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第15レース ジャージ姿で、初めての外出


 初めての騎乗訓練を終えた日の夕方。


 瞳子が馬房で『サクラ』の手入れを終えるころには、腕にも脚にもじんわりと疲れが残っていた。

 やったことといえば、常歩《なみあし》で馬場を何周かしただけだ。

 それなのに、木馬で同じ姿勢を取り続けるのとは疲れる場所が少し違う。


 次も乗れる。


 そう思えば、この疲れさえなんだか嬉しかった。


「瞳子ちゃん」


 馬具を片づけていると、後ろから小町ちゃんに呼ばれた。


「ん?」

「今日、自由時間になったら木馬室行くん?」

「行こうかなって思ってるけど」


 今日注意されたところを、忘れないうちにもう一度確認したい。


 そう答えようとしたところで、小町ちゃんが首を横へ振った。


「うちは、今日は行かんとくわ」

「え?」


 てっきり一緒に練習するのだと思っていた。


 昨日だって、小町ちゃんは自由時間に一人で木馬へ跨がっていたのだから。


「どこか痛いの?」

「ちゃうちゃう」


 小町ちゃんは苦笑して、自分の太腿を軽く叩いた。


「こっちや」

「脚?」

「筋力」


 その言葉で、馬場で見た小町ちゃんの姿が浮かんだ。


 姿勢は綺麗だった。崩れても、どこを直せばいいのか分かっているように見えた。

 それなのに、馬が一歩進むたびに身体が揺れていた。


「木馬で形ばっか確認しててもあかん。今日乗って、よう分かったわ」


 小町ちゃんはそう言ってから、自分の脚へ視線を落とした。


「分かっとったつもりなんやけどなぁ。思ってたより全然足りへんかった」


 声はいつもと変わらない。


 でも、昨日木馬室で見た表情を、瞳子は覚えていた。


「だから今日から、自由時間は筋トレ増やす」

「増やすって、どのくらい?」

「とりあえず今までの倍」

「倍!?」

「足りんのやったら、増やすしかないやろ」

「いや、そうだけど……」


 ずいぶん単純な答えだ。


 でも、小町ちゃんの顔は真剣だった。


「教官に相談してメニューも組み直してもらう。授業のトレーニングだけで追いつくの待っとったら、いつになるか分からんし」


 瞳子は少しだけ驚いた。


 昨日までは、自分の身体が思うようについてこないことを、どこか悔しそうにしていたのに。


 今日だって、きっと悔しかったはずだ。


 それでも小町ちゃんは、もう次に何をするか決めている。


「じゃあ、私も――」

「一人でええ」

「まだ何も言ってないよ!?」

「どうせ一緒に行くとか筋トレするとか言うんやろ」

「……言おうと思った」

「やっぱりな」


 小町ちゃんが笑った。


「これはうちの課題や。それに瞳子ちゃんは、自分の直さなあかんとこあるやろ?」

「あるけど」


 いっぱいある。


 腰を固めるなと言われたし、手綱も引っ張った。何度前を見ろと言われたかは、途中から数えていない。


「ほな、そっちやりぃ。うちはうちでやるから」

「……分かった」


 少しだけ迷ってから頷く。すると小町ちゃんは満足そうに笑って、


「夏までにはムキムキなっとるからな」

「それはちょっと嫌かも」

「なんでや!」


 いつもの調子で返ってきた声に、瞳子も笑った。


 それから数日。

 騎乗訓練では変わらず常歩が続いた。

 そして迎えた日曜日。



 競馬学校へ入学してから、瞳子たちにとって初めての外出日だった。


「外だぁ……!」


 校門を出たところで、瞳子は思いきり伸びをした。


「とこ、刑務所から出てきた人みたいになってんぞ」

「だって久しぶりなんだもん!」

「まだ一か月ちょいやろ」

「一か月も、だよ!」


 隣で星羅ちゃんが笑う。


 競馬学校では、好きなときにふらっと外へ出ることはできない。外出できるのは休校日の日曜日、それも決められた時間内だけだ。


 今日は朝から、その時間をずっと楽しみにしていた。


 久しぶりに返されたスマートフォンも、ジャージのポケットに入っている。


 ただ、一つだけ不満があるとすれば――。


「せっかく外出なのに、ジャージなんだよね」

「それな」


 星羅ちゃんが即座に同意した。


「休みの日くらい好きな服着させてほしくね? アタシこれで店入んの、地味にイヤなんだけど」

「うちは別にええけどなぁ」


 小町ちゃんが自分のジャージを見下ろす。


「服選ばんでええし、楽やん」

