第14レース 最初の一歩
「鐙の長さ、姿勢、手綱。各自確認!」
「はい!」
教官の声に、一年生たちがそれぞれ身体を動かす。
瞳子も『サクラ』の背中で姿勢を整えながら、手綱の長さを確認した。
さっきよりは落ち着いてきた。
脚の間で『サクラ』が呼吸するたびに背中が微かに動いているけれど、その一つ一つに反応していたらきりがない。
「これから常歩に入る。前の馬との距離を保て。勝手に追いつくな。遅れるな。まずは馬の動きに合わせろ」
「はい!」
「斉藤から順に出せ」
いきなり自分だ。
返事をしたあとで、瞳子は手綱を握り直し、両足のふくらはぎで『サクラ』のお腹をぽんと挟んだ。
「サクラ、行こ」
小さく声をかけた。――ところが。
「……あれ?」
動かない。耳だけが、ぴくりと後ろへ向いたので聞こえてはいる。
もう一度、今度は少し強めに、かかとでトンとお腹を叩いてみる。
「ほら、行くよ」
それでもサクラはその場に立ったままだった。
「斉藤! 馬にお願いするな! 扶助をはっきり出せ!」
「はい!」
お願いしてるつもりはなかったんだけど。たぶん、してたんだろう。
瞳子は今度こそ伝わるよう、さっきよりはっきりと脚を使った。
ゆっくりと『サクラ』が一歩を踏み出す。
「あっ」
身体が前へ運ばれた。
二歩、三歩。
一定の間隔で蹄が地面を踏み、背中がそのたびにゆっくりと揺れる。
頬が緩みそうになるのを、さっき注意されたばかりなので必死に堪えた。
「斉藤、前見ろ!」
「はい!」
今度は視線を注意され、正面へ目を向ける。
馬場の柵に沿って、『サクラ』がゆっくりと歩いていく。
後ろからも蹄の音が続き始めた。
一頭、また一頭。
一年生たちの馬が発進していく。
瞳子は腰の位置を意識した。
木馬で繰り返してきた姿勢を、そのままここで――。
「斉藤、腰固めるな」
「え?」
「馬の動き止めてるぞ。ついていけ」
「はい!」
固めるな。
言われて初めて、自分が腰に力を入れていることに気づいた。
姿勢を崩したくなくて、無意識に身体を固定していたらしい。
力を抜く。でも、抜きすぎれば姿勢が崩れる。
どのくらい?
『サクラ』の背中が動く。
それに合わせて腰も動かして――。
「今度は上体が揺れてる!」
「はいっ!」
難しい。思わず眉根を寄せてしまった。
木馬では、正しい位置に身体を置けばよかった。けれど今は、その位置そのものがずっと動いている。
腰を固めれば注意される。力を抜けば上体が揺れる。
じゃあ、その真ん中はどこ?
探しているうちに、『サクラ』の身体が少しずつ右へ寄り始めた。
最初は気づかなかった。正面に見えていた柵が、なんだか近い。
「あ」
右に寄りやすい――昨日読んだ注意事項が頭に浮かんだ。
手綱だけで戻さないで脚も使う。
瞳子は慌てて修正しようとした。
「手で引っ張るな!」
「はい!」
分かってたのに、つい、引っ張ってしまった。
右手に入っていた力を緩め、脚も使う。
『サクラ』の進路が少しずつ戻っていく。
「ふぅ。戻った」
「下見るな!」
「はい!」
また怒られた……もう何回目だろう。
まだ常歩なのに。
それでも。一つ注意されるたびに、さっきまで分からなかったものが少しずつ見えてくる。
次はもっと上手くやりたい。
瞳子は前を向き、『サクラ』の歩調へ意識を戻した。
馬場を半周したところで、後ろから声が飛んだ。
「うわっ、ちょ――!」
星羅ちゃんだ。
何があったのか気になる。でも、今度こそ振り返らない。
「藍沢! 上体で戻そうとするな!」
「はい!」
「手綱引きすぎ!」
「はい!!」
「脚止まってるぞ!」
「はい!?」
すごい言われてる。
星羅ちゃんには悪いけど、ちょっとだけ安心した。怒られているのが自分だけじゃない。
「斉藤、集中!」
「はいっ!」
考えていただけなのに怒られた気がする。
教官、後ろにも目がついてるんじゃないだろうか。しばらく進んだところで、先頭を交代するよう指示が出た。
瞳子は『サクラ』を内側へ誘導し、順番を入れ替える。
そのとき、ようやく他の三人の様子が見えた。
最初に目へ入ったのは星羅ちゃんだった。
さっきまで教官の怒声が何度も飛んでいたから、もっと大変なことになっているのかと思っていたけれど――。
「あれ?」
普通に乗っている。
いや、最初に見たときより明らかに揺れが小さくなっていた。
まだ手綱を持つ腕には力が入っているし、馬が首を動かすたびに身体まで持っていかれそうになっている。
それでも、教官に直された腰の位置はさっきより安定していた。
「藍沢、肩の力抜け!」
「はい!」
星羅ちゃんの肩がすっと下がる。
「そこ! そのまま!」
一回で直した。
瞳子は思わず目を丸くする。
やっぱり星羅ちゃん、身体の使い方を覚えるのがすごく速い。馬にはほとんど乗ったことがないはずなのに。
次に清華さんが来る。
馬の歩みに合わせて、身体が自然に動いていた。
教官は見ているだけで、清華さんはそのまま通り過ぎる。
そして、その後ろから小町ちゃんが来た。
姿勢は綺麗だった。木馬の上で見たのと同じだ。
腰の位置も、脚も、上体も。
けれど――。
「成瀬、力むな!」
「はい!」
小町ちゃんの返事が響いた。
馬が一歩進むたびに、その小さな身体が揺れる。
すぐに元の位置へ戻すけど、また揺れる。
「成瀬! 脚でしがみつくな!」
「はい!」
小町ちゃんの膝がわずかに開いた。
その瞬間、上体が揺れる。
「……っ」
それでも落ちない。すぐに立て直した。
瞳子はその姿を目で追いそうになり、慌てて前へ向き直る。
昨日と同じだった。
小町ちゃんは、直す場所を分かっている。
教官に言われるより早く、自分で戻していることさえある。
それでも馬が動けば、また崩れる。
「斉藤、出すぞ!」
「はい!」
順番が回ってきた。
瞳子はもう一度『サクラ』を前へ出す。
今は小町ちゃんを見ている場合じゃない。まずは自分の騎乗に集中しないと。
腰を固めず、上体だけで揺れないようにする。手綱を引っ張らないことも、右へ寄る前に気づくことも忘れられない。
一度に考えること、多くない?
