かる。
「私が洗うから、清華さん拭いてくれる?」
「分かりました」
スポンジを手に取り、清華さんは横に置かれていた布巾を広げた。
少し離れたところでは、星羅ちゃんと小町ちゃんが余った食材や調理器具を片づけている。男子たちも火の始末や鍋を洗うのに忙しく、ついさっきまで全員で同じテーブルを囲んでいたのが嘘みたいに、それぞれの作業へ散らばっていた。
「清華さん、料理ほんとに初めてだったんだね」
皿についたカレーを水で流しながら言うと、隣から少し間を置いて返事がきた。
「そう言いましたよ」
「だって、包丁持ってるところだけ見たら一番上手そうだったから」
「それは褒めているんですか?」
「姿勢は褒めてる」
「姿勢だけですか」
「ニンジンは……うん」
「何ですか、その間は」
清華さんがツンとした表情でこちらを見る。
瞳子は笑いながら、洗い終えた皿を差し出した。
「最後のほうはちゃんと揃ってたよ」
「教えてもらいましたから」
「一回教えてもらっただけで、急に上手くなったもんね」
「上手くなったというほどのことではありません。大きさを揃えて切っただけです」
「それが最初できてなかったんじゃん」
「……そうですね」
清華さんは否定できなかったらしく、受け取った皿を黙って拭き始めた。
そんな反応が少しおかしくて、瞳子はまた笑う。
「でも、なんか意外だったなぁ」
「何がですか?」
「清華さんって、何でもできそうに見えるから」
「そんなことはありません」
「馬乗るの上手いし、勉強もできるし、運動もできるし」
「料理はできませんでした」
清華さんが真面目な顔で答えるので、瞳子はまた吹き出しそうになった。
学校にいるときなら、こんな話を二人だけですることはほとんどない。騎乗訓練のことなら話すし、授業について聞くこともある。それでも、どちらでもない話をしながら隣で同じ作業をするというのは、たぶん初めてだった。
昼間は波打ち際で一人、足だけを海につけていた清華さんが、今はこうして普通に隣にいる。
瞳子は次の皿へスポンジを滑らせながら、ふと口を開いた。
「今日、一日馬見てないね」
「そうですね」
「なんか変な感じしない?」
「まだ一日ですよ」
「一日だけどさ。毎日いるじゃん、学校だと」
朝から馬房へ行く日もあれば、騎乗訓練で何頭も見る日もある。
「今ごろ何してるんだろ」
「馬ですか?」
「うん。ご飯食べてるかな」
「時間によると思います」
「サクラとか元気かな」
「数日で急にいなくなったりはしないでしょう」
「そういう心配じゃないよ」
瞳子が笑う。
「ハヤテもさ、今日は誰か乗ったのかなって」
「乗ったとしても、私たち以外の課程生でしょうね」
「次に乗ったとき、また全然違ってたりするのかな」
「可能性はあります。馬も毎日同じ状態ではありませんから」
清華さんが拭き終えた皿を重ねる。
その言葉を聞いていると、少し前の訓練を思い出した。
サクラは右へ流れようとする前のわずかな変化を見つけなければならなかった。ハヤテは脚を使い続けるのではなく、反応したら一度やめることで動きが変わった。
同じように乗ったつもりでも、馬が違えば返ってくるものも違う。
「やっぱ、馬って難しいよね」
「今さらですか?」
「前から思ってたけど、最近もっと思う」
「それなら良いことではないですか」
「良いことなの?」
「簡単だと思っているよりは」
なるほど、と瞳子は頷いた。
残っていたカレーの跡をスポンジで擦りながら、しばらく考える。
「でもさ、もっと簡単に分かる方法があったらいいのにね」
「どういう意味ですか?」
「今日どうしたいとか、どこが嫌だとか、ここ痛いとか。馬が全部教えてくれたら早いじゃん」
「それはそうかもしれませんが」
清華さんの返事を聞きながら、瞳子の中に別の考えが浮かんだ。
「あ、馬と喋れたらいいんだ」
「……はい?」
「馬と喋れたら、全部聞けるじゃん」
瞳子は少し楽しくなって、そのまま話を続ける。
「今日調子いい? とか、さっき私が乗ってたとき何考えてた? とか。レースに出た馬なら、どこで苦しかったとか、あそこでもっと行きたかったとかも聞いてみたい」
「……」
「絶対楽しそうじゃない?」
返事がないので横を見ると、清華さんは皿を拭く手を止めてはいなかった。
