第20レース ダービーデー 勝ちたい
十八頭が、一斉に飛び出した。
「行った!」
星羅が声を上げ、瞳子も思わず身体を前へ傾けた。
上から見るレースは、テレビで見てきた競馬とも、さっきまで近くから眺めていた馬たちとも、まるで違っていた。
十八頭はただ一斉に前へ走っているわけではない。ゲートを出た直後からそれぞれ進む方向が違い、内の馬は最短距離を確保しようと前へ出る一方、外から好スタートを切った馬は、前へ進みながら少しずつ内へ角度をつけていく。
一頭が前へ出れば、その後ろに別の馬が入り、空いた場所にはまた一頭が滑り込む。
「うわ、めっちゃ動く!」
「一コーナーまでが大事やからな」
小町の声が急に速くなった。
「外ずっと回されたら、内を走る馬より余計に距離損するし、無理やり内入ったら、前の馬に進路を塞がれることもある」
「そんな一瞬で決めんの?」
「せや!」
スタートして、ほんの数秒。それなのに十八人の騎手はもう互いの位置を探り合っていた。
内側では二頭、三頭が横に並んで簡単には外から入れさせず、そのすぐ後ろでは、一人の騎手がちらりと後方を確認してから斜めに進路を取り、空いた場所へ滑り込んでいく。
「今の!」
清華が声を上げた。
「何?」
「あの騎手、最初からあそこを狙ってた」
清華が示した一頭は、前を走る二頭のすぐ後ろへぴたりと収まっていた。
「先頭へ行く逃げる馬が作る進路を最初から読んでた。あそこなら――」
「ロス少ないし、前にも馬置ける。ええ位置や」
小町が続ける。
瞳子には最初、十八頭がごちゃごちゃと集まっているようにしか見えなかった。
でも、二人の話を聞きながら改めて見ると、少しずつ違って見えてくる。
偶然そこにいるわけじゃない。一頭一頭が自分の行きたい場所へ動き、その背中では騎手たちが、馬を走らせながらほんの数秒先の場所まで奪い合っている。
「あっ、あの馬」
瞳子は一頭の走りに目を留めた。
周囲の馬より少し首が高く、頭の動きも大きい。乗っている騎手の腕も、さっきから忙しく動いている。
「行きたがってる?」
「そうですね」
清華もすぐに答えた。
「かなり前へ行きたがってる。でも騎手は、スタミナを残しておきたいから、行かせたくない」
一方、少し離れた場所を走る畑宗一郎の馬は、首を低く保ったまま流れに乗っている。騎手の身体も大きくは動かず、周囲では激しく位置が入れ替わっているのに、そこだけ妙に静かに見えた。
「……やっぱり、すごい」
清華が小さく呟く。
十八頭が最初のコーナーへ近づくにつれ、スタート直後は横いっぱいに広がっていた馬群が一気に狭まっていく。
「うわ、ぶつかりそう!」
星羅が声を上げた。
内へ入りたい馬がいれば、その場所を譲りたくない騎手もいる。前の馬の後ろへ収めようとする者もいて、ついさっきまで横に散らばっていた十八頭は、一コーナーへ入るころには数頭幅の一つの馬群へ形を変えていた。
「忍さん、そこや」
小町が呟く。
本庄忍は前から五、六番手ほど。
「いい位置なの?」
「ええと思う。前行きすぎてへんし、後ろすぎもせん。逃げる馬も見えるし、このまま折り合って、余計な力使わんで走れたら……」
そこまで言うと、小町は口を閉じた。もう完全にレースの中へ入り込んでいる。
一コーナーを回りきれば、あれほど激しかった位置取り争いも少しずつ落ち着き、十八頭が二コーナーから向こう正面へ流れていくころには、馬群は綺麗な縦長になっていた。
「競馬って、最初こんな忙しいんだ……」
星羅が呟いても、小町は馬群から目を離さない。
「ここからが長い」
向こう正面へ入ると歓声も少しだけ遠くなり、その代わり、上からなら馬群全体の動きがよく見えた。先頭がレースを引っ張り、その後ろへ馬たちが縦に連なっている。
千メートルの通過タイムが表示された。
「五十九秒八……」
小町が呟く。
「それって速いの?」
「平均ペースや」
小町の目が細くなる。
「これなら前も残れるし、後ろも来れる。でも忍さんの位置……ええな」
