第24レース 同じじゃない
サクラに乗った日から数日後、瞳子は別の馬の背にいた。
競馬学校の騎乗訓練では、同じ馬に続けて乗れるとは限らない。技量やその日の訓練内容などに合わせて騎乗馬が割り振られるため、少し前に乗った馬と再び組むこともあれば、初めて跨がる馬が続くこともある。
今日の騎乗馬、ハヤテも瞳子にとって初めて乗る馬だった。
名前だけを聞いたときには、ずいぶん速そうだと思った。ところが、実際に乗ってみると印象は正反対だった。
「ほら、前へ出せ。そこで止めるな」
「はい!」
教官の声に返事をし、瞳子はふくらはぎを馬体へ添えて、前へ進むよう合図を送った。
ハヤテは前へ進んではいるものの、どこかのんびりしている。同じ馬場では清華さんや小町ちゃんたちも騎乗しており、それぞれ決められた間隔を保って進んでいたが、前の馬との差は少しずつ開き始めていた。
「ハヤテ、もうちょっと行こう」
当然、馬に話しかければ速くなるわけではない。それでも思わず声が出て、ふくらはぎを馬体へ軽く当てて前へ進むよう促すと、ハヤテは少しだけ反応して前へ出た。
ところが、その反応は長く続かない。
――サクラとは全然違う。
数日前に乗ったサクラは、右へ流れそうになる前の小さな変化を感じ取ることが課題だった。ハヤテには今のところ左右へ逃げるようなところはなく、進路そのものは素直なのに、瞳子が「もう少し前へ」と伝えても思ったような反応が返ってこない。
「斉藤、脚を使え」
「はい!」
今度はさっきより強めに、脚でハヤテのお腹をトントンと叩いて合図すると、ハヤテが前へ出た。
「よしっ」
このまま進んでいけば――
「斉藤、馬にずっとしがみつくな!」
「しがみついてません!」
「脚だ! 力入りっぱなしだぞ!」
「あっ」
言われて初めて、自分がずっと脚へ力を入れていたことに気づいた。慌てて緩めると、ハヤテの身体が自分の下で少し柔らかく動いたような気がする。
強くすれば前へ出る。でも、ずっと強くしていればいいわけでもない。
そうなると、今度はどのくらいの力で、どのタイミングで伝えればいいのか分からなくなってきた。
数日前にも同じことを思ったばかりなのに、今日はまったく違う理由で難しい。騎乗している馬が変わっただけで、こんなにも感覚が違う。
休憩に入るころには、瞳子は馬場の外で大きく息を吐いていた。
「ハヤテって、ずっとこんな感じなのかなぁ」
近くにいた星羅ちゃんが、ヘルメットを外しながら首を傾げる。
「どんな感じ?」
「なんかね、行ってって言っても『はいはい』って感じ」
「馬にそんな返事されたの?」
「された気がするの!」
「とこの脳内じゃん」
星羅ちゃんが笑い、小町ちゃんも飲み物を口にしながらこちらを見る。
「そういう馬もおるやろ。みんな同じ反応するわけちゃうし」
「それは分かるんだけど……サクラのときは、右に行きそうなのが分かったら、その前に何とかすればよかったじゃん?」
「簡単そうに言うなぁ」
「簡単じゃなかったよ!」
思い返せば、一度しか上手くできていない。それでも、やるべきことは何となく見えていた。
今日は違う。
ハヤテに前へ行ってほしいことは分かっているのに、どう伝えれば一番いいのかが掴めない。脚を弱く使えば反応が小さく、強くすれば前へ出るものの、そのまま力を入れ続ければ今度は教官から注意される。
「もっと強くやったらええって話でもないんやろな」
小町ちゃんがそう言うと、瞳子は唸った。
「じゃあ、どうしたらいいんだろ」
「それを自分で考えるんが訓練なんちゃう?」
「小町ちゃん、急に教官みたいなこと言う」
「知らんがな」
そんなやり取りをしていると、少し離れたところにいた清華さんがこちらへ視線を向けた。
休憩中でも姿勢がほとんど崩れない。瞳子は、そういうところまで清華さんらしいなと思う。
