第19レース ダービーデー 歓声の中へ
東京競馬場 第11レース 芝2400m(左 C)
18頭 晴れ 良馬場
東京優駿(日本ダービー)
騎手たちが跨り、十八頭が順番にパドックをあとにしていく。
小町の視線は本庄忍を追ったまま動かず、清華は一人ひとりの騎手が馬上へ身体を収めるたび、手綱を持つ位置から鐙の長さまで確かめるように目を走らせていた。
次に案内されたのは、本馬場へ出てくる馬たちを近くから見られる場所だった。
まだ姿は見えないものの、パドックと本馬場をつなぐ地下馬道の奥から乾いた蹄音が反響しながら聞こえてくる。
「もう、来そう……? ってか。まだレース始まんないの?」
星羅が小町の肩をトントンと叩く。
「もうちょいや。これから本馬場で『返し馬』っちゅー、レース直前にやる最終ウォーミングアップするからな」
「返し馬は分かったけど『本馬場』は?」
「レースするメインの競走コースやで。分かりやすいよう、流れで言ったる。『パドック』で馬が周回して調子を確認したら、地下馬道通って本馬場へ入場。そこで『返し馬』っちゅーウォーミングアップをするんや」
「あーね」
「うちの話、聞いてたんか?」
地下馬道から静かに姿を現したのは、物語から飛び出してきたような二頭の白馬たちだった。
跨る乗り手たちは漆黒の燕尾服にシルクハット。出走馬を馬場へ先導する誘導馬も芸術品のように美しく編み込まれたたてがみを揺らし、誇らしげに胸飾りを輝かせている。
その後ろから、ゼッケンをつけた一頭目のダービー出走馬が見えた。
馬が地下馬道を抜け、本馬場へ姿を現した――その瞬間。
巨大なスタンドから、歓声が降ってきた。
朝から何度も聞いてきたはずなのに、まるで別物だった。
スタンドを埋め尽くす人たちの声が一斉に降り注ぎ、空気そのものを震わせる。音が耳へ届くというより、身体へぶつかってくるみたいだった。
二頭目、三頭目と、ダービーに挑む馬たちが次々と芝へ姿を現すたび、その歓声が押し寄せてくる。
「なにこれ……」
隣で星羅が目を見開いている。
「こんなうるさいの?」
「私も初めて……!」
答えながら、瞳子は笑いそうになっていた。怖いわけではなく、むしろ胸の奥が勝手に騒いで、身体まで前へ出そうになる。
本馬場へと出て来た馬の反応は、一頭ごとに違っていた。
歓声を浴びた瞬間に首を上げる馬がいる。耳を忙しなく動かしながら周囲を探る馬もいれば、まるで何も聞こえていないように淡々と歩いていく馬もいる。
「あの子、ちょっとびっくりしてる」
瞳子が呟く。
「分かるん?」
「うん。さっきより身体に力入ってる。でも騎手の人が――」
言いかけたところで、隣の清華から小さく息を呑む音がした。
瞳子もその視線を追う。
畑宗一郎だった。
「……あれ?」
昼に見た人と同じはずなのに、別人に見えた。
大歓声を浴びても困ったように笑い、片手をひょいと上げていた人。
今は、あの飄々とした気配がまるでない。
馬上へ収まった宗一郎は、背中にも肩にも腕にも余計な力がなく、馬が歩けば、その動きに合わせて自然に身体が動く。それなのに、揺らされているようには見えなかった。
人が馬に乗っているというより、最初から一つだったみたいに見える。
「……すごい」
清華の口から、小さく声が漏れた。
瞳子は思わず隣を見る。清華が誰かの騎乗を見て、こんなふうに声を漏らすのは珍しい。
「清華さん?」
「手綱を、ほとんど動かしてない……」
瞳子には、そこまでの違いは分からなかった。
ちゃんと手綱は持っている。けれど、清華には別のものが見えているらしい。
「馬が自分から前へ行ってる。抑えてもいないし、行かせてもいない……」
宗一郎の馬が返し馬に入り、軽く速度を上げた瞬間、馬上の姿勢がすっと低くなった。
馬の首が伸び、芝を蹴るたびに一歩一歩が大きくなっていく。その上で宗一郎の身体だけが、まるで馬の動きに吸いついたようにぶれない。
ダービーセレモニーで瞳子が感じた、
――なんか普通の人だね。
あれは、間違っていたのかもしれない。
「全然、普通じゃない……」
思わず呟くと、小町が横で鼻を鳴らした。
「当たり前やん」
その小町もすぐに別の方向へ目を戻した。