「一人で会話完結してんじゃん」
「今ほんま黙っといて」
「はいはい」
星羅が笑ったのも、そこまでだった。
第三コーナー。東京競馬場名物大ケヤキへ近づくにつれて、馬群が少しずつ縮まり始める。一頭が外へ進路を取り、それを追うように後ろの馬も動いた。
「もう仕掛けるの?」
「まだや」
小町が即座に返す。
「ここから本気で加速させたら、東京の長い直線もたへん」
三コーナーから四コーナーへ。
前との差を詰めにかかる馬もいれば、まだ動かない馬もいる。外へ進路を探す馬もいて、騎手たちの身体が少しずつ低くなるにつれ、十八頭は最後の勝負へ向けてもう一度形を変えていった。
本庄は前から五、六番手の内。
畑宗一郎は、その二、三馬身ほど後ろの外側にいる。
四コーナーを回ると、東京競馬場の長い直線が開けた。
その瞬間、競馬場が爆発した。
「忍さん!」
小町が勢いよく腰を浮かせ、瞳子も思わず前のめりになる。
眼下では馬群が横いっぱいに広がり、それまで前の馬に隠れていた色とりどりの勝負服が、内から、真ん中から、大外から一斉に姿を現した。
本庄が動く。
「ゴーサインや!」
小町の声とほとんど同時に、一番人気の栗毛馬アウレウスが鋭く反応した。
残り四百。
前を走る馬との差がみるみる縮まり、長い直線の内。本庄とアウレウスが一気に坂を駆け上がっていく。
その少し後ろでは、青鹿毛のテネブラエがまだ動かない。
宗一郎の身体も低いまま、じっと息を潜めているようだった。
「畑さん、まだ行かない……?」
瞳子が思わず呟くも、清華は答えず視線だけを、宗一郎から離さなかった。
「忍さん、行けっ!」
小町の声が裏返る。
「そのまま! そのままや!」
アウレウスが先頭へ並びかけ、その勢いのまま抜け出した。
前にはもう馬がいない。栗毛の馬体が、東京の長い直線を先頭で駆けていく。
勝つ。
瞳子にも、そう見えた。
このまま押し切る――そう思った、そのときだった。
「外!」
清華の声に、瞳子の視線が外へ動く。
宗一郎の身体が、わずかに動き、それに呼応するようにテネブラエの重心が沈んだように見えた。
力強く芝を蹴るたび、黒に近い馬体が大きく沈み、そこから一気に前へ伸びていく。鬣が風を切るようになびき、その背中では宗一郎が鞭を入れ、手綱を使いながら激しく追っている。
なのに、馬上の軸はほとんどぶれない。
映るものに目が奪われ圧倒される。
音が消えた静かな世界で沸々と内側から熱くなってくのを感じた。
行き場を探すように全身を駆け巡るそれは、熱を帯びたまま毛穴という毛穴から噴出し……
一気に鳥肌が立った。
「うそ……!」
来ている。
テネブラエが、明らかに違う勢いでアウレウスを追ってくる。
その背中の宗一郎は、返し馬のときと同じだった。姿勢は低いのに力んで見えず、激しく追い始めても身体の軸がほとんどぶれない。
アウレウスとの差が削られていく。
「後は平坦や、坂はもうない! 来んな、来んな……!」
小町が祈るように呟いた。
残り二百を切る。
本庄も必死にアウレウスを追い、宗一郎も、テネブラエに残っていた最後の脚を引き出している。
陽を弾く栗毛のアウレウスへ、その外から黒に近い青鹿毛のテネブラエが迫り、明るい馬体と暗い馬体が長い直線の先で二頭だけ抜け出していく。
音が戻る――スタンドを包む歓声は、自分たちの声さえ聞き取れないほど大きくなっていた。
残り百。
まだアウレウスが前にいる。
半馬身ほどあった差へ、テネブラエが外からじわじわと迫り、アウレウスと横並びになるように馬体を併せていく。
「忍さん!」
小町が叫び、瞳子も気づけば声を上げていた。
「行けええっ!」
誰に向けているのか、自分でも分からない。
アウレウスが粘るも、馬体を併せながら、テネブラエが迫る。
二頭が並ぶようにゴールへなだれ込み、最後の一完歩まで互いに譲らないまま、ゴール板を駆け抜けた。
瞬間、競馬場は地鳴りのようなどよめきに包まれる。
「どっち!?」
星羅が叫ぶ。
