第17レース ダービーデー 夢の舞台
五月最後の日曜日。
競馬学校を出たバスが東京競馬場へ近づくにつれて、窓の外を流れる景色よりも、同じ方向へ向かう人の数のほうが気になるようになっていた。
「また増えた」
窓際の席から外を眺めていた瞳子が呟くと、通路を挟んだ向こうで星羅も身を乗り出した。
「ヤバ。あれ全部、競馬見に行く人?」
「せやで。今日はダービーやからな」
前の座席から振り返った小町が、何を当たり前のことを、と言いたげに答える。
「いや、だからダービーってだけでこんな集まんの?」
「だけって言うなや。競馬の世界じゃ『ダービーに始まり、ダービーに終わる』って言うくらいやぞ」
「意味わからんし」
「せやから、ダービー終わったあとは新馬戦が始まるんや。まだレース走ったことない馬がデビューして、次の世代が」
「オタク君さぁ。早口過ぎじゃない」
「腹立つわぁ。もう、分からんことあっても教えへん」
「小町、ごめんて。楽しそうなのは伝わったよ」
今日は、競馬学校一年生にとって初めての大きな学外研修だった。
行き先は東京競馬場で、見学するのは日本ダービー。
いつか自分たちが立つかもしれない舞台を、早いうちにその目で見ておけ――そういうことらしい。
もちろん、瞳子だってダービーを知らないわけではない。北海道にいたころからテレビでは何度も見たし、牧場でもこの時期になれば話題になった。
けれど、画面越しに知っていることと、実際にその場所へ向かっていることは、どうやらまったく別物らしい。
バスが専用の入口から競馬場の敷地へ入った途端、瞳子は窓へ顔を寄せた。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
大きい。
まず、それだった。
窓の向こうを埋めるように伸びるスタンドは、テレビで見ていたものよりずっと大きい。
「すっご……!」
バスを降りて案内されるまま進み、馬場側へ出たところで視界が一気に開けた。
目の前に広がる馬場を見て、瞳子は思わず足を止める。
日本ダービーの発走までは時間があるのに、競馬場全体がもう落ち着きなく脈打っているみたいだった。
人のざわめきと場内放送が一気に身体へ押し寄せてくる。
何万人いるのかなんて、瞳子には見当もつかなかった。ただ、これだけの人が同じ場所へ集まって、これから同じ十八頭の馬を見るのだと思うと、それだけで胸の奥がそわそわする。
「斉藤。きょろきょろするな。置いていくぞ」
「あ、はい!」
教官の声に、瞳子は慌てて列へ戻った。
前を歩いていた星羅が振り返り、にやっとする。
「とこ、完全に観光客じゃん」
「だってすごくない?」
「いや、すごいけど。人多すぎ。アタシもうそれにびっくりしてる」
そう言う星羅自身も、さっきから何度も左右へ顔を向けている。
一般の来場者とは別の通路を八人で進み、途中で教官から改めて注意を受けた。
今日の目的はあくまで研修だということ。
許可された場所以外へ勝手に立ち入らないこと。
そして何より、今日騎乗する騎手や競走関係者に、自分たちから接触しないこと。
いくら競馬学校の生徒でも、レース当日は別だ。競馬の公正を守るため、入れる場所と入れない場所は明確に分けられている。
「見て、覚えろ。今日ここにいる騎手は、お前たちがこれから目指す世界の先にいる人間だ」
教官が八人を見回す。
「ただレースを見て帰るだけなら、客席にいるファンと変わらん。何を見て、何を持ち帰るかは自分で考えろ」
「はい!」
八人の声が揃った。
何を見て持ち帰るか。
そう言われると、急に研修らしくなってきた。
瞳子はもう一度、遠くに広がる芝コースへ目を向ける。
――何を見よう。
騎手の乗り方も見たい。馬も見たい。レース前の馬を間近で見られるパドックも、馬場へ出た馬が本番前に走る返し馬も、レースも全部見たい。
というより。
ここで馬に乗ったら、どんな感じなんだろう。
あれだけ大きなスタンドいっぱいの人に見られながら、ゲートへ入って。
ダービーなら、十八頭で、一斉に走って。
最後の直線へ向いたら、あの歓声が全部こっちへ飛んでくる。
想像しただけで口元が緩んだ。
「……斉藤さん」
「ん?」
「何か、面白いことありました?」
隣を歩く清華に言われて、瞳子は自分の頬を触った。
「私、笑ってた?」
「はい」
「なんかさ、ここで乗れたら絶対楽しいだろうなって思ったら」
「まだレースも見ていないのに?」
「だから余計に!」
答えると、清華は一瞬だけ瞳子を見たあと、何も言わず前へ視線を戻した。
ただ、その目はスタンドではなく、その向こうに見える馬場へ向いていた。
少し歩いたところで、今度は星羅が小町の肩をつつく。
「ねえ小町」
「なんや」
