第25レース サマーキャンプ
七月も下旬に入ると、競馬学校の一日はさらに早くなった。
夏季の時間割へ切り替わり、起床は午前四時。まだ外が薄暗いうちから身体を起こし、点呼を受け、馬房の掃除や馬の世話といった厩舎作業、訓練へ向かう生活にも少しずつ慣れてきたものの、星羅ちゃんだけは納得していなかった。
「四時って朝じゃなくない?」
朝食を終えたあと、星羅ちゃんはテーブルへ頬杖をつきながら大きなあくびをした。
「夏なら朝やろ」
向かいに座る小町ちゃんが即答する。
「いや、夜でしょ。四時に起きる人より、四時まで起きてる人のほうが絶対多いって」
「知らんがな。じぶん、新聞配達してたんとちゃう?」
「終わったあとは、学校で寝てたからね。とこはどう思う? 四時って朝?」
「朝かな。北海道にいた時は、ラジオ体操してたし」
「朝四時に!? 健康優良児!……いや、お婆ちゃん?」
「なんで!?」
瞳子が笑うと、小町ちゃんも呆れたように笑った。
牧場にいたころも朝は早かったので、四時起床そのものは星羅ちゃんほど苦ではない。さすがに毎日となれば眠い日はあるものの、朝の空気がまだ冷たいうちに馬のところへ向かう感覚は、北海道にいたころを少し思い出させた。
「清っちは?」
星羅ちゃんが隣のテーブルへ顔を向ける。
清華さんは食事を終え、いつものように姿勢よく座っていた。
「四時は午前なので、朝です」
「それなら、一時や二時も朝じゃん」
「それは夜です」
「なんで!?」
「今の時期ですと、四時には空が白んでいますが、一時や二時は暗いからです」
「……ですよねぇ」
星羅ちゃんが諦めたところで、食堂に教官が入ってきた。
それまで話していた生徒たちが自然と口を閉じる。
「今月末の予定について、資料を渡しておく」
教官が手元の紙を瞳子たちへ手渡した。
「七月二十八日から三十日までの二泊三日で、サマーキャンプを行う。場所は勝浦方面だ」
一瞬、誰も声を出さなかった。
瞳子も言葉の意味を理解するまで少し時間がかかった。
その隣で、星羅ちゃんが勢いよく顔を上げる。
「キャンプ!?」
「藍沢、まだ話の途中だ」
「はい!」
返事だけは立派だった。
教官はそんな星羅ちゃんを一度見てから説明を続ける。
「入学から三か月以上が経った。普段とは違う環境で同期同士の交流を深めることも目的の一つだ。海でのレクリエーションや共同炊事などを予定している」
海。
その一言を聞いた瞬間、瞳子は隣からものすごい視線を感じた。
見ると、星羅ちゃんが両目を輝かせている。
声を出せない代わりに、口だけで「海!」と言っていた。
反対側では小町ちゃんも少し嬉しそうな顔をしている。
「なお、遊びに行くだけではない。起床後の体操とランニングは通常通り行う。体重管理についても気を抜くな」
星羅ちゃんの顔から、一瞬だけ輝きが消えた。
教官が食堂を出ていった途端、その反動のように声が飛び交った。
「海じゃん! 普通に旅行じゃん!」
「学校行事や言うとったやろ」
「二泊三日も外に出られるんだよ!? もう旅行でいいって!」
「確かに、入学してから泊まりで学校の外に出るんは初めてやな」
星羅ちゃんと小町ちゃんが話しているところへ、瞳子も身を乗り出す。
「カレー作るって言ってたよね?」
「共同炊事な。カレーとは言うてへん」
「キャンプならカレーじゃない?」
「まあ、定番ではあるけど」
「海も入れるかな?」
「入るって言ってたじゃん!」
「水着持ってきてない!」
「ジャージのまま入るんやで」
「マ!?」
三人で好き勝手に話していると、少し離れたところから視線を感じた。
