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第23レース 右へ行く前に

 六月に入ってから、空は少しずつ夏の色へ近づいていた。


 朝晩はまだ涼しい日もあるものの、日が昇れば気温はぐんぐん上がっていく。騎乗訓練を終えるころには、ヘルメットの内側まで汗ばんでいることも珍しくなくなった。


 それでも瞳子は、馬場へ向かう時間が前より楽しみになっていた。


 もともと馬に乗ることは好きだった。


 北海道の牧場にいたころから、馬の背に跨がればそれだけで楽しかったし、競馬学校へ入って初めて実際の馬に乗った日も、久しぶりに馬の背へ戻れたことが嬉しくて仕方がなかった。


 東京競馬場で日本ダービーを見てからは、それまでとは少し違っていた。


 乗れることが嬉しいだけではなくなった。もっと上手く乗れたらどうなるのだろう。


 自分がもっと上手くなったら、馬は今より気持ちよく動いてくれるのだろうか。


 そんなことが、騎乗中に以前より頻繁に頭へ浮かぶようになっていた。


「斉藤。外へ膨らんでるぞ」

「はい!」


 教官の声に、瞳子はすぐさま返事をした。


 今日騎乗しているのは、鹿毛の牝馬『サクラ』茶褐色の身体に黒いたてがみと尾を持つ女の子。競馬学校で初めて実馬騎乗をしたときにも乗っていた。


 サクラには、真っ直ぐ進ませていても進路が右へずれやすい癖がある。

 馬場の隅を回って直線へ向けようとしたところで、今回も身体がじわりと右へ流れ始めた。



 手綱だけで無理に戻そうとせず、ふくらはぎを馬体へ添えて合図を送りながら進む方向を整えると、サクラの身体が少しずつ内側へ戻っていく。


「戻して終わりにするな。今、何回目だ」

「……三回目です」

「分かってるなら、流れる前に何とかしろ」

「はい!」


 返事をしながら、瞳子はサクラの首越しに前を見た。


 最初に乗ったころは、いつの間にか進路がずれていて、教官に言われて初めて気づくことさえあった。それに比べれば、今はずっと早く分かるし、右へ寄っても自分で修正できるようになっている。


 だから少しくらいは上手くなっていると思っていたのに。


 ――流れる前に、か。


 そんなことを考えながら、瞳子はもう一度馬場を回った。


 少し前を行くのは清華さんだった。


 黒いポニーテールが、馬の動きに合わせて規則正しく揺れている。乗っている馬は違うものの、清華さんの進路はほとんどぶれない。


 真っ直ぐ進むときは真っ直ぐで、曲がるときも線をなぞっているように滑らかだ。


 馬術をずっと続けてきたのだから、今の自分と差があるのは分かっている。それでも同じ場所で同じ訓練をしていれば、その差は嫌でも目に入った。


「……よし」


 小さく呟き、瞳子は姿勢を整えた。


 別に清華さんとまったく同じように乗りたいわけではない。ただ、せっかく近くに上手い人がいるなら、見られるものは見ておいたほうがいい。


 そう思って清華さんを見ていたら、少し離れたところから教官の声が飛んできた。


「斉藤。前を見る」

「あっ、はい!」


 慌てて視線を戻すと、後ろから星羅ちゃんの声が聞こえた。


「とこ、めっちゃ見てたじゃん」

「見てないよ!」

「いや見てたし。清っちのことガン見してたし」

「参考にしてただけ!」

「訓練中に喋るな!」

「「はい!」」


 教官に怒鳴られ、二人同時に口を閉じた。前を走る小町ちゃんの肩が小さく揺れている。


 絶対笑っている。


 瞳子は頬を膨らませながらも、それ以上は何も言わず、サクラの動きへ意識を戻した。


 右へ流れる前。


 教官は簡単に言うが、どうすれば分かるのだろう。


 サクラが右へ動いてからなら分かる。首の向きも変わるし、自分の身体も一緒に運ばれる。


 それでは遅いと言われたのだから、もっと前に何かがあるはずだ。


 次の周回では、サクラの耳や首、肩の動き、それに脚の運びや、鞍を通して伝わってくる背中の動きまで意識してみた。ところが、あれもこれもと気にし始めると、かえって何を見ればいいのか分からなくなってくる。