「小町、それ女子として終わってっから」

「なんやと?」

「まあまあ」


 二人の間に入りながら、瞳子は笑った。


 今日は三人で、入学してから初めて買い物へ行く。


 日用品も欲しいし、お菓子も少しくらいなら買って帰りたい。

 久しぶりに学校の外を歩けるだけでも、なんだか遠足みたいで楽しい。


「で、最初どこ行くん?」


 星羅ちゃんがスマートフォンを取り出した。


「時間決まってるし、先に買うもん決めとこ。適当に見てたら絶対足んなくなる」

「星羅ちゃん、しっかりしてる」

「とこが何も考えてなさすぎ」

「ちゃんと考えてるよ!」

「ほな、瞳子ちゃん。何買うん?」

「お菓子!」

「日用品ですらないやん」


 即座に小町ちゃんから突っ込まれた。


 そんな二人に挟まれながら、瞳子は久しぶりの学校の外へ足を進めていった。




 三人で話しながら歩いていると、瞳子はさっきから妙に視線を感じることに気づいた。


 すれ違った親子連れがこちらを見ている。少し先を歩いていた人も、三人の横を通り過ぎるときにちらりと目を向けてきた。


 なんだろう。


 気になって自分の格好を見下ろす。

 いつもの指定ジャージ。胸元には『JRA』の文字が入っている。


 右を見る。


 小町ちゃんも同じ。


 左を見る。


 星羅ちゃんも、もちろん同じ。


「……もしかして、私たち目立ってる?」

「今さら?」


 星羅ちゃんが呆れたように言った。


「さっきからめっちゃ見られてんじゃん」

「やっぱり?」

「そらそうやろ。同じジャージ着た三人が固まって歩いとるんやから」


 小町ちゃんに言われ、改めて周りを見る。


 休日だからか、私服姿の同年代の女の子も多い。スカートにブラウスを合わせていたり、髪を綺麗に巻いていたり。


 その中を、お揃いの指定ジャージ姿で三人並んで歩いている。


 確かに目立つ。


「やっぱ私服がよかった……」


 星羅ちゃんが自分のジャージを摘まんだ。


「別にええやん。誰も星羅の服なんか見てへんて」

「見てるから言ってんだけど!」

「ジャージをな」

「同じじゃん!」

「全然ちゃうわ」


 二人のやり取りを聞きながら、瞳子は胸元の『JRA』へもう一度目を落とした。


 学校の中では、みんなが着ているから気にしたことなんてなかった。


 でも、外へ出ると違う。


 これを着ているだけで、自分たちが競馬学校の生徒だと分かってしまう。だからこそ、行動の一つ一つに責任を持たなければいけない。


 そう考えていたときだった。


「あら、競馬学校の新入生さん?」

「え?」


 突然声をかけられ、瞳子は足を止めた。


 買い物袋を提げた女性が、三人を見て笑っている。


「やっぱり。今年入った子たちよね? 初めて見るもの」

「あ、はい! 入ったばかりです!」


 反射的に答えると、隣で星羅ちゃんと小町ちゃんも軽く頭を下げた。


「今年は女の子が多いのねえ」

「四人います!」

「あら、四人も!」


 女性が嬉しそうに目を丸くした。


「訓練、大変でしょう?」

「まだ入ったばっかりなんで、これからです!」


 瞳子が答えると、女性は少し笑った。


「これからもっと大変になるんじゃない?」

「の、望むところです!」

「瞳子ちゃん、なんで格好つけたん?」


 小町ちゃんの小さな声が聞こえた。


「でも頑張ってね。デビューしたらテレビで応援するから」

「はい! ありがとうございます!」


 三人で頭を下げる。


 女性が離れていってからも、瞳子はしばらくその背中を見送っていた。


「……なんか、すごいね」

「なにが?」

「だって、知らない人が応援してくれた」


 まだ騎手でもない。


 競馬学校へ入って、ようやく一か月が過ぎたばかりだ。


 それなのに、いつかデビューすることを楽しみにしてくれる人がいる。


「私、名前言っとけばよかったかな」

「マジ、ウケる」


 星羅ちゃんに笑われながら即答された。


「なんで?」

「とこ、絶対そのうち知らん人全員に自己紹介し始めるじゃん」

「しないよ!」

「いや、瞳子ちゃんならやりかねん」

「小町ちゃんまで!?」


 三人で笑いながら、再び歩き出す。


 さっきまで少し気になっていた周囲の視線も、今はそれほど嫌ではなかった。


 むしろ胸元の『JRA』の文字が、ほんの少し誇らしく思える。


 そのまま目的の店へ入り、日用品の売り場を見て回っていると、案の定、星羅ちゃんの足が何度も止まった。


