第18レース ダービーデー 選ばれた十八人
第四レースが終わったあと。
一年生たちは、勝った馬や騎手の表彰などが行われるウイナーズサークルを見渡せる指定された場所へ案内されていた。
朝から人は多かったはずなのに、気づけば周囲にはさらに大勢のファンが集まっている。何かを待つように柵の向こうへ向けられた視線も、さっきまでとは少し違っていた。
「これ、何始まんの?」
向こうの人混みに目をやりながら、星羅が尋ねた。
「騎乗ジョッキーの紹介や」
小町の返事は早かった。
「ジョッキー紹介?」
「今日ダービー乗る十八人が、全員出てくんねん」
「へえ。そんなイベントあるんだ」
「ほかのレースではやらへんよ。なんせダービーやからな」
朝から何度聞いたか分からない言葉だった。
――ダービーやから。
どうやら今日は、それだけで大抵のことが説明できてしまうらしい。
ほどなくして音楽が流れ、司会者の声が場内へ響き渡った。
最初の騎手の名前が高らかに読み上げられる。
馬主ごとに決められた色と柄の勝負服を身にまとった騎手が姿を現すと、周囲から一斉に拍手が湧いた。
軽く手を上げて応える騎手もいれば、足を止めて深々と頭を下げる騎手もいる。
続いて二人目、三人目と、馬番順に騎手たちが紹介されていく。スタンドから聞こえてくる歓声の大きさも、飛んでくる名前も、それぞれ違っていた。
初めてダービーに騎乗するらしい騎手が、緊張した顔で何度も頭を下げれば、ひときわ大きな拍手が送られる。
逆に名前を読み上げられただけで、あちこちから、一斉に若い女性の声が飛ぶ騎手もいた。
「なんかアイドルみたい」
星羅が感心したように言う。
「今日ここに出てくるん、日本でもトップクラスの騎手ばっかやからな」
「でもさ」
星羅が並んでいく騎手たちを眺める。
「こうして見ると、意外と身長高い人もいるじゃん」
「そりゃおるやろ。今じゃ、百七十前後の騎手も増えてるし」
「それで体重は軽くしなきゃなんでしょ? 筋肉だってなきゃいけないし、ヤバっ」
身長も体つきも、それぞれ違う。
それでも色とりどりの勝負服をまとい、名前を呼ばれて次々と姿を現す騎手たちは、誰もが実際の身体よりずっと大きく見えた。
「あっ」
星羅が突然、瞳子の腕を軽く叩いた。
「とこ、ほら。格好良い外国人いるじゃん」
「どこ?」
「あそこ。ほら、金髪の」
星羅が示した先には、彫りの深い顔立ちをした外国人騎手がいた。
「マジで格好良くない?」
「星羅ちゃん、そこ見てたの?」
「いいじゃん。見るくらい」
「十年くらい前から日本で乗っとるで、その人」
小町が横から口を挟んだ。
「え?」
「日本語もペラペラやし、納豆も好きや。もう、ほぼ日本人やろ」
「いや、顔めちゃくちゃ外国人じゃん」
「顔の話してへんし、ここ数年ずっとリーディングジョッキーやで」
「なにそれ?」
「中央競馬の騎手で一番勝ってるって事や」
ちょうどその騎手の名前が紹介された。
大きな歓声を受けた外国人騎手は、両手を広げて客席へ笑顔を向けると、最後に胸元へ手を当てて大げさなくらい丁寧に頭を下げた。
「なんか余裕ある感じ」
「日本語もコテコテの関西弁やで」
「もういいよ、その情報!」
小町が吹き出す。
瞳子もつられて笑っていると、次の名前が読み上げられた。
その瞬間。空気が、一段大きく揺れた。
今までの騎手にも歓声は飛んでいた。
けれど、明らかに厚みが違う。
『続いては――日本ダービー五勝! 共同通信杯の勝ち馬テネブラエとのコンビで本日勝てば、自らの記録を更新し、史上最多となる六度目の制覇! 畑宗一郎騎手!』
「畑?」
聞き覚えのある名字に、瞳子は首を傾げる。
「獅音先輩のお父さんや」
「あっ」
そこでようやく繋がった。
畑宗一郎。
日本だけではなく、海外の大レースでも数々の実績を残してきた、日本を代表する騎手。
そして、日本ダービーをすでに五度勝っている。
瞳子は改めてその姿を見る。