ただ、さっきまでより少しだけ表情が硬くなったように見える。
「清華さんは聞いてみたくない?」
「私は、そういうものは必要ないと思います」
「必要?」
「馬と話せるようなファンタジーの話です」
声はいつも通り落ち着いている。それでも、何となく言葉の端が硬い。
瞳子は首を傾げた。
「別に本当に喋れると思ってるわけじゃないよ。喋れたら楽しそうだなってだけ」
「話せたとしても、楽しいことばかり聞けるとは思いません」
「そうかな?」
清華さんは拭き終えた皿を置き、次の一枚を受け取った。
「馬から見れば、騎手が好かれることばかりしているとは限りません。鞭を使うこともありますし、苦しいところでも走らせます」
「……それはそうだけど」
「自分では馬のためだと思っていても、馬が同じように思っている保証はありません」
言われてみれば、その通りなのかもしれない。
競走馬は走るために育てられ、騎手はその背中に乗る。レースになればもっと速く走らせようとするし、最後まで力を出させるために、脚や手綱を使って合図を送ることもある。
「じゃあ、文句言われるかな」
「言われるかもしれませんね」
「『今日乗り方下手だったぞ』とか?」
「それくらいなら良いでしょうね」
清華さんの返事は淡々としていた。
瞳子は皿をすすぎながら笑う。
「サクラには『もっと早く気づけ』って言われそう」
「それはありそうです」
「ハヤテは何だろ。『脚うるさい』かな」
「最初の斉藤さんなら、そう言われるかもしれません」
「ひどい!」
「事実でしょう」
ほんの少しだけ、いつもの調子に戻った気がして、瞳子も笑った。
「でも、そんな感じで喋れたら面白そうだよね。怒ってたら怒ってるで分かりやすいし」
「怒っている程度ならいいですが」
「もっと?」
「必要以上に近づけば、それこそ罵声を浴びせられるかもしれませんよ」
罵声。
一瞬その言葉を頭の中で繰り返し、瞳子は思わず笑った。
「あはは。それ、罵声なのか馬の声って書いて《《ばせい》》なのか分かんなくなるね」
清華さんの手が止まる。
瞳子はまだ笑いながら、洗い終えた皿を差し出すが、受け取るはずの手が伸びてこない。
「清華さん?」
さっきまでとは明らかに違う表情で、清華さんは瞳子を見ていた。
「……笑い事ではありません」
「え? 」
思ってもいなかった返事に、瞳子の笑いが消える。
「そういう話をしているんじゃありません」
「えっと……ごめん」
何がそこまでいけなかったのか、すぐには分からなかった。
馬声なんて言葉があるわけでもない。ただ罵声と馬を引っかけただけで、清華さんを馬鹿にしたつもりも、話を真面目に聞いていなかったつもりもない。
「でも、そんな怒ることだった?」
聞いた瞬間、清華さんの目がわずかに細くなった。
瞳子は、しまったと思うものの、言葉は戻せない。
「……もういいです」
「清華さん」
「残り、私が拭きますから」
「いや、それは――」
「大丈夫です」
短く言って、清華さんは再び皿へ視線を落とした。
さっきまで普通に話していたのが嘘みたいに、もう会話を続ける気はないらしい。
瞳子も何を言えばいいのか分からず、黙って残りの食器を洗った。
水の流れる音だけが、二人の間に残る。
少し離れたところでは、星羅ちゃんと小町ちゃんが何かを話して笑っている。男子たちの声も聞こえてくるのに、ここだけ急に周りから切り離されたようだった。
最後の皿を洗い終えるころ、清華さんは先に布巾を畳んだ。
「終わりましたね」
「……うん」
「では、私は戻ります」
清華さんはそれだけ言うと、重ねた食器を持ってその場を離れていった。
瞳子は蛇口を閉め、濡れた手を見下ろす。
どうして、あんなに怒ったんだろう。
馬と喋れたら楽しそうだと言っただけで、清華さんの考えを否定したわけでもない。罵声のところだって、少し面白いと思って笑っただけだった。
それでも、最後に見た清華さんの顔を思い出すと、ただ機嫌を悪くしただけではなかったような気がする。
「とこ?」
声に顔を上げると、少し離れたところから星羅ちゃんがこちらを見ていた。
「どうしたん?」
その隣で小町ちゃんも、不思議そうに首を傾げている。
清華さんが去っていったほうへ一度だけ目を向けた。
「……なんでもない」
あんな顔をさせるつもりはなかったのに……




