星羅Side① 三年後のジャパニーズドリーム
日曜日。
久しぶりに手元へ戻ってきたスマートフォンを耳に当てながら、星羅はベッドの上であぐらをかいていた。
『ねえちゃん、もうばあちゃんに代わっていい?』
「待って待って。学校どう? ちゃんと行ってる?」
『行ってる』
「宿題は?」
『やってる』
「ほんとに?」
『ほんと』
「この前言ってた算数のテストは?」
『九十八点』
「大天才!!!」
『……ばあちゃんに代わっていい?』
「まだ。友達とはちゃんと遊んでんの?」
『遊んでるって』
「誰と? 」
『いつもの』
「いつものって誰よ」
『いつものだよ!』
電話の向こうで、露骨に面倒くさそうな声が返ってくる。
星羅は思わず笑った。
八歳も離れているせいか、昔から弟にはついあれこれ聞いてしまう。
ご飯は食べているか、学校にはちゃんと行っているか、忘れ物はしていないか。
別に母親代わりのつもりなんてないけど、気になるものは気になる。
「で、最近なんか欲しいもんある?」
『ない』
「ゲームとかは?」
『……』
「ほら、あるんじゃん。何?」
『でも、ばあちゃんに言った』
「何のゲーム?」
『ねえちゃん、質問多い!』
「久しぶりなんだからいいじゃん」
『毎週電話してんじゃん!』
確かに。弟のほうが正しい。
『ばあちゃーん! ねえちゃん質問ばっか!』
遠くで助けを求める声がした。
「ちょ、告げ口すんなって!」
『代わるからね!』
「待って、最後に一個だけ。お姉ちゃんの事忘れないでね」
『しらん!』
そこで、ぶつりと声が遠ざかった。
何やら向こうでごそごそと物音がして、少ししてから聞き慣れた声に変わる。
『もしもし』
「もしもし。陽翔、冷たくない?」
『あんたがしつこいんでしょ』
「心配してるだけじゃん」
『あの子、電話のたびに尋問されるって言ってるよ』
「尋問って……難しい言葉をよく知ってるなぁ」
さすが、アタシの弟だ。
星羅はスマートフォンを肩と頬で挟みながら、ベッド脇に置いていたクッションを引き寄せた。
「そっちは元気?」
『元気元気。じいちゃんも元気よ。あんたこそちゃんとやれてるの?』
「やってるって。めっちゃ早起きして、馬の世話して、授業して、走って、筋トレして、また馬やって」
『あんたが早起きねえ』
「そこ疑う?」
『家にいたころ、休みの日なんか昼まで寝てたじゃない』
「あれは、たまの休みだから寝てたの」
『都合のいい理屈だこと』
電話越しに笑われる。
その声を聞きながら、星羅も笑った。こうやって話していると、家にいたころとあまり変わらない。
なのに電話を切ったら、ここは仙台じゃなく千葉で。
隣の部屋には同期がいて、少し歩けば厩舎があって、明日の朝になればまた馬の世話が始まる。
たった数か月なのに、ずいぶん遠くまで来た気がした。
「……ねえ、ばあちゃん」
『なに?』
「お金、大丈夫?」
自分でも分かるくらい、少し声が低くなった。
電話の向こうが、一瞬だけ静かになる。
「アタシいなくなったじゃん。前はバイト代、家に入れてたし」
大した金額ではなかったと思う。
それでも、ないよりはマシだったはずだ。
弟はまだ小学生だし、これからどんどんお金が掛かるはず。祖父母だっていつまでも働けるわけじゃない。
だからこそ星羅は、中学を卒業したころからアルバイトをしていた。
自分の服や化粧品を買うためでもあったけど、給料日には決まっていくらか家へ渡していた。
『ああ、それ?』
祖母の返事は、拍子抜けするほど軽かった。
『あんた一人いなくなった分、食費も光熱費も減ってるんだから。ちゃんとやれてるよ』
「……ほんとに?」
『ほんとほんと。洗濯物だって減ったし、ご飯だって一人分少なくて済むし』
「待って。アタシそんな家計圧迫してた?」
『一人増えれば、そのぶんお金がかかるのは当たり前でしょ』
「いや、そうだけど! なんか言い方!」
『あんたがいたころだって、別に困ってなかったよ』
「じゃあ最初からそう言ってよ!」
『心配性の孫には、これくらい言わないと聞かないからね』
「誰が心配性だし」
『あんた』
「即答!」
向こうでじいちゃんまで笑っている声が聞こえた。
絶対聞いてる。
「てかさ、アタシのバイト代より食費と光熱費のほうが高かったってこと?」
『さあねえ』
「今、絶対適当に誤魔化したでしょ」