馬に乗るって、こんなに忙しかったっけ。
そんなことを考えているうちに、『サクラ』がまた少しずつ右へ寄り始めた。けれど、今度はさっきより早く気づけた。
手だけで戻そうとせず、教わった通りに脚も使って進路を修正する。
『サクラ』が真っ直ぐに戻っても、教官から声は飛んでこなかった。
よし。今度は何も言われなかった。それだけのことが、ちょっと嬉しい。
そのまま馬場をもう一周する。さらに周回を重ねるうちに、同じ常歩を繰り返しているだけでも、最初より少しずつ余裕が出てきた。
『サクラ』の歩くリズムも、さっきより分かる。
右へ寄ろうとする瞬間も、ほんの少しだけ早く感じ取れるようになった。
もう少し周回したい。そう思い始めたところで、
「全員、停止!」
教官の声が飛んだ。
「はい!」
瞳子は手綱と身体を使って『サクラ』へ停止の合図を送る。
一歩。もう一歩――止まった。
「……ふぅ」
息を吐く。
馬場が静かになった。
さっきまで重なっていた蹄の音が消えると、『サクラ』の呼吸が急にはっきり聞こえる。
瞳子はその首筋へ目を向けた。
もう終わり?
そんな気持ちが顔に出そうになった。
「今日はここまでだ」
やっぱり物足りない、まだ常歩しかしていない。
「ただし」
教官の声に、瞳子は顔を上げた。
「今日できたと思うな。止まってる木馬で形を作るのと、馬の上で維持するのは別物だ。今日崩れたところは各自覚えておけ」
「はい!」
「明日も同じだ。常歩で姿勢と扶助を確認する。できないうちから先には進ませない」
明日も乗れる。その言葉だけで、物足りなさが少し消えた。
「下馬!」
「はい!」
瞳子は鐙から足を外し、教わった手順で『サクラ』の左側へ降りた。
両足が地面につく。
ほんの少し前まで背中にいた馬が、今度は自分の隣に立っている。
「ありがとね、サクラ」
首筋へそっと手を添える。
「とこ」
「ん?」
声に振り向くと、星羅ちゃんが自分の馬を曳いて近くに立っていた。
「馬ってさ」
「うん」
「乗ってるだけで、めっちゃ動くんだな」
「……分かる!」
瞳子は思わず大きく頷いた。
「アタシ、最初ケツが滑ってんのかと思った」
「それは分かんない」
「なんでだよ」
「でも星羅ちゃん、途中からすごい安定してたよ」
「マジ? アタシも途中からなんか分かってきた。こう、馬がこっち来たら、こっち行く感じ」
「どっち?」
「だから、こう」
「分かんないよ」
星羅ちゃんが身体を左右に揺らしてみせる。
説明は全然分からない。
でも、本人の中では何か掴んだらしい。
「小町ちゃんは?」
瞳子が辺りを見回すと、少し離れたところにいた。
自分の馬の鐙を上げ、手綱を整えている。いつものように手際はいい。
けれど、馬の反対側へ回ろうと一歩踏み出したとき、小町ちゃんの脚がわずかに止まった。
昨日の木馬室で見た、震える脚が頭をよぎった。
「……小町ちゃん」
呼ぼうとして、やめた。
今はまだ、何を言えばいいのか分からない。それより先に、教官から厩舎へ戻る指示が飛んだ。
瞳子は『サクラ』の左肩へ並ぶ。
来たときと同じ道を、今度は馬場から厩舎へ戻っていく。
たった常歩だけ。馬場を何周かしただけ。
それなのに、行きとはまるで違う気分だった。
瞳子は隣を歩く『サクラ』をちらりと見る。
右へ寄りたがることも、発進の合図を曖昧にすると動いてくれないことも、歩く背中のリズムも。
昨日タブレットで読んだ文字が、今はちゃんと『サクラ』のものとして分かる。
明日は、今日より上手く乗りたい。
そう思うと、厩舎へ戻る足取りが、少しだけ惜しく感じられた。