もっと近寄りがたい人なのかと思っていた。
けれど、そんな雰囲気はまるでない。
大歓声を浴びながら片手をひょいと上げ、少し困ったように笑っている。
それから客席へ軽く一礼。
六度目のダービー制覇が懸かっている人とは思えないくらい、肩の力が抜けていた。
どこか飄々としていて、あの獅音先輩の父親と言われても、すぐには結びつかなかった。
「小町、ダービー五回勝つって、凄いんだよね?」
星羅が小声で尋ねる。
「一回勝つだけでも、ごっつ凄いやろ。むしろダービーに騎乗するだけで凄いっちゅーねん」
「じゃあ、めっちゃ稼いでるじゃん」
「長年、日本競馬を引っ張ってきたレジェンドやからな」
「獅音先輩、正月休みに家帰ったらあの人いるんだ」
「何でそこ気になんねん」
瞳子も思わず笑った。
「……なんか普通の人だね」
口からぽろっと漏れる。
「普通の人がダービー五回も勝てるかいな」
小町は呆れたように返した。
それはそうなのだけれど。
世界でも活躍するレジェンド、と聞いて瞳子が勝手に想像していた姿とはずいぶん違う。
もっとこう、立っているだけで周りを圧倒するような――。
そこまで考えたところで、次の紹介が始まった。
『続いて――アウレウスとのコンビで二冠制覇を狙います! 本庄忍騎手!』
小町の身体が分かりやすく固まった。
瞳子は本庄より先に、隣の小町を見てしまった。さっきまで星羅と喋っていたのに、もう一言も発さない。
歓声の中へ姿を現したのは、畑宗一郎よりずっと若い騎手だった。
ファンへ向けて片手を上げ、それから一度、深く頭を下げる。
派手なポーズは取らない。それだけなのに、あちこちから本庄の名前が飛んでいた。
「……忍さんや」
小町が小さく呟く。
朝、狛井君から、小町ちゃんがずっと憧れてきた騎手だと聞いた。そう思って見ると、不思議だった。テレビの中の有名人を見るような感覚とは、少し違う。
小町ちゃんが昔から知っていて、ずっと背中を追いかけてきた人が、今こうして目の前で日本ダービーに挑もうとしている。
隣を見ると、小町の視線はまだ本庄から離れていなかった。何か言うでもなく、ただまっすぐにその姿を追っている。
十八人すべての紹介が終わる。
色とりどりの勝負服を着た騎手たちが、一堂に並んだ。
今日、日本ダービーに乗る十八人。
その姿を見つめているうちに、瞳子の胸がまた少しだけ騒ぎ始めた。
いつか、自分もあそこに並ぶ日が来るんだろうか。名前を呼ばれ、勝負服を着て、何万人もの人の前に、日本ダービーに乗る騎手として立つ。
考えてみても、不思議と怖くはなかった。
むしろ――楽しそう。
そう思ってしまう自分がおかしくて、瞳子は小さく笑った。
まだレースは始まってすらいない。
それなのに今日という一日は、朝からずっと、瞳子の想像していた「ダービー」を軽々と越えてきていた。
ダービーの発走時刻が近づくにつれ、競馬場の空気は朝とは明らかに変わっていた。
一年生八人は、一般の観客とは区切られた見学スペースへ案内されていた。
そこからなら、パドックをかなり近い位置で見ることができる。
「近っ……小町。パドックってなに?」
「競走馬の仕上がりや闘志なんかを、ファンが確認する場所や」
「ふーん。ここにダービーの馬来るの?」
「来るで」
答えた小町の声まで、さっきより少し硬い。瞳子も柵の向こうへ目を凝らした。
間もなく、十八頭が姿を現す。日本中の三歳馬の中から、ここまで来た十八頭。
どんな馬なんだろう。大人しい馬もいれば、気の強い馬もいる。走りたくて仕方がない馬だって、周りなんて気にしない馬だっているはずだ。
きっと、一頭ずつ全部違う。全頭、乗ってみたい。
そんなことを考えている自分がおかしくなって、また少し笑った。
隣では、清華がさっきまでとは比べものにならないほど真剣な顔になっていた。
視線が忙しく動いている。馬が出てくる方向から周回する位置、騎手が騎乗する場所まで、ひとつも見逃さないつもりらしい。