 ――むずかしい。


 考えているうちに、また少し右へ流れる。


「斉藤!」

「はいっ!」


 すぐに修正しようとするも、また遅れた。


 休憩を挟んだあと、再び騎乗が始まった。今度は考えすぎないようにしようと決める。


 耳がどうとか、肩がどうとか、ひとつずつ答えを探そうとするから分からなくなる。


 牧場にいたころも、馬の様子をひとつずつ理由に分けて考えていたわけではない。今日は触られたくなさそうだとか、いつもより落ち着かないとか、なんとなく元気がないとか、そういう小さな違いは見ているうちに自然と分かった。


 今も同じなのかもしれないと思い、瞳子は一度息を吐いて正面へ視線を戻した。


 手綱を握る手から余計な力を抜き、脚から伝わってくるサクラの動きを感じながら進んでいく。


 馬場の端が近づいてきた。ここを回れば直線に入り、さっきからサクラが何度も右へ流れている場所を通る。


 一定のリズムで地面を踏むサクラの動きを邪魔しないよう、自分の身体もその揺れに合わせていく。


 そのとき、ほんのわずかに何かが変わった。


 ――あ。


 まだサクラは右へ寄っていない。首が大きく動いたわけでもなく、進路も変わっていないのに、なぜか瞳子には分かった。


 このままだと、右へ行く。


 そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。強く手綱を引くのではなく、右へ逃がさないように身体を支えながら脚を添える。


 するとサクラは進路を崩さず、そのまま真っ直ぐ直線へ入っていった。


 瞳子は思わず目を丸くする。今までなら一度は外へ流れていた場所なのに、今回は違った。


「……できた?」


 思わず小さな声が漏れた。そのまま数歩進んだところで、教官から「斉藤」と呼ばれ、瞳子は反射的に返事をする。


「はい!」

「今、何をした」

「え?」


 予想していなかった問いに瞬きをすると、教官はさっき通った場所を示した。


「今のところだ。馬が外へ逃げる前に修正しただろ」

「あ、はい!」

「何をした」


 そう聞かれて、瞳子は返事に詰まった。サクラが右へ行きそうだと感じたから、その前に止めようとした。それは確かなのに、具体的に何をしたのかとなると、自分でもよく分からない。


「……右に行かないようにしました」


 教官が一瞬黙り、眉間に皺を寄せる。


「それは見れば分かる」

「あっ」


 少し離れたところで星羅ちゃんが吹き出し、小町ちゃんも口元を押さえていた。清華さんだけは笑わず、真面目な顔でこちらを見ている。


「手か。脚か。重心か。何を使って、どう修正した」

「えっと……」


 瞳子は自分の手元を見る。手綱を強く引いた感覚はないし、脚も使ったはずだが、どのくらいだったのかまでは思い出せない。


「……分かりません」

「分からない」

「はい。でも、サクラが右に行きそうだったから……その前に、こっちだよって」

「こっちだよ、じゃない」

「はい……」


 さすがに怒られると思い、瞳子は少し肩を縮めた。


 教官はすぐには何も言わず、数秒ほどサクラと瞳子を見たあと、顎を少し上げる。


「もう一周」

「え?」

「同じ場所を通れ。もう一度できるか試せ」

「はい!」


 瞳子はすぐに顔を上げ、サクラを前へ進めた。さっきより胸が高鳴っている。今のが偶然だったのか、それとも本当に自分で変化を感じ取れたのか、自分でも確かめたかった。


 馬場を回りながらサクラの動きへ意識を向け、さっき感じた「右へ行く直前の何か」を探してみる。ところが、意識して見つけようとした途端、その感覚がどこにあったのか分からなくなった。


 ――あれ?