「斉藤さん」
「ん?」
「少し、いいですか」
「なに?」
清華さんは一度ハヤテのほうを見てから、いつもの落ち着いた声で続けた。
「さっき見ていて思っただけなので、間違っているかもしれませんが」
その前置きが、いかにも清華さんらしかった。
「斉藤さん、反応してからも脚を使い続けていませんでしたか? 脚に力を込めたまま。の方が分かりやすいかもしれません」
「反応してから?」
「はい。最初に脚を使ったとき、ハヤテは少し前へ出ていました。でも、そのあとも斉藤さんが同じように脚を当て続けていたので」
瞳子はさっきの騎乗を思い返した。確かに、前へ出てほしくてずっと脚を使っていた。
「それって、ダメなの?」
「ダメと言い切れるほど私はハヤテを知りません。ただ、反応したあとも、脚や手綱で同じ扶助を送り続ければ、どの合図に応えればいいのか分かりづらくなる馬もいます」
「……ずっと『行って、行って、行って』って言ってたみたいな感じ?」
清華さんが少し考える。
「たぶん、近いと思います」
「そっか……」
瞳子はハヤテを見る。
前へ出てほしいから、ずっと伝え続けた。自分としては分かりやすく伝えているつもりだったのに、馬にとっても同じだったとは限らない。
「清華さんは、こういう馬にも乗ったことあるの?」
「似たタイプの馬ならあります。ただし、同じではありません」
「同じじゃない?」
「馬ごとに違いますから」
清華さんはそれだけ言うと、自分の騎乗馬のほうへ戻っていった。
瞳子はその後ろ姿を見送りながら、最後の言葉を頭の中でもう一度考えた。
牧場にいたころから、馬にはそれぞれ性格があると知っている。人懐っこい馬もいれば警戒心の強い馬もいるし、触られるのが好きな場所も嫌がる場所も違う。
サクラにはサクラの癖があり、ハヤテにはハヤテの反応がある。それなのに騎乗訓練になると、いつの間にか「こうすれば動く」という共通の答えがあるような気になっていた。
だったら、自分のほうが馬に合わせなければならない。
休憩が終わり、再び馬場へ出た瞳子は、さっきまでより少しだけ肩の力を抜いた。
前を行く馬との差を確認しながら、まずは軽く脚を使ってみる。するとハヤテの動きが少しだけ前向きになった。
――今。
反応が返ってきたところで脚の力を緩めると、ハヤテはそのまま何歩か進んでいった。やがて動きが鈍くなり始めたところでもう一度合図を送り、反応したらやめる。また鈍くなったら伝える。
最初は、その繰り返しだった。
劇的に変わったわけではないし、前を行く馬へ一気に追いついたわけでもない。教官から褒められるほど滑らかにできたわけでもなかったが、さっきまでよりハヤテとのやり取りが少し分かりやすくなった気がした。
「斉藤」
「はい!」
「さっきよりマシだ。そのまま脚を垂れ流すな。合図したら、馬が反応する時間を作れ」
「はい!」
教官の言葉を聞き、瞳子は少し嬉しくなった。清華さんが言っていたことと、やっぱり似ている。
もう一度軽く脚を使ってみると、今度は反応が小さかった。同じ強さでは足りないのかもしれないと思い、少しだけ強くすると、ハヤテが前へ出る。その瞬間に脚の力を緩め、返ってきた変化をなるべく見逃さないよう意識した。
何となく感じたから動くだけでは、まだ足りない。
この馬にはどのくらいの合図が届くのか、届いたあとに自分がどうすればいいのか。サクラに乗った日に教官から言われた、「自分が何を感じて、何をしたのか分からないままじゃ技術とは言えない」という言葉を思い出すと、今日はその意味が少しだけ分かる気がした。
ハヤテの反応を感じたら、自分のやり方を変えて、またその反応を見る。一回で正解を決めるのではなく、馬の上で何度も確かめながら、その馬に合うやり方を探していくのだと思うと、不思議と楽しくなってきた。
