第21レース 一呼吸の差
『テネブラエ、差し切った! 世代の頂点へ! 畑宗一郎、自らの記録を更新し、史上最多――六度目の日本ダービー制覇!』
教室の前方に設置されたモニターから、数日前に東京競馬場で聞いた実況が響いた。
画面の中では、黒に近い青鹿毛のテネブラエがゴール板を駆け抜け、その内側を栗毛のアウレウスが走っている。
何度見ても、ほとんど差なんてない。
あの日は遠くの大型ビジョンを見ながら、どちらが勝ったのか分からなかった。今こうして映像で見返しても、それくらい際どかった。
「――ここまででいい」
教官の声と同時に映像が止まる。
教室には一年生八人が座っていた。
日本ダービーの現地研修から数日。今日の座学は、あの日に見たレースの振り返りだった。
「結果は知っているな。テネブラエが一着、アウレウスが二着。着差はクビ」
教官がリモコンを操作すると、画面が別の映像へ切り替わった。
今度は、レース全体を高い位置から捉えた映像だった。
「レース全体を高い位置から追った全周パトロール映像でもう一度見る。着順を見るんじゃない。どこで勝負が決まったのか、自分で考えろ」
今度は、レース全体を高い位置から捉えた映像だった。
映像がスタート地点まで戻される。
ゲートが開き、十八頭が一斉に飛び出した。
十八頭が進路を取り合い、一コーナーまでに馬群が形を変えていく。
「あ」
思わず声が出そうになって、瞳子は口を閉じた。
現地では速すぎて追いきれなかった動きも、映像なら少し分かる。
外から内へ入ってくる馬。その後ろへ収まる馬。空いた場所を見つけ、わずかに進路を変える騎手。
あのとき清華さんと小町ちゃんが話していたことが、少しだけ見えるような気がした。
映像は向こう正面を通り、三コーナーへ入る。
「ここからだ」
教官が言った。
四コーナー。
馬群が詰まり、最後の直線へ向けて騎手たちが動き始める。
アウレウスは前から五、六番手の内を進み、テネブラエはその少し後ろ、外側につけている。
最後のコーナーを回り、各馬が直線へ向いたところで、画面の中の本庄忍が先に動いた。
それまでアウレウスを落ち着かせ、余計な力を使わせないように運んでいた本庄が、上体をわずかに沈める。
「ゴーサイン……」
小町ちゃんが小さく呟く。
その合図にアウレウスもすぐ応え、前を走る馬との差を一気に縮め始めた。
その少し後ろから直線へ入ったテネブラエに対し、畑宗一郎はまだ追い出さない。
瞳子は、東京競馬場でこの瞬間を見ていたときのことを思い出した。
――畑さん、まだ行かない……?
あのときは、どうしてここで動かないのか分からなかった。
そしてゴール後、清華さんは言った。
――待ってた。
本庄が先にアウレウスへゴーサインを出しても、畑宗一郎はすぐには動かず、テネブラエをもう一呼吸だけ待たせている。
「止めるぞ」
映像が静止した。
アウレウスが前へ進み始め、テネブラエはまだその後方にいる。
「この時点で、どう見る」
教官が一年生たちを見回した。
少しの沈黙のあと、清華さんが手を上げる。
「畑騎手は、本庄騎手が仕掛けて馬を加速させても、すぐには反応していません」
「それだけか」
「……アウレウスを見ていたと思います。自分から先に動くのではなく、本庄騎手がどこで仕掛けるかを待っていた」
教官は答えず、今度は小町ちゃんへ目を向けた。
「成瀬はどう見る」
名前を呼ばれた小町ちゃんは、画面を見たまま少し眉を寄せた。
「うちも、畑さんは最初からアウレウスを見とったと思います」
「理由は」
「一番強い馬やと思っとったから」
その答えは早かった。
「アウレウスは皐月賞馬で一番人気。テネブラエは皐月賞には出んと、共同通信杯からダービーへ直行してきた三番人気。自分の馬が最後にどれだけ速い脚を使えるか分かっとるなら、無理に全部の馬を見るより、一番強いと思っとる馬を目標にしたほうがええ」
小町ちゃんはそこで一度言葉を切り、画面の中の本庄を見つめた。
「でも……」
さっきまで淀みなく話していた声が、少しだけ遅くなる。
「畑さんが待ったんもそうやけど、これ……忍さんのほうが先に動いてもうたんちゃうかな」
瞳子は小町ちゃんを見る。
「先に?」
「タイミングの話や」
小町ちゃんは画面を指した。