 まだ大丈夫だと思っているうちに、サクラの身体が少しずつ右へ流れ始める。


「あっ」


 すぐに修正したものの、今度はさっきのようには間に合わなかった。


「……さっきの、たまたまだった?」


 がっくりした瞳子へ、教官が言う。


「一回できたくらいで、すぐ再現できると思うな」

「はい……」

「ただ、今までより早かった」


 俯きかけていた瞳子が顔を上げる。


「流れてから気づくんじゃなく、流れる前の変化を感じた。それ自体は悪くない」


 それを聞いた途端、瞳子の口元が勝手に緩んだ。


「ただし、自分が何を感じて、何をしたのか分からないままじゃ技術とは言えない。偶然できたことと、いつでもできることは違う」

「……はい」

「今日の感覚、忘れるな」

「はい!」


 今度の返事は、さっきより大きくなった。教官から何か言われる前に瞳子は口を閉じたものの、笑うのまでは止められなかった。


 騎乗訓練を終えたあとも、さっきのことが頭から離れず、馬具を片づけながら何度も同じ場面を思い返していた。


「右に行く前……」


 本当に一瞬だけ何かが違ったはずなのに、それが何だったのかはどうしても分からない。


「瞳子ちゃん、さっきからそればっかり言うてるで」


 隣から小町ちゃんに声をかけられ、瞳子はそちらへ顔を向けた。


「だって気になるんだもん」

「教官にも言われとったやろ。すぐ分かるもんでもないって」

「小町ちゃんなら分かる?」

「乗ってへん馬のことまで分かるかいな」

「そっか」


 あっさり返す瞳子に、小町ちゃんは少し考えるような顔をしてから続けた。


「ただ、前より馬の動きには早う気づけるようになったんちゃう?」

「前より?」

「最初のころは右行かれてから、『あー!』って顔しとったやん」

「そんな顔してた?」

「してたしてた」


 横から星羅ちゃんも乗ってくる。


「それは分かる。とこ、焦るとすぐ顔に出るし」

「星羅ちゃんまで!」

「でも今日のやつ、アタシもよく分かんなかった。まだサクラ、右に行ってなかったじゃん」

「そうなの! 行ってなかったのに、分かったの!」

「じゃあ何で分かったの?」

「分かんない!」

「何それ」


 星羅ちゃんが笑い、瞳子もつられて笑った。少し離れたところでは清華さんが馬具を整えていたが、こちらの会話が聞こえていたのか、ふと顔を上げる。


「斉藤さん」

「なに?」

「右へ流れる直前、サクラの肩の向きが少し変わっていたようには見えました」

「肩?」

「はい。ただ、私は外から見ていただけなので、それを斉藤さんが感じたのかは分かりません」

「肩……」


 瞳子はさっきの騎乗を思い返した。耳だの首だの脚だの、いろいろ考えていたが、あのとき自分が感じた変化は肩だったのだろうか。


「清華さんって、そういうの全部見えるの?」

「全部ではありません」

「でも私よりいっぱい見えてそう」

「見えているものと、馬の上で感じるものは同じではないと思います」


 そう言って、清華さんはまた手元へ視線を戻した。


 瞳子は少し考えた。外から見ていた清華さんに分かったことがあって、馬の上にいた自分にしか分からなかったこともあるらしい。だったら、次にサクラへ乗る機会があったら、肩も少し意識してみよう。


「……難しいなぁ」


 思わず呟く。


「何が?」


 星羅ちゃんに聞かれ、瞳子は少し笑った。


「馬に乗るの」

「今さら?」

「今だから」


 自分でも、言ってから少し不思議だった。馬に乗ることが難しいのは前から分かっていたはずなのに、できないことを見つけるたびに嫌になるわけではなく、むしろ次はどうなるのだろうと楽しみになっている。


 今日できたのは、たった一回だけ。それも、自分が何をしたのかまだよく分かっていない。それでも、昨日までできなかったことには違いなかった。


 だったら次は、もう一度――その次は、もっと自然に。


 瞳子は片づけを終えながら、もう次の騎乗のことを考えていた。


 早く、また馬に乗りたい。


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