「あ、これ可愛くね?」


 手に取ったのは、小さなヘアブラシだった。


「ほんまや。星羅っぽいな」

「でしょ?」


 星羅ちゃんが裏返す。


 値札を見る。


「……高っ」


 すぐ棚へ戻した。


「早いな!」

「ブラシにこんな出せんって。こっちでよくね?」


 今度は隣にあった、ずっと安いものを手に取る。


 形はさっきの方が気に入っていたように見えたけれど、星羅ちゃんは値段を見比べると、安い方を籠へ入れた。


 少し進んだところでも、


「これもいいじゃん」


 また何かを手に取る。


 値段を見る。


 しばらく考える。


「……いや、今あるやつまだ使えるわ」


 今度は籠へ入れることすらなく棚へ戻した。


 さっきからずっとこんな感じだ。


「星羅ちゃんって、意外と買い物慎重なんだね」

「意外ってなんだよ」

「だって、もっと気に入ったらすぐ買うタイプかと思ってた」

「金もったいないじゃん。使えるもんあんのに買ってもしゃーないっしょ」

「……確かに」

「あと、安くてもダサいのは無理」

「そこは譲らんのやな」

「絶対に譲らない」


 星羅ちゃんはそう言って、さっき籠へ入れた安いヘアブラシを眺める。


「これは安いし、普通に可愛いからアリ」


 どうやら値段だけで選んでいるわけでもないらしい。


 星羅ちゃんらしいな。


 瞳子がそんなことを考えながら売り場を歩いていると――。


「あれ、一年生?」


 後ろから声がした。

 その瞬間、小町ちゃんの足が止まった。

 星羅ちゃんも振り返る。

 瞳子も二人につられて後ろを見て、


「あ」


 少し離れたところに、見覚えのある指定ジャージがあった。


 自分たちと同じ『JRA』の文字。


 けれど、着ている人の顔を見た瞬間、買い物気分だった頭が一気に切り替わった。


「お疲れ様です!」


 三人の声がほとんど同時に重なった。


 騎乗供覧で見た先輩だった。

 しかも一人ではない。二人並んでこちらへ歩いてくる。


「そんな固くならなくていいって。学校の外だよ」


 一人が苦笑する。


 火山新煌《ひやまにこ》先輩だ。


「はい!」

「うるさっ……」

「優那、元気があるのは良いことだよ」


 隣にいるのは一条優那《いちじょうゆうな》先輩。騎乗供覧のときと同じで、どこか気怠そうに立っている。



 星羅ちゃんが隣で、珍しく姿勢を正している。

 小町ちゃんも同じだ。


「初外出?」

「はい!」

「だと思った。楽しそうだもん」


 そう言われて、瞳子は少し恥ずかしくなった。

 そんなに分かりやすかったのだろうか。

 先輩の視線が、三人の持っている籠へ移る。


「何買ってるの?」

「日用品です!」


 小町ちゃんが答える。


「あと、お菓子も買う予定です!」

「瞳子ちゃん!」

「なんで隠すの?」

「隠してへん! わざわざ追加せんでええって!」


 火山先輩が吹き出した。


「まぁ、私たちも似たようなもんだし。でも、食べ過ぎには気を付けなね」

「はい!」

「とくに男子とか、菓子一個の重さまで気にしてるし」

「……そんなにですか?」

「なるなる」


 笑いながら答えた火山先輩の言葉に、瞳子はこれから自分たちにもやってくる体重管理を想像した。


 お菓子一個の重さまで。


 今のうちにいっぱい――。


 いや、それは違う気がする。


「じゃあ、時間と体重管理だけ気をつけて。初外出で遅れて帰ったり、検量に引っ掛かったら洒落にならないから」

「はい! ありがとうございます!」


 先輩たちへもう一度頭を下げる。


 二人が離れていったところで、


「……っはぁー」


 星羅ちゃんが盛大に息を吐いた。


「びびったぁ……ってか、一条先輩。機嫌悪かったのかな? さすがのアタシも距離詰められなかった」

「常にあんな感じやろ。ダウナー系とちゃうん?」

「うはっ! 普段、教官とどんなやりとりしてるのか見てー」

「でも、優しかったね」

「とこだけだよ、途中から普通に喋ってたの」

「え?」

「『そんなにですか?』ちゃうねん」


 呆れたように歩き出した小町ちゃんを、星羅ちゃんが笑いながら追いかける。


「待って、小町ちゃん!」


 瞳子も慌てて二人の後を追った。


 買い物は、まだ始まったばかりだ。


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