第26レース 夏のご褒美
宿泊先へ荷物を置き、教官から改めて注意事項を聞いたあと、一年生八人は揃って海へ向かった。
建物を出た瞬間から潮の匂いが濃くなり、少し歩けば、さっきバスの窓から見えていた青い海が視界いっぱいに広がってくる。
「うわ、めっちゃ海!」
星羅ちゃんが真っ先に駆け出しかけ、すぐ後ろから教官の声が飛んだ。
「藍沢、走るな!」
「まだ何もしてないです!」
「今からしようとしてただろ」
「なんで分かるんですか!?」
「見れば分かる!」
笑い声が上がる中、星羅ちゃんは不満そうに歩く速度へ戻した。それでも足取りは明らかに軽く、砂浜へ着くころには早くも海へ入りたくて仕方がないらしい。
「ねえ、もう入っていい?」
「説明聞いてからやろ」
小町ちゃんに言われ、星羅ちゃんは渋々教官のほうへ顔を向けた。
海へ入るときも水着ではなく、普段の運動で使っているジャージ姿のままだった。最初に聞いたときは驚いたものの、八人で同じ格好のまま砂浜へ並んでみると、不思議と競馬学校らしく思えた。
教官から遊泳範囲や、勝手に沖へ出ないことなどを言い渡され、ようやく自由時間になる。
「よっしゃー!」
許可が出た途端、星羅ちゃんが真っ先に海へ駆け込んだ。
「冷たっ!」
「どっちやねん」
「気持ちいいけど冷たいの!」
意味の分からない返事をしながら、星羅ちゃんが小町ちゃんへ両手で水をかける。
「ちょっ、やめえや!」
「海来たらこれでしょ!」
「ほんならお返しや!」
小町ちゃんもすぐに反撃し、二人の水しぶきが近くにいた瞳子まで飛んできた。
「わっ!」
「とこも参戦!」
「え、私も!?」
そう言いながら瞳子も両手ですくった海水を返し、気づけば三人で水を掛け合っていた。
そこへ背後から近づいてきた風磨くんが、小町ちゃんへ声をかける。
「小町」
「なんや?」
「隙あり」
振り返った直後、ばしゃん、と大きな水しぶきが小町ちゃんの背中へ落ちた。
「風磨ぁぁぁ!」
小町ちゃんが水を蹴り上げながら追いかけると、風磨くんは笑いながら逃げていく。
「海やぞ! 水かかるん当たり前やろ!」
「お前がかけたんやろが!」
二人の追いかけっこをきっかけに、近くにいた男子たちまで加わり始めた。誰かが水をかければすぐ別の誰かがやり返し、さっきまで女子と男子に分かれていたのも忘れるくらい、あっという間に騒がしくなっていく。
その様子を笑って見ていた瞳子は、ふと波打ち際へ目を向けた。
清華さんは少し離れた砂浜に腰を下ろし、伸ばした両脚を波へ浸していた。寄せてきた波が足首を包み、引いていくたびにジャージの裾がわずかに揺れている。
海へ入る気はないらしい。
「清華さーん!」
瞳子が手を振ると、清華さんもこちらへ顔を向けた。
「入らないのー?」
「ここで十分です」
「そっか! 冷たくて気持ちいいよ!」
「それはここでも分かります」
足だけは海に入っているのだから、確かにその通りだった。
瞳子が笑っていると、横から飛んできた水が顔に直撃した。
「うわっ!」
「隙あり!」
星羅ちゃんが楽しそうに笑っている。
清華さんのことを気にしている場合ではなくなり、瞳子はすぐに反撃した。
しばらくしてもう一度浜辺を見ると、清華さんは変わらず同じ場所にいた。騒いでいる七人を眺めながら、時々足先で水を揺らしている。
海から戻り、シャワーを浴びて私服に着替えたあとは、夕食の準備が始まった。
共同炊事の献立は、瞳子の予想通りカレーだった。
「ほら! やっぱりカレー!」
「なんでそんな得意げやねん」
「当たったから!」
小町ちゃんに笑われながら、八人で役割を分けていく。
男子四人は火の準備や重い鍋、米などを担当し、瞳子たち四人は野菜や肉の下ごしらえを中心にすることになった。
「星羅ちゃん、手際いいね」
瞳子が玉ねぎを切りながら横を見ると、星羅ちゃんは包丁を迷いなく動かし、じゃがいもを次々に同じくらいの大きさへ切っていた。
「ばあちゃんに仕込まれたからね。小学校のころから料理くらいできないと困るって、手伝わされてたし」
「すごい」
「とこも普通にできるじゃん」
「牧場にいたときも作ってたから」
瞳子も特別上手いというほどではないが、自分で食べるものを作る程度には慣れている。
「小町は?」
二人から視線を向けられた小町ちゃんは、ピーラーを動かしながら眉を寄せた。
「うちかて最低限はできるわ。たまに手伝っとったし、中学で調理実習もあったし」
三人で話している横では、清華さんだけが一言も喋らず、まな板へ向かっていた。
背筋は真っ直ぐで、包丁を握る姿にも無駄がないように見える。長い黒髪は邪魔にならないようきちんとまとめられ、まな板を見つめる表情も真剣そのものだった。
瞳子は思わず感心する。
「清華さん、なんかすごい上手そう」
「そう?」
星羅ちゃんも横から覗き込み、その数秒後、二人とも黙った。
まな板の上に並んでいたニンジンは、薄いものから分厚いものまで大きさが見事にばらばらだった。端のほうには、切ったというより削れたような欠片まで混ざっている。