上から見ていても分からない。
「忍さんやろ……?」
小町は立ったまま、大型ビジョンを食い入るように見つめていた。
しばらくしてから、ゴール前の映像が流れる。
内に栗毛のアウレウス。
その外から、青鹿毛のテネブラエ。
二頭が並んだままゴールへ飛び込み、映像がその瞬間で止まる。
「……ビジョンだと、外っぽい」
瞳子が呟いても、小町は何も答えなかった。
やがて、着順が表示される。
一着――テネブラエ。
二着――アウレウス。
着差、クビ。
「……あぁ」
小町の肩から、ふっと力が抜けた。
「クビ差かぁ……」
瞳子は何と言えばいいのか分からず、大型ビジョンに映し出された二頭を見つめる。
馬の首ひとつ分ほどしかない、ほんのわずかな差だった
それなのに、勝った馬と負けた馬はもう決まっている。
そのとき、隣にいた清華が小さく呟いた。
「……待ってた」
「え?」
瞳子が振り向く。
清華の目は、まだ馬場へ向けられていた。
「畑さん。本庄さんが動いても、すぐには追わなかった」
その言葉を聞いて、小町もゆっくり顔を上げる。
「……確かに」
さっきまで悔しさばかり浮かんでいた目が、何かを確かめるように細くなった。
「忍さんが先に仕掛けて、アウレウスが抜け出してから……畑さん、動いとる」
「わざと?」
星羅が尋ねる。
清華は少し考えてから答えた。
「たぶん」
それ以上は誰も言わなかった。
それでも瞳子には、最後の直線でじっと動かなかった宗一郎の姿が、もう一度はっきりと思い出された。
アウレウスが先に動き、先頭へ抜け出しても、宗一郎はすぐには追わなかった。それからほんの少し遅れてテネブラエを動かし、最後にはクビだけ前へ出た。
あのわずかな時間が、勝敗を分けたのだろうか。瞳子にはまだ分からない。
ただ、昼間に見た飄々とした男が、六度もこのレースを勝ってきた理由を、ほんの少しだけ見せられた気がした。
その余韻が消えるより早く、競馬場のどこかから一つの声が上がった。
「畑!」
少し離れた場所から同じ声が返り、さらに別の場所へ広がっていく。
「畑! 畑!」
勝ったテネブラエが、ゆっくりとスタンド前へ戻ってきた。
青鹿毛の背中には、畑宗一郎。
「畑! 畑! 畑!」
何人が叫んでいるのか、もう分からない。
眼下からも、左右からも、もっと遠いスタンドからも同じ名字が何度も繰り返され、それらが一つの巨大な声へ変わっていく。
日本ダービー六度目の制覇。
自らの記録を塗り替える、史上最多の勝利。
宗一郎がテネブラエの背中から客席へ片手を上げるだけで、競馬場はまた大きな歓声に包まれた。
「……すご」
星羅が呟く。
朝からあれほど賞金の話をしていたのに、もう金額のことなんて一言も口にしない。ただ、何万人もの人から名前を呼ばれている騎手を見つめている。
清華も黙ったままだった。さっきまで騎乗フォームや進路を追い続けていた目が、今は宗一郎から離れない。
小町はまだ少し悔しそうな顔をしていたものの、それでも勝者へ向けられる声から目を逸らそうとはしなかった。
瞳子も同じだった。
何度も響く「畑!」という声が、身体の内側まで震わせてくる。
レース前に浴びた歓声とは違う。
今は、日本ダービーを勝った一頭と、一人だけに向けられている。
勝ったら、こんな景色が待っているんだ。
そう思った瞬間、朝からずっと続いていた高揚が、もう一段大きく膨らんだ。
朝からずっと、ダービーに乗ってみたいと思っていた。十八頭のどれでもいい。この馬場を走れたら絶対にワクワクする。
その気持ちは今も変わらない。
でも――。
瞳子は、テネブラエの背中で何万人もの声を浴びる宗一郎を見つめた。
「……私も、いつかここで勝ってみたい」
「とこ?」
星羅が振り返る。
瞳子自身、その言葉には少し驚いていた。
今まで思っていたのは、乗ってみたい。
なのに今、自然と口から出てきたのは――。
勝ってみたい。
何万人もの「畑」コールが響く東京競馬場で、瞳子はもう一度、テネブラエの背中を目で追った。