「別に早仕掛けって言うほど早いわけちゃう。この位置なら動いてもおかしないし、アウレウスもちゃんと伸びとる。でも……もう一呼吸、待てたんちゃうかなって」
教官は何も言わず、そのまま続きを促すように立っている。
「だって忍さん、待てへん騎手ちゃうし」
小町ちゃんがぽつりと言った。
「皐月賞でもそうやった。直線で前が詰まりかけたのに、無理に外出さんと、一瞬待ったんです。内が開くん見てから仕掛けて……あのときは、普通ならもっと早く動きたくなるところを我慢しとった」
瞳子は瞬きをした。
小町ちゃんはそんなところまで覚えているらしい。
「皐月賞のとき、アウレウスは三番人気やった」
小町ちゃんの目が、少しずつ細くなる。
「でも、ダービーは一番人気。皐月賞馬で、勝ったら二冠。しかも忍さん自身、まだダービー勝ってへん」
そこまで言って、小町ちゃんが黙った。
教官が初めて口を開く。
「続けろ」
「……勝ちたかったんやと思います」
教室が静かになった。
「皐月賞より、ずっと」
小町ちゃんは画面から目を離さない。
「勝ちたいって気持ちが強すぎて、ほんのちょっとだけ……早う動いてもうたんかなって」
星羅ちゃんが隣で小さく息を吐いた。
「そんなので変わるの?」
「変わったやろ」
小町ちゃんはすぐに返す。
「クビ差やで」
その一言に、星羅ちゃんも黙った。
教官が映像を再生する。
本庄の手が動き、アウレウスが抜け出す。それでも宗一郎はすぐには動かない。
ほんのわずかな間を置いて、ようやくテネブラエへ合図を送る。
青鹿毛の馬体が伸び始め、ゴール寸前で栗毛のアウレウスを捉えた。
クビ差。
映像がもう一度止まる。
「成瀬の見方は、かなり近い」
教官が言った。
小町ちゃんがわずかに顔を上げる。
「ただし、本庄騎手本人が何を考えていたかは、本人にしか分からん。『一番人気の重圧に負けて焦った』と、外から簡単に決めつけるな」
「はい」
「そのうえで、映像から分かる事実だけを見るなら、本庄騎手は、皐月賞より早いタイミングで勝負へ出た。そして畑騎手は、それを見ても待った」
教官が再び画面へ目を向ける。
「ダービーで一番人気。皐月賞馬で、二冠が懸かっている。十万人近い客が集まり、競馬に関わる多くの人間が注目している。お前たちにはまだ実感できんだろうが、その状況で普段通りの判断をすることは簡単じゃない」
瞳子は、あの日のスタンドを思い出した。
何万人もの手拍子に、身体へぶつかってくるような歓声。あれを馬の上で浴びるうえに、自分が勝つと思われている。
瞳子には、それが怖いとはまだ思えなかった。
でも、楽しそうと思うのと、実際に一番人気でそこへ立つのは、きっと同じじゃない。
「畑騎手は、あの時点でダービー五勝だ」
教官の声が続く。
「本庄騎手が先に動いても慌てなかった。自分の馬の脚を信じて、使うところまで待った。技術だけではなく、経験も含めた判断だ」
画面に、ゴール直後の二頭が映る。
「逆に言えば、本庄騎手があと一呼吸待っていたら、結果は違った可能性もある」
小町ちゃんの眉がわずかに動いた。
「……やっぱり」
「だが、レースはやり直せない。それも競馬だ」
教官はそこで映像を切り替えた。
今度は、レース後のコメントが画面に映し出される。
本庄忍。
『理想的なポジションでしたし、馬は本当によく走ってくれました。最後まで止まっていません。…………悔しいです』
短いコメントだった。
小町ちゃんが何も言わずに画面を見つめている。
続いて、畑宗一郎。
『アウレウスが一番強いと思っていたので、あの馬を見ながら運びました。直線も慌てずに待てましたし、体質的に弱いとこあるんで、共同通信杯からレースを使わずぶっつけでしたけど。調教師や厩舎スタッフが万全に仕上げてくれましたし、最後はテネブラエがよく応えてくれました』
「……ほんまに最初から見とったんや」
小町ちゃんが呟いた。
「怖っ」
星羅ちゃんが思わず漏らす。
「何がですか?」
清華さんが尋ねる。
「いや、だってさ。本庄さんがいつ動くかずっと見てて、動いてもまだ待って、最後だけ差すんでしょ? それでクビ差って……ミスったら普通に負けじゃん」
「だから凄いんやろ。まだ走れる力を残したまま、脚を余して負けたら、それはそれでボロクソ言われるんやで」
