小町Side① 足りないものから
自主トレーニングの内容を増やしてから、二週間ほどが経った。
授業を終え、夕方の馬房作業まで済ませたあと、今日もトレーニング室で身体を支える。二週間前なら、とっくに姿勢が崩れていたところでも、今はまだ耐えられた。
教官と相談して組み直したメニューを毎日続けてきた成果が、ほんの少しずつではあるけれど出ている。
せやけど、満足なんかできるわけがない。
腕に力を込めながら、今日の騎乗訓練を思い返す。最初のころに比べれば、馬の動きに合わせて姿勢を保てる時間は確実に延びた。それでも少し負荷が増えれば腰が落ち、脚で支えきれなくなってくる。
正解は分かっとるのに身体が動かへん。これが一番イラつくねん。
一度身体を休め、乱れた呼吸を整える。二週間で筋力が劇的につくわけがないことくらい、もちろん知っている。身体を作るには時間が掛かるし、無理をすれば故障にもつながる。
そんなこと、頭では全部分かっとる。
分かっとるからこそ、余計に焦るんやろか。
今日も星羅は、教官から一つ指摘されただけで、次にはもう動きを修正していた。
少し前の買い物で、
『一番あるのは筋肉やろ。見た目細いのに筋肉量は多そうやし』
軽く言ったけど、あんなん冗談でも何でもない。
星羅は身体の使い方そのものが上手い。馬に乗った経験なんてほとんどなかったくせに、一度感覚を掴めば次からは同じ失敗をしない。最初はぎこちなかった姿勢も日に日に安定してきたし、体力トレーニングでも苦しそうな顔こそするものの、結局最後まできっちりこなしてしまう。
ほんま、羨ましいわ。
別に、星羅が嫌いなわけやない。むしろ一緒におれば楽しいし、何を言っても大抵は返してくるから話しやすい。瞳子ちゃんともすぐ仲良くなって、今では三人で過ごす時間もずいぶん増えた。
せやからこそ、余計に思ってしまう。
その身体、ちょっとでええから分けてくれへんかな。
清華ちゃんには、長年の馬術で培った技術がある。瞳子ちゃんは馬の変化を感じ取るのが早く、初めて乗る馬でも相手の様子をよく見ている。
もちろん、自分にも馬や競馬の知識ならある。
小さいころからレースを見て、馬を見て、おじいちゃんやオトンから話を聞いて育った。
レース展開を読むことも、馬の癖を覚えるんも好きで、誰に教わらんでも自然と頭に入ってきたんや。
――せやけど、レースは知識だけでは勝てへん。
どれだけ正しい乗り方を知っていても、自分の身体がそれを実行できへんかったら意味がない。
「……あとちょいやな」
小さく呟いて、もう一度身体を起こす。
「何が?」
「うわっ!?」
突然背後から声を掛けられ、危うく姿勢を崩しかけた。
「びっくりさせんなや!」
「驚かすつもりなかったし」
振り返れば、入口に見慣れた顔が立っていた。競馬学校に入ってからすっかり見慣れた坊主頭に、太い眉と大きな瞳。昔から、あの顔には妙に嘘がつけへん素直さがある。
同期であり、小さいころからの幼馴染――狛井風磨。
「何しに来たん?」
「トレーニング。見たら分かるやろ」
「うちがおるから来たんちゃうん?」
「なんでそうなんねん」
即座に否定された。
何や、ちゃうんか。まあ、別にええけど。
風磨は空いている場所へ荷物を置くと、慣れた様子で準備を始める。
「最近、毎日ここおるやろ」
「毎日ちゃうわ。休む日もある」
「そこはちゃんと守るんやな」
「当たり前やろ。筋肉は休ませるんも大事なんやで」
「超回復くらい知っとるわ、アホ」
「風磨に一つ忠告しといたる」
「なんや?」
「筋トレより柔軟やりぃ。骨盤周り硬いやろ、常歩ん時、上半身がぐらぐら揺らいとるで」
「それも、知っとるわ!」
昔からこうだ。
競馬の話をすると、こいつは時々、面倒くさそうな顔をする。せやのに結局最後まで聞いとるから、本当に嫌なわけではないんやろう。
「で、小町はどうなん?」
「何がや?」
「……筋肉。増えたん?」
「二週間で見て分かるほど増えるわけないやろ」
「夏にはムキムキになるんちゃうかった?」
「誰から聞いたん、それ」
「星羅」
「あいつ……!」
今度会ったら覚えとけ。
……まあ、自分で言うたんやから、怒るほどでもないけど。
風磨は笑いながら隣で身体を動かし始めた。同じ年齢で同じ騎手を目指している。それなのに、こっちより明らかに余裕がありそうなのが腹立たしい。
「自分も筋肉あるよな」
「急に何やねん」
「比べとるだけや」
「誰と?」
「うちと」
一瞬、返事が止まった。
「……お前、小さいもんな」
「そんなん、言い訳にならへん」
「身長やなくて、心の器な」
「話の流れ的に関係ないやろ!? それに、自分よりどデカいわ、アホ」
睨めば、風磨が笑う。余裕ありそうにしよって腹立つわ。
負けじと身体へ力を入れ、そのまましばらく互いに黙って、それぞれのメニューをこなした。誰かと一緒だからといって急に楽になるわけではない。それでも、一人で黙々と続けるよりは時間が早く過ぎる気がする。
やがて休憩に入り、壁にもたれながら息を整えていると、ふと思い出した。
「そういや、風磨。この前のレース見た?」
「どれ」
「忍さんが三番人気の『アウレウス』とのコンビで勝った皐月賞や」