「今日のダービーって、一着いくら?」
「は?」
「賞金」
「最初に気になるんそこなん?」
「だって大事じゃん」
星羅は至って真面目だった。
「こんだけ人が集まるレースなんでしょ? 絶対ヤバい額じゃん」
「そこから入るやつ初めて見たわ……」
「小町のおじいちゃんの馬は出るの?」
「出ぇへん。ダービーに出られるような馬と巡り合うのも大変やで」
呆れながらも、小町はきっちり答え始める。
その横で瞳子は笑った。
星羅にとっては、今日が人生で初めての競馬場だった。
競馬学校に入ってから競馬そのものについても少しずつ覚えてはいるが、昔から当たり前のように競馬を見てきた小町とは違う。テレビでレースを追い続けてきたわけでもない。
「で、騎手はいくらもらえるの?」
「レース賞金の五%や」
「ダービー勝ったら百万超える?」
「当たり前や」
「ガチ? まさか千万は超えないよね?」
「超えるわ」
「うはっ ヤバっ!」
「藍沢」
前から教官の低い声が飛んだ。
「社会科見学に来た小学生じゃない。少し黙って歩け」
「はーい」
「返事」
「はい!」
星羅が背筋を伸ばす。
その隣では、小町が肩を震わせていた。
「笑うなって、小町」
「いや、ダービーに出るだけでも凄いんやで」
「そっちはそっちで今日ずっと落ち着きないじゃん」
「うちが?」
「朝から何回、今日の出馬表だっけ? 見てんの?」
ぴたり、と小町が黙った。
瞳子も思い出してみたが、確かに多い。
バスに乗る前や乗ってからも、教官から配られた資料で、真っ先に出走馬一覧を確認していた。
「別にええやろ。確認や、確認」
「何を?」
「枠順や。どの馬が何番の枠から出るかとか」
「一回見れば、変わらないんじゃないの?」
「……変わらんけど」
星羅がにやにやしながら覗き込む。
「こっち、見んな!」
小町が真っ赤になった――ように瞳子には見えた。
その背後から、軽い足音が近づいてくる。
「どうせ、忍さんやろ?」
「いたっ! 風磨。頭はたくなボケ」
「はたきやすい位置に頭があっただけや」
忍さん?
それって、今日のダービーにも乗る本庄忍騎手のこと?
日本ダービーにも騎乗するのは知っている。しかも、ただ出るだけではない。
前走の皐月賞を勝った『アウレウス』とのコンビで、一番人気。
勝てば二冠。
「小町ちゃん、楽しみなんだね」
「そら楽しみやけど……!」
小町はそこまで言ってから、一度咳払いした。
「研修やからな。ちゃんとレース全体見るで、うちは」
「ふ~ん。小町……その騎手の事、好きなんだ」
「「好きとちゃう!」」
「え? なんで狛井くんとハモんの?」
「い、いや……小町の憧れの騎手ってだけやし」
「なんで、自分が答えんねん」
二人が言い合いを始めると、前方で競馬学校の職員が足を止めた。
「一年生、ちょっといいですか」
首からカメラを下げている。
教官と二言三言やり取りしたあと、職員は八人へ向き直った。
「学校の公式SNS用に写真を撮ります。まず全員で一枚」
八人が競馬場を背に並ばされた。
男子四人が後ろ、女子四人が前。
「もう少し詰めて。はい、こっち見て」
カメラが向けられる。
瞳子は素直に笑った。
隣では星羅が慣れた様子で軽く顎を引き、小町も笑顔を作る。
清華だけはいつも通りだった。
「清華さん、写真だよ」
「分かっています」
「もうちょっと笑ったら?」
「笑っています」
どう見ても笑っていない。
「清っち、それ証明写真の顔じゃん」
「藍沢さん」
「はいはい、前向いてー」
ぱしゃり、とシャッターが切られる。
「じゃあ次、女子四人でも一枚撮らせてください」
「うちらだけ?」
小町が尋ねる。
「せっかく今年は女子が四人いますから。華やかですし、広報で使うかもしれません」
それだけだった。
瞳子たちは言われた通りに並び直す。
左から小町、瞳子、清華、星羅。
「斉藤さん、もう少し清華さんのほう寄って」
「はい」
肩が触れそうなくらいまで近づくと、清華がわずかにこちらを見た。
「近くないですか」
「写真だし」
「そういうものですか」
「たぶん」
「清っち固いって。ほら」
反対側から星羅が清華の肩へ寄る。
「藍沢さん、押さないでください」
「押してないって」
「小町ちゃんももっとこっち!」
「狭い狭い!」
「はい、そのまま!」
ぱしゃり。
もう一枚。
ほんの数秒で撮影は終わった。
「ありがとうございます。あとで学校の公式アカウントに載るかもしれません」
「はーい」
星羅が軽く手を上げ、小町も特に気にした様子はない。
瞳子も同じだった。
そもそも学校にいる間、自分たちのスマートフォンは自由に使えない。載ったところで、次に見るのがいつになるのかも分からない。
撮影を終えた八人は、再び教官に促されて移動を始めた。