本庄忍だ。
二冠を狙う皐月賞馬が返し馬へ向かう。
「忍さん、今日はゆっくり入れたな……」
もう独り言が始まっている。
「小町ちゃん、何か違うの?」
「馬がちょっと行きたがっとるんやと思う。そこで無理に抑え込まんと、少し行かせながら落ち着かせとるんちゃうかな」
「へえ……」
「たぶんやけどな。今日は二千四百やし、最初から余計な力使わせたないやろし」
そう言いながら、小町の目は本庄から一秒も離れない。
「小町、もう実況始まってんじゃん」
星羅が笑う。
「まだレース始まってへんわ」
「始まったらもっと喋んの?」
「知らん」
「絶対喋るじゃん」
星羅は笑っていたけれど、その声はさっきまでより少し小さい。
朝から賞金だの騎手はいくらもらえるだの、そんなことばかり聞いていたのに、今はもう何も言わず、返し馬を終えていく十八頭を目で追っていた。
十八頭が返し馬を終えるころ、一年生たちも教官に促されてその場を離れた。
次に向かったのは、スタンド上層階に用意された関係者用の指定席だった。
案内された場所へ足を踏み入れた途端、瞳子は思わず声を漏らす。
「うわ……」
さっきまで近くから見ていた芝コースが、今度は眼下いっぱいに広がっている。
正面の長い直線だけではない。一コーナーから、スタンドの反対側を走る向こう正面、さらにその先まで――ほとんど視界を遮るものがなかった。
「めっちゃ見えるじゃん」
星羅も目を丸くする。
「レース見るなら、こっちのほうが分かりやすいな」
小町はもう馬場全体を確認するように視線を走らせていた。
「どこに誰がおるか、ほぼ全部見える」
確かにそうだった。
さっきまでは一頭の馬や一人の騎手を近くから見ていたのに、ここからなら十八頭全部を一度に見ることができる。
清華もすぐに気づいたらしい。
「ここなら、進路の取り方まで見えますね」
「進路?」
「スタートしたら分かります」
清華はそれだけ言って、発走地点へ目を戻した。
やがて場内放送が、日本ダービーの発走が近いことを告げる。
十八頭すべてがゲート裏へ集まったころ、それまで途切れることのなかった東京競馬場のざわめきが、少しずつ形を変え始めた。
静かになったわけではない。
何万人もの人が息を潜めながら、その瞬間を待っている。そんな奇妙な緊張が、広い競馬場全体へじわじわと広がっていく。
瞳子もいつの間にか、前のめりになっていた。
「……なんか、空気変わったね」
「そら、もうすぐやからな」
隣で小町ちゃんが答える。その声も、いつもより少しだけ小さい。
大型ビジョンに映ったのは、発走台へ向かうスターターの姿だった。
階段を、一段ずつ上っていく。
ただ、それだけだった。
それなのに――。
「おおおおおぉぉぉ――っ!」
突然、スタンドから大きな歓声が湧き上がった。
「赤い旗持った人が台に上がっただけでこれ?」
「ダービーやで……」
星羅ちゃんに向かって答えた小町ちゃん自身も、圧倒されたようにスタンドを見回していた。
発走台へ上がったスターターが、赤い旗を大きく振る。
その直後、聞き覚えのあるファンファーレが、東京競馬場いっぱいに鳴り響いた。
テレビでは何度も聞いてきた音だった。
でも、全然違う。
最初の音が響いた瞬間、スタンドから一斉に手拍子が始まった。
何万人もの手が、同じリズムを刻む。
音が重なり、波みたいに押し寄せてくるたび、足元から身体の中まで震えているような気がした。
ファンファーレの最後の音が空へ消える。
そして次の瞬間、それまでの手拍子すら小さく思えるほどの歓声が、スタンドから一気に弾けた。
瞳子の胸まで、びりびりと震える。
これを、騎手は馬の上で聞くんだ。
十八頭の馬たちが、係員に導かれながら一頭ずつゲートへ近づいていく。
さっきまであれほど大きかった歓声が、瞳子にはだんだん遠く聞こえ始めた。
見えるのは、ゲートへ向かう馬たちだけだった。
「……始まる」
自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。
あれほど騒がしかった競馬場が、ほんの一瞬だけ息を止めたように感じた。
ゲートが開く。