――皐月賞、日本ダービー、菊花賞。
三歳馬が一生に一度しか挑めないクラシック三冠、その最初の大一番『皐月賞』
あの舞台を制したんや、と思うと誇らしくなる。
「……見た」
「やっぱ凄いよなぁ。今じゃ若手の筆頭格やし」
「若手か? アラサーやん」
「ちゃうやろ! 二十五や。騎手ではギリ若手やろ」
自然と声が弾む。
忍さんと初めて会ったのは、彼がまだ競馬学校生だったころ。実習先が祖父の厩舎になったのがきっかけで、それ以来の付き合いになる。
今は厩舎を離れ、特定の厩舎に所属しないフリー騎手になったけれど、以前にも増して活躍している。
小さいころの自分にとって、騎手といえば真っ先に思い浮かぶ人だった。
厩舎へ遊びに行けばいつも声を掛けてくれたし、子どもの自分が延々と競馬の話をしても、面倒くさがらずに聞いてくれた。
何より、馬に乗っている姿が格好よかった。
「直線入ったところ見た? あそこで前詰まると思ったやろ。でも無理に外へ出さんと、一瞬待ってから内が開くの見て――」
「見たって」
「いや、でもあそこはほんま凄いやん。普通ならもう少し早く動きたくなるところを待てるんやで? しかもそこで無駄に走らせへんかったから、最後に使う脚もちゃんと残しとるし」
「分かったって」
「何やねん」
さっきまで普通やったのに、急に返事が雑になった。
横を見ると、どう見ても面白くなさそうな顔をしている。
「昔から忍さんの話になると機嫌悪なるよな」
「別に悪くない」
「悪いやろ」
「悪くない」
「何でそんな張り合うん?」
「張り合ってへん!」
いや、どう見ても張り合っとるやろ。
小さいころからそうだった。祖父の厩舎で忍さんと話していると、いつの間にか近くへ来ていたり、あとから妙に対抗するようなことを言ったりする。
何がそんなに気に入らんのか、今になってもよう分からん。
「まさか嫌いなん?」
「……嫌いっつーか」
「めっちゃええ人やで。昔、ウチのこともよう可愛がってくれたし」
「知っとるわ」
「ならええやん」
「それが気に入らんねん」
「は?」
意味が分からず顔を見る。
風磨は一瞬こちらを見たあと、すぐに視線を逸らした。
「何でもない」
「何やねん、気になるやろ」
「そのうち俺が追い越す」
「……誰を?」
「あいつ」
さすがに目を丸くした。
「忍さんを?」
「そう」
「無理やろ」
「即答すんな」
「いや、だって今、騎手の年間勝利数ランキング――リーディングでも十位以内やで?」
「知っとるわ!」
「なんなら来週は皐月賞馬でダービー騎乗やで? 勝ったらダービージョッキーやで??」
勝てば皐月賞と合わせて、三冠のうち二つを制するクラシック二冠、風磨も知ってるくせに。
「まだ、なってないやろ! 勝つか分からへんし」
「勝つに決まっとるやろ!」
「知らん! どっちにしても俺がデビューしたら追い越すって言ってんねん!」
急に熱くなった幼馴染を見て、思わず吹き出した。
「なんで笑うねん」
「いや、自分、昔から変わらんなぁと思って」
ほんま、変わらへん。
子どものころから、忍さんの話になるとこれだ。当時はまだ騎手ですらなかったのに「俺の方が上手くなる」と言い、レースで勝ったと聞けば悔しそうな顔をしていた。
今度は、デビューしたら追い越すらしい。
「頑張りや」
「何やその上から」
「応援してるってことやん」
「お前は?」
「ん?」
「お前も騎手になるんやろ」
笑いが止まった。
当たり前のことを聞くな、と返そうとして、なぜか少しだけ言葉が遅れる。
「……なるよ」
もちろん、そのためにここへ来た。
知識だけなら負けたくない。馬のことも、競馬のことも、もっと覚えたい。
いつか、忍さんと同じレースに乗ってみたい。
そのときに「大きくなったな」と笑われるだけでは嫌や……それすら、言ってもらえるか分からへんし。
一人の騎手として見てもらいたいし、できることなら、いつか勝ちたい。
そのためには、今のままでは足りへん。
「ほな、休憩終わり」
「もう?」
「忍さんを追い越すんやろ?」
「お前が言うんかい」
「ウチも追いつかなあかんからな」
「誰に?」
聞かれて、少しだけ考えた。
星羅にも、清華ちゃんにも、瞳子ちゃんにも、それぞれ自分にはないものがある。
忍さんにも。
隣にいる風磨にだって。
せやけど、誰かと同じになりたいわけやない。
「……全員」
「欲張りやな」
「うるさい」
立ち上がって、もう一度自分の場所へ戻る。
二週間前よりは、ほんの少しだけできることが増えた。明日になったからといって、急に身体が強くなるわけではないけれど、それでも一日ずつ積み重ねていけば、いつか今できないこともできるようになる。
知識だけではどうにもならへんなら、足りないものを身につければええ。
今の自分に必要なのは、それだけや。
「ほら、自分もやるで」
「分かっとるって」
隣で幼馴染も立ち上がる。
騎手になるまで、まだ三年ある。その三年が長いのか短いのかは分からへんけど、追いつきたい相手が何人もおるんやったら、立ち止まっとる暇なんかない。
姿勢を整え、もう一度身体へ力を込める。
いつか絶対、追いついたる。
そのためにまずは、この足りへん筋肉からや。