「清華さん、何見るの?」
「全部です」
即答だった。
「馬も?」
「当然です。ダービーまで来る馬が、どういう状態でここへ出てくるのか見たいので。それと、騎手が跨ってからの反応も」
「十八頭観るの大変そう」
「馬場へ出て、本番前に走らせる返し馬も見ます。手綱の使い方だけではなく、どこまで馬に任せているのかも」
清華の言葉は、いつもより少しだけ速い。
清華さんも、楽しみなのかな。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
やがて、パドックの奥が動いた。
一頭目が姿を現した途端、瞳子の目はそこへくぎ付けになった。陽の光を受けた馬体には、遠目からでも分かるほど艶がある。
そのあとも次々と馬が姿を現し、周回へ加わるたびに、パドックの空気が少しずつ張りつめていく。
そして三頭目が目の前を通り過ぎたところで、瞳子は馬の横腹に目を留めた。
「あれ?」
「とこ、なんかあった?」
「ゼッケン……白い」
白地に黒い数字と馬名。四方の縁には、よく見なければ気づかないほど細い金色の刺繍が入っている。陽が当たるたび、きらりと光った。
「ほんとだ。なんか金入ってる」
星羅も目を凝らす。
「ダービーだけや」
小町が言った。
「同じ最高格のG1でも紫紺のゼッケンやけど、日本ダービーだけは白地に黒文字で、縁に金の刺繍も入っとる」
「そこまで特別仕様なんだ」
「そらダービーやし」
「またそれ」
星羅が笑う。
でも、今度は瞳子にも少し分かる気がした。
白と黒に、ほんの少しだけ金色が加えられている。派手というほどではないのに、その十八枚だけが今日のために用意されたものだと思うと、不思議なくらい特別に見えた。
これを着けられるのは、今日ここまで来た十八頭だけ。
そう思うと目の前を歩く馬たちが少し遠い存在に見えて、それでもやっぱり、乗ってみたいと思った。
瞳子は夢中で一頭ずつ追っていく中で、ひときわ暗い馬体が目に留まった。
黒に近い青鹿毛のテネブラエ。三番人気で、騎乗するのはさっき紹介された畑宗一郎だ。
陽の下でも黒く見えるほど濃い馬体が、白と金のゼッケンをつけて淡々と歩いている。
「畑さんが乗るの、あの子なんだ」
「せや。皐月賞には出んと、ダービーだけを狙って来た馬や。二月の共同通信杯を最後に、本番までレース使わん直行ローテ。これで勝てば史上初や」
「小町が、何言ってるか分かんないだけど」
「要するに、三か月以上レース使わんとダービー一本で来たっちゅうことや」
小町はそう答えると、また周回する馬たちへ目を戻した。
「あの子、耳ずっと動いてる」
「とこ、もう分かんの?」
「うん。周りめっちゃ気にしてる。あ、でもこっちの子は全然平気そう」
「同じレース走る馬でもそんな違うんだ」
星羅が感心したように見比べる。
「当たり前や。性格も違うし、レース前の状態も――」
説明しかけていた小町の声が、途中で止まった。
「小町ちゃん?」
返事がない。
さっきまで星羅を見ていた顔が、もう別の方向へ向いている。
瞳子もつられて視線を追った。
パドックの一角を、一番人気の皐月賞馬――アウレウスがゆっくりと歩いていた。
陽を受けた栗毛は明るく、さっき見たテネブラエの黒に近い青鹿毛とはまるで反対だった。光の加減によっては、その馬体が金色めいて見える。
「……来た」
いつもなら馬体がどうだの、気配がどうだのと何かしら口にするはずなのに、今は何も言わない。
ただ、アウレウスの歩く姿を食い入るように追っている。
瞳子はそんな小町の横顔を一度だけ見てから、もう一度パドックへ視線を戻した。
やがて、騎手たちが姿を現す。
小町の視線は迷うことなく本庄忍を追った。
清華は騎手が馬へ跨る瞬間を見逃すまいと目を凝らし、星羅も十八頭を忙しなく見比べている。
そして瞳子も、もう一度目の前の馬たちを見渡した。
いよいよダービーが始まる。