「……清っち」
「何ですか?」
「これ何?」
「ニンジンです」
「それは分かる」
星羅ちゃんが一つ摘まみ上げた。
「こっち一センチくらいなのに、これ三センチくらいあるんだけど」
「食べれば同じでは?」
「火の通りが違うから!」
清華さんが少し驚いたように瞬きをする。
「そうなんですか?」
三人の動きが止まった。
瞳子は清華さんの顔と、まな板の上を交互に見る。
「清華さん、もしかして料理したことない?」
「ありません」
「一回も?」
「ありません」
「マジか……誰だよ、包丁持たせたの」
星羅ちゃんが思わず呟く。
「清っち、見た目だけならシェフなのに」
「シェフ?」
「姿勢とか包丁持ってる感じとか。めちゃくちゃプロっぽいのに、手元が事故ってる」
「事故ってません」
「じゃあ、このニンジン何?」
「ニンジンです」
「そこは譲らないんだ」
「ニンジンですから」
瞳子が吹き出すと、小町ちゃんまで笑い始めた。
清華さんは少し不満そうに眉を寄せたものの、星羅ちゃんから切り方を教わると、今度はさっき以上に真剣な顔で包丁を動かし始めた。
「清っち、そんな力入れなくても切れるって」
「普通に切っています」
「普通じゃないから言ってんの」
「斉藤さん、このくらいですか?」
清華さんが切ったニンジンを見せてくる。
「うん、それくらい!」
「分かりました」
そこから急に大きさが揃い始めた。
「覚えるの早っ」
「教えられたことをやっているだけです」
「最初から聞けばよかったじゃん」
「料理にそれほど技術が必要だと思っていませんでした」
「全国の料理人に怒られるで」
小町ちゃんの一言に、また笑いが起きる。
海では少し離れたところにいた清華さんが、今は三人の隣にいる。
瞳子はそれを少し嬉しく思いながら、自分の玉ねぎへ視線を戻した。
少し離れた場所では、風磨くんと黒田くんが火を起こすのに苦戦していた。
「全然つかんやん」
「お前が風送りすぎなんだって!」
「強いほうが燃えるやろ!」
「消えてるだろ!」
そこへ大雅くんが呆れた顔で加わり、宮坂くんは米の準備をしながら笑っている。
結局、その様子を見かねた星羅ちゃんまで火のほうへ向かい、黒田くんから「なんでお前が全部できるんだよ」と言われていた。
「生活力の差。あと、アタシに『お前』って言うな」
「すいません……」
鍋からカレーの匂いが漂い始めるころには、海で散々遊んだこともあって、瞳子のお腹はすっかり空いていた。
「いただきまーす!」
八人の声が重なった。
出来上がったカレーを一口食べた星羅ちゃんが、すぐに頷く。
「うまっ」
「そらそうやろ。うちらが作ったんやから」
「小町、ほぼ皮剥いてただけじゃん」
「ちゃんと切ったわ!」
風磨くんからも笑われ、小町ちゃんが睨み返す。
「清華さんも食べて!」
瞳子が言うと、清華さんはスプーンですくったカレーを口へ運んだ。
少しだけ目を見開く。
「どう?」
「美味しいです」
「自分らで作ったら余計おいしく感じるなぁ」
「ガチうまっ」
星羅ちゃんはすぐに二口目、三口目と食べ進めていたが、その様子を少し離れたところから教官に見られていることに気づいた。
「藍沢」
「はい?」
「食いすぎるなよ」
「まだ一杯目です!」
「その速度なら二杯目が来るだろ」
「こちとら、成長期なんですけど!」
「騎手課程だ」
「夢がナッシング!」
星羅ちゃんが嘆き、男子たちまで笑い出す。
瞳子も笑いながら、自分のカレーを口へ運んだ。
朝までいた競馬学校とは、同じ一日とは思えない。海で遊び、みんなで料理をして、今は八人で同じものを食べている。
清華さんも相変わらず瞳子たちほど賑やかではないものの、料理中は星羅ちゃんに教わり、今もみんなと同じテーブルに座っている。
昼間、波打ち際で一人足を水に浸していた姿を思い出すと、その違いが瞳子には少し面白かった。
「斉藤さん」
「ん?」
「さっきから、なぜ私を見ているんですか?」
「え? 見てた?」
「見ていました」
「なんとなく」
「そうですか」
清華さんはそれ以上聞かず、またカレーへ視線を戻した。
その後も星羅ちゃんと小町ちゃんのやり取りや、男子たちの笑い声が途切れることはなく、鍋に残っていたカレーも少しずつ減っていく。
やがて八人の皿がほとんど空になったところで、教官から片付けるよう声がかかった。
男子たちは鍋や火の始末を担当することになり、星羅ちゃんと小町ちゃんは残った食材や調理器具の整理へ回った。
「斉藤、清華。食器洗い頼む」
「はい!」
「分かりました」
瞳子は立ち上がりながら、隣の清華さんを見る。
「一緒だね」
「そうですね」
清華さんはそれだけ答えると、使い終えた皿を重ね始めた。
海にいたころより日が傾き、昼間の暑さも少しずつ和らいでいる。楽しかった一日を思い返しながら、瞳子は清華さんと並んで、食器を洗う場所へ向かった。