清華さんだった。
いつもの落ち着いた表情でこちらを見ている。
「清華さんも楽しみ?」
瞳子が聞くと、清華さんは少し間を置いてから答えた。
「まだ何をするのか詳しく聞いていませんので」
「海だって!」
「それは聞いていました」
「じゃあ泳ごうよ!」
「行程に海水浴が含まれているなら参加します」
参加するのかしないのか、どちらとも取れそうな返事だった。
星羅ちゃんが横から口を挟む。
「清っち、海でまでそんな感じなの?」
「そんな感じとは?」
「いや、なんかこう……もっとテンション上がんないの?」
「まだ学校です」
「学校出たら上がる?」
「分かりません」
「……ですよねぇ」
星羅ちゃんが笑い、瞳子と小町ちゃんもつられて笑った。
サマーキャンプ当日。
朝の点呼を終えたあと、一年生八人はそれぞれ荷物を持ってバスへ乗り込んだ。
学校の門を出た瞬間から、車内の空気は普段とまるで違っていた。
「娑婆の空気だあああ!」
「星羅、うるさい!」
「だって外だよ!? 学校じゃないんだよ!?」
「まだ競馬学校の行事や!」
「細かいこと言わない」
星羅ちゃんが座席の背もたれから顔を出し、小町ちゃんと言い合っている。
その二人の後ろから、狛井風磨が身を乗り出した。
「小町、酔うんやったら前座ったほうがええんちゃう?」
「誰が酔う言うた」
「昔めっちゃ酔ってたやん」
「いつの話しとんねん!」
「小学校んとき」
「古すぎるわ!」
「そんときから、変わってへんやろ。とくに身長」
「風磨!」
小町ちゃんが振り返って睨みつけると、風磨は楽しそうに笑いながら自分の席へ引っ込んだ。
瞳子はそのやり取りを見ながら首を傾げる。
「風磨くん、小町ちゃんの昔のこと何でも知ってるね」
「幼馴染だからじゃん」
星羅ちゃんが意味ありげな顔をする。
「いいなぁ。私も小町ちゃんの昔の話聞きたい」
「絶対いらん」
「風磨くん、あとで教えて!」
「任せろ」
「任せんな!」
小町ちゃんが今度は星羅ちゃんまで睨みつける。
その騒ぎを挟んだ反対側では、男子三人が別の話をしていた。
黒田大地、宮坂蓮、三浦大雅。
三人とも同期ではあるものの、女子四人と一緒に行動する機会はこれまでそれほど多くなかった。普段の訓練では話すことがあっても、食事や外出となると自然に男女で分かれることが多い。
そんな三人が、さっきから妙に同じ方向を見ている。
その様子に気づいた星羅ちゃんが、三人へ顔を向ける。
「ねえ」
声をかけられた黒田くんたちが揃ってこちらを見ると、黒田くんが代表するように口を開いた。
「何?」
「さっきから清っち見てない?」
「見てねえよ!」
あまりにも返事が速く、星羅ちゃんの口元がすぐににやりと上がる。
「へえー」
「その顔やめろ」
「何も言ってないじゃん」
「言ってるのと同じだろ!」
宮坂は窓の外へ目を逸らし、三浦は笑いながら黒田の肩を叩いた。
「お前が反応するからだろ」
「お前も見てただろ!」
「俺は見てない」
「嘘つけ!」
「じゃあ話しかければいいじゃん」
星羅ちゃんがあっさりそう言うと、三人は揃って黙り込み、その反応がおかしかったのか小町ちゃんまで笑い始めた。
「なんや。話しかけたいん?」
「別にそういうんじゃねえって」
黒田くんはすぐに否定し、星羅ちゃんがそこへ追い打ちをかける。
「清っち、別に噛まないよ」
「分かってるよ!」
「たぶん」
「たぶんって何だよ!」
車内に笑い声が広がった。
その中心から少し離れた席に、清華さんは一人で座っていた。
話が聞こえていないはずはない。
それでもこちらへ入ってくる様子はなく、窓の外を流れていく景色を眺めている。