小町ちゃんが即座に返した。
「待ちすぎても負けるし、早すぎても負ける。正解が先に分かっとるわけちゃうからな」
瞳子はもう一度、止まった画面を見る。
映像なら何度でも戻せる。
ここで待てばよかった、ここで動けばよかったと、終わったあとならいくらでも言える。
でも実際の騎手に、そのやり直しはない。
たった一度の判断で、クビ差が生まれる。
教官が八人を見渡した。
「覚えておけ。馬を制御するだけが騎手じゃない。レースの中では、自分も制御しろ」
瞳子はその言葉を、頭の中でもう一度繰り返した。
自分も、制御する。
今はまだ、全部を理解できた気はしない。
ただ、ゴール前のクビ差が、数日前よりずっと大きなものに見えていた。
授業が終わり、瞳子たちが教室を出ようとしたところで、後ろから声が飛んだ。
「成瀬さん」
「ん?」
振り返った小町ちゃんの前に、清華さんが立っている。
「さっきのレースについて聞きたいんですが」
「まだあるん?」
「はい」
清華さんは真顔だった。
「仮に前半のペースがもっと速かった場合、本庄騎手は同じ位置でも待つべきだったと思いますか? 」
「……場合によるやろ」
「では、テネブラエがもう一列後ろだった場合は? 」
「それも位置だけじゃ決められへん。前との間隔とか、馬にどれだけ余力が残っとるかっていう手応えもあるし」
「アウレウスがテネブラエより外側の枠だった場合――」
「ちょ、待って! 」
小町ちゃんが両手を上げた。
清華さんが口を閉じる。
「一気に聞きすぎや! 一個ずつにして! 」
「一個ずつ聞いています」
「そういう意味ちゃうねん! 」
星羅ちゃんが横で吹き出した。
「清っち、完全に小町先生の補習じゃん」
「分からないことを聞いているだけです」
「いや、ええんやけどな」
小町ちゃんは頭を掻きながら、廊下の時計へ目をやった。
「あかん。うち、このあと筋トレせな」
「では、終わったあとで」
「終わったら風呂入って課題もあるわ! 」
清華さんが少しだけ眉を寄せる。
どうやら本当に続きを聞きたいらしい。
そんな清華さんを見て、小町ちゃんは小さく息を吐いた。
「……そんな聞きたいんやったら、日曜にゆっくり話したるわ」
「日曜日?」
「休みやろ。そのときなら時間あるし」
清華さんは少し考えてから頷いた。
「分かりました」
そのやり取りを見ながら、瞳子はなんとなく嬉しくなった。
清華さんが、自分から誰かにこんなに質問している。
どう思っているのかまでは分からないけれど、少なくとも小町ちゃんの知っていることを、本気で知りたいと思っているのだろう。
そして、日曜日。
小町ちゃんと星羅ちゃんの部屋に遊びに来ていた瞳子がベッドの端へ腰掛けていると、扉を軽く叩く音がした。
「はいはーい」
星羅ちゃんが扉を開ける。
そこに立っていたのは、清華さんだった。
「おはようございます」
「清っち、マジで来た」
「来ると言いました」
「いや、そうだけど」
瞳子も思わず笑った。
「おはよう、清華さん」
「斉藤さんもいたんですか」
「うん。暇だったから」
清華さんは一度部屋の中を見回してから、小町ちゃんへ視線を向けた。
「この前の続き、いいですか?」
「ええで」
小町ちゃんはあっさり答えると立ち上がり、そのまま財布と公用の外出用バッグを手に取った。
「ほな、行くで」
「……どこへ?」
清華さんが目を瞬かせた。
「外」
「私は、ダービーについて話を聞きに来たんですが」
「知っとるよ」
「では、なぜ外へ?」
小町ちゃんがにやっと笑う。
「うち、部屋で話すとは言うてへんで」
清華さんの眉間に、ほんの少し皺が寄った。
その横で星羅ちゃんが笑いを堪えている。
「はい清っち、拉致決定」
「拉致ではありません」
「ほぼ拉致やろ」
「成瀬さん?」
「歩きながらでも競馬の話はできる。ほら、行くで」
納得していない顔の清華さんを残し、小町ちゃんはさっさと廊下へ出ていく。
星羅ちゃんも当然のようにそのあとを追い、瞳子も立ち上がった。
「行こ、清華さん」
「……斉藤さんまで?」
「だって楽しそうだし」
「私は競馬の話をしに来ただけなんですが……」
そう言いながらも、清華さんは結局、三人のあとについて部屋を出た。