『とにかく、こっちの心配はしなくていいの』
さっきまで笑っていたばあちゃんの声が、少しだけ柔らかくなった。
『あんたは、そっちでちゃんとやりなさい』
「……うん」
『途中で帰ってきたって別に怒らないけど、やるって決めたなら、まず自分のことだけ考えな』
自分のことだけ……それが案外、難しい。
学校に入るまでは、もっと単純だった気がする。
騎手なら若いうちから稼げるし、身長はあっても体重は重くない。運動神経にも自信があるし、ってか、周りの雰囲気を見る限り、アタシが思ってた以上に向いてるらしい。
上手くいけば、普通に働くよりずっと大きなお金を稼げる。
家にもお金を入れられる。だから馬のことも競馬のことも知らなかったけど受けた。
少なくとも、馬に乗ることそのものへ特別な憧れがあったわけじゃない。
『競馬学校、楽しいかい?』
不意にばあちゃんが聞いた。
「楽しいっていうか……」
星羅は言葉を止めた。
楽しい。
そんな簡単な一言でまとめていいのかは、よく分からない。
朝は早いし、身体は痛いし、馬は思った通りになんて動いてくれない。
教官には怒鳴られるし、清っちは何やらせても上手いし、小町は競馬の話になると知らない言葉を無限に出してくる。
とこは――。
なんか、馬に乗ってるときだけ妙に楽しそうだ。
「……この前さ。ダービー見に行ったんだよね。学校の研修で」
『ダービー。聞いたことはあるよ』
ばあちゃんでも聞いたことはあるくらいに、やっぱり凄いレースなんだ。
あの日の東京競馬場が、頭に浮かんだ。
十万人近い人間の声に、十八頭の馬。地下から響いてきた蹄の音と、馬場へ出た瞬間、一気に膨れ上がった歓声。
そして、最後の直線。
栗毛のアウレウスへ、黒く見えるテネブラエが迫っていった。
たったクビ差。
ほんの一呼吸。
それだけで、勝つ人間と負ける人間が分かれた。
「ヤバかった」
『なにが?』
「全部」
『それは良かったじゃないか』
『うん』
自分でも雑すぎると思って笑う。でも、本当にそれしか言えなかった。
スポーツニュースとかで競馬を見ても、前なら馬がいっぱい走ってるくらいにしか思わなかった。
学校へ入ってからは、少しずつ違って見える。
どうしてそこにいるのか、どうして今動いたのか。なんで、あんな小さな身体であんな大きな馬を動かせるのか。
まだ分からないことだらけだからこそ、前より気になる。
「まあでも、大丈夫」
『何がだい?』
星羅は膝を抱え直した。
「騎手デビューまで三年あるけどさ」
さっきまでの軽い調子を少しだけ落として、続ける。
「三年後は、ジャパニーズドリーム待ってるから」
『またお金の話?』
「……それもある」
即答しかけて、少しだけ止まった。
「でも、今はそれだけでもないかも」
『……そうかい』
「何、その反応」
『あんたの声を聞けば、楽しいのかどうかくらい分かるよ』
「そっか……」
『じゃあ、そろそろ切るよ。電話代もったいないだろ』
「今どきそれ言う? 無料通話だよ。これ」
『癖だよ、癖』
「はいはい。じいちゃんにもよろしく。陽翔にもアタシの事を一日三回は拝むんだよ。言っておいて」
『ばあちゃんが言うの嫌だよ。自分で言いな』
「アタシぁ言ったら嫌がられたんだって」
『そりゃそうでしょ』
「じゃ、また来週」
『身体だけは気をつけてね』
「ばあちゃんもね」
通話が切れた。
急に静かになった画面を、星羅はしばらく見つめる。
それからベッドへ仰向けに倒れ込んだ。
乗馬経験なんてほとんどなかった自分が、本当に騎手になれるのかだって分からない。
同期には、自分よりずっと馬を知っている子がいる。自分よりずっと上手く乗れる子もいる。
それでも。
東京競馬場で見たあの景色を思い出すと、不思議と未来を想像してしまう。
賞金がいくらとか、騎手が何パーセントもらえるとか。
もちろん、それは大事だ。
大事だけど――。
あの十八頭の中に、自分がいたら。
スタンドから、ばあちゃんや、じいちゃん……陽翔が観ていたら。
今は、その想像もちょっとだけ悪くない。
星羅はスマートフォンを胸の上へ置き、天井を見上げた。
「……三年後、か」
まだ遠い。
だからこそ、少しくらい夢を見てもいい気がした。
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