瞳子は何となく、その横顔を見た。
昨日までと変わらない清華さんだった。
学校の中でも、外でも、みんなと一緒に行動することを嫌がっているわけではない。それなのに、自分から騒ぎの中へ飛び込んでくることはほとんどなかった。
「清華さん!」
瞳子が声をかけると、窓の外を見ていた清華さんが振り向いた。
「何ですか?」
「黒田くんたちが清華さんに聞きたいことあるんだって!」
「斉藤!?」
黒田の声が裏返り、宮坂も三浦も一斉に瞳子を見る。
「え、違うの?」
「いや、違わないけど! 振り方が雑じゃね?」
「聞きたいなら聞けばいいじゃん」
「お前そういうとこすげえな……」
呆れたような声を出す黒田へ、清華さんは静かに尋ねた。
「何を聞きたいんですか?」
「あ……いや、その」
さっきまで騒いでいた黒田が急に言葉に詰まる。
星羅ちゃんが隣で肩を震わせている。
「ほら、清っちが待ってるよ」
「分かってるって!」
黒田は一度咳払いしてから、馬術時代の練習について質問した。
清華さんは少し考えたあと、ジュニア時代に行っていた基礎練習や騎乗時間について淡々と答えていく。
その話が始まると、宮坂や三浦も少しずつ質問を挟むようになった。
瞳子はその様子を眺めながら笑った。
「普通に話せるじゃん」
「誰のせいでこうなったと思ってんだよ」
黒田に言われても、瞳子にはよく分からなかった。
「聞きたかったんでしょ?」
「そうだけどさ……」
星羅ちゃんがとうとう堪えきれずに吹き出した。
「男子が思春期すぎるんだが!」
「う、うっせー」
また車内が騒がしくなる。
その中で清華さんも会話には加わっていたものの、笑ったり大声を出したりすることはなく、聞かれたことに一つずつ答えているだけだった。
それでも、少し前まで一人で窓の外を見ていた清華さんが、今は同期の輪の中にいる。
瞳子には、それだけで何となく嬉しかった。
二時間ほど走ったバスが勝浦へ着くころには、窓の向こうに青い海が見えていた。
「海!」
星羅ちゃんが真っ先に窓へ張りつく。
「見えてる見えてる!」
瞳子も隣から覗き込み、小町ちゃんまでその後ろから顔を出したため、一つの窓に三人の頭が集まった。
「狭いって!」
「小町ちゃんも見てるじゃん!」
「見えるもんは見たいわ!」
「清っちも来なよ!」
星羅ちゃんが振り返る。
清華さんは少し離れた席から三人を見ていた。
「ここからでも見えます」
「そういう問題じゃないって!」
星羅ちゃんが手招きしても、清華さんは動かない。
瞳子は窓の外と清華さんを交互に見たあと、笑った。
「じゃあ着いたら一緒に見ようよ」
「海は逃げませんよ」
「分かってるよ」
バスが駐車場へ入る。
建物の向こうには、陽射しを受けた海が広がっていた。
学校を出てからまだ数時間しか経っていないのに、いつもの一日とはまるで違う。
馬もいなければ、馬場もないし、厩舎もない。
それでも不思議と落ち着かない感じはなく、これから何が始まるのだろうという楽しみのほうが大きかった。
バスを降りた星羅ちゃんが、両腕を大きく伸ばす。
「サマーキャンプ、始まったー!」
「まだ説明も聞いてへんやろ!」
すぐに小町ちゃんのツッコミが飛び、風磨や男子三人も笑いながら荷物を下ろしていく。
瞳子もバッグを肩へ掛けると、少し後ろでは清華さんが静かにバスを降りてきた。
八人全員で学校の外に泊まるのはこれが初めてで、どんな三日間になるのかは、まだ誰にも分からない。
ただ、瞳子は目の前に広がる海を見ながら、早く荷物を置いて外へ出たいと思っていた。