「斉藤、前との差を見ろ!」
「あっ、はい!」
考えることに夢中になりすぎて、肝心の前方を疎かにしかけていた。慌てて前の馬との距離を確認し、瞳子はハヤテへもう一度合図を送る。
訓練を終えるころには、最初ほど前の馬との差が開かなくなっていた。
馬から降りた瞳子は、ハヤテの首筋を軽く撫でながら声をかける。
「キミに伝える力加減とか、最初は全然分かんなかったよ」
もちろん返事はなく、ハヤテは何事もなかったような顔をしている。その様子を見ていると、背後から教官に呼ばれ、瞳子は振り返った。
「斉藤」
「はい」
「今日乗った馬の感覚、ちゃんと覚えておけ」
瞳子は少し考えてから頷いた。
「はい!」
「それと、違う馬に乗ったときに今日のやり方をそのまま当てはめるな」
「え?」
「馬が変われば反応も変わる。覚えることと、決めつけることは違うぞ」
そう言われてハヤテへ目を向けると、少し前に清華さんから言われた「馬ごとに違う」という言葉が頭に浮かんだ。
今日覚えたことは、次にハヤテへ乗るときには使えるかもしれない。それでも、別の馬まで同じだと決めつけてしまえば、また違うところでつまずくのだろう。
「……難しいですね」
「今さら気づいたか」
「あ、それ星羅ちゃんにも言われました」
「余計な話はいい」
「はい!」
教官が離れていくのを見送りながら、瞳子は小さく笑った。
そのあと馬具を片づけていると、少し向こうに清華さんの姿が見えた。瞳子は迷わずそちらへ向かい、声をかける。
「清華さん!」
呼ばれた清華さんが振り返った。
「何ですか?」
「さっき、ありがとう」
「……何がですか?」
「ハヤテのこと。清華さんが言ってくれたやつ、やってみたらさっきより乗りやすくなった」
「そうですか」
返ってきた声は、いつも通り淡々としていた。
「教官にも似たこと言われたよ」
「教官の指導が正しいと思います。私は見ていて気づいたことを言っただけなので」
「それでも助かったよ」
「……そうですか」
もう一度同じ言葉を返すと、清華さんはそこで会話を終えるように馬具へ手を伸ばした。
瞳子は、その様子を見ながら少し首を傾げる。
清華さんは聞けば教えてくれるし、今日のように自分から声をかけてくれることもある。それなのに、そのあとには必ず一歩だけ後ろへ下がるようなところがあった。
前にみんなで出掛けたときも、結局、清華さんのほうから輪の中へ入ってくることはなかった。
「清華さん」
「まだ何か?」
「ううん。なんでもない」
清華さんは不思議そうに瞳子を見たあと、また片づけへ戻っていった。
瞳子も自分の作業へ戻りながら、今はそれでいいのかもしれないと思う。無理に近づいたところで、相手がどう感じるかまでは分からないし、人には人なりの距離があるのだろう。
そこまで考えたところで、さっきまで馬の乗り方について悩んでいたのに、いつの間にか清華さんのことまで似たように考えている自分がおかしくなった。
「……人も同じなのかな」
「何が?」
すぐ近くから星羅ちゃんの声がして、瞳子は驚いて振り返る。
「いつからいたの!?」
「普通にずっといたし。とこが清っち見ながら一人でブツブツ言ってるから、何してんのかなって」
「ブツブツ言ってないよ!」
「言ってたって」
星羅ちゃんが笑い、その向こうから小町ちゃんもこちらを見る。
「片づけ終わったら戻るでー」
「はーい!」
返事をしながら、もう一度だけ清華さんへ目を向けた。清華さんはこちらの視線に気づく様子もなく、黙々と手を動かしている。
馬が違えば、同じ乗り方では上手くいかない。今日覚えたことが次の馬にもそのまま通用するとは限らないのなら、そのときにまた見て、感じて、考えればいい。
瞳子はそんなことを思いながら、残っていた馬具を手に取った。




