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第13レース まだ、一歩

 馬場の入口をくぐると、教官の指示に従って一年生たちはそれぞれの騎乗馬を並べた。


「間隔空けろ! 前見ろ!」

「はい!」


 返事が重なる。


 瞳子も『サクラ』の手綱を持ったまま、指定された位置へ移動する。


 横一列。


 そこへ馬たちが並ぶと、さっきまで歩いてきたときとは空気が変わった気がした。


 いよいよ乗るんだ。

 そう思った途端、また胸がどきどきしてくる。


 教官が端から順番に歩いてくる。

 馬装を確認し、生徒の装備にも目を走らせる。


「成瀬。顎紐」

「はい!」


 小町ちゃんがすぐにヘルメットの顎紐を直した。


「藍沢、腹帯《はらおび》確認」

「はい!」

「清華――よし。斉藤」

「はい!」


 教官の視線が『サクラ』の鞍へ落ちる。鞍を馬の腹側で固定する腹帯《はらおび》や鐙革《あぶみがわ》を確認している。


 何度も確認したし、大丈夫……だよね?


 さっきまで自信があったのに、教官に無言で見られているだけで不安になってくる。


「よし」

「……はい!」


 思わず大きな返事が出た。

 教官が次へ向かう。


 ふう――小さく息を吐いた。


「乗馬前、腹帯締めろ!」

「はい!」


 瞳子は『サクラ』の左側へ寄った。腹帯へ手を伸ばす。


 厩舎を出る前にも確認したけれど、乗る直前にもう一度締める。革を引き上げる。


「……っ」


 思ったより固い。もう一度、ぐっと力を入れる。


 少し動いた。


 よし、あと一つ――。


 力を込めたところで、『サクラ』がふっと息を吐いた。


「あ」


 さっきより腹回りが少し細くなったような気がする。


 まさか。


「サクラ、もしかして……」


 瞳子はもう一度腹帯を引いた。今度はさっきより動いた。


 やっぱり。


「お腹膨らませてたの?」


 『サクラ』は何食わぬ顔をしている。


 知らない。私は何もしてません。


 そんな顔に見えて、瞳子は思わず笑いそうになった。


 鞍をつけるときに圧迫されるのを嫌がって、自ら腹を膨らませる馬がいるのは知っていた。牧場でも何度か見たことがある。


 でも、これから自分が乗るとなれば話は別だ。腹帯が緩んだままでは、鞍ごとずれて落馬しかねない。


「笑い事じゃないな」


 腹帯をもう一度確かめる。今度こそ、ちゃんと締まっている。


 一息付いたところで、隣から力んだ声が聞こえてきた。


「なにこれ? かってぇ……!」


 声の方を見ると、星羅ちゃんが腹帯を両手で引き上げていた。


「これマジで上がんの?」


 さらに力を込めるけど、動かない。


「星羅ちゃん、大丈夫?」

「これ以上やったらアタシの腕が先に死ぬ」


「藍沢! 力任せに引っ張るな!」

「はい!」


 教官に言われ、星羅ちゃんがぴたりと止まった。


 その向こうでは、清華さんが腹帯に手をかけていた。馬の様子を見ながら一度引く。位置を確かめて、もう一度。それで終わった。


 速い。


 星羅ちゃんみたいに力いっぱい引っ張ったわけでもないのに、もう終わっている。


「斉藤! 他人見てないで自分の確認しろ!」

「すみません!」


 またやった。


 瞳子は慌てて『サクラ』へ向き直った。


 もう。清華さんがすごいのが悪い。

 いや……自分がよそ見してたのが悪いのか。

 腹帯をもう一度確かめる。


 大丈夫。今度こそ大丈夫。


「騎乗前、各自もう一度確認しておけ!」

「はい!」


 教官が列の端へ移動するのを見て、瞳子は隣へ目を向けた。


 小町ちゃんも腹帯を締め終え、馬の左側に立っていた。馬装を扱う手には迷いがなく、視線はじっと馬の背中へ向いている。


 集中してるのかな。


 声をかけようかと思ったところで――。


「ねぇ、小町」


 反対側から星羅ちゃんが呼んだ。


「なんや?」

「これさ、左足からで合ってる?」

「今さらそこ聞くん? 左からや。手綱まとめて、鐙に足かけて――」

「待って、一気に言うなし」

「もう、馬に聞きぃや」

「この子ツンデレなのか、話し掛けてもそっぽ向くし、撫でようとすると歯を見せてくるんだよね」

「ツンツンしかないやん。はよ、デレさせーな」


 二人のやり取りに、瞳子は吹き出しそうになった。


 さっきまで自分も緊張していたのに、星羅ちゃんを見ていると少しだけ力が抜ける。


「藍沢! 分からないなら今のうちに聞け!」

「はい!」

「成瀬、教えるなら正確に教えろ!」

「はい!」


 小町ちゃんが星羅ちゃんの手元を指さしながら、もう一度ゆっくり説明を始めた。


 やっぱり、こういうときの小町ちゃんは頼りになる。知っていることなら、誰よりすぐに言葉にできる。


 その少し先では、清華さんがもう準備を終えて静かに待っていた。


 さっきまでと何も変わらない。


 でも、左手にまとめた手綱の持ち方も、馬との立ち位置も、瞳子には妙にきれいに見えた。


 乗る前からこれなんだから、実際に乗ったらどうなるんだろう。


 また見たくなってしまう。


 ……駄目。


 今度よそ見したら、また怒られる。


 瞳子は『サクラ』へ向き直った。馬の左側に立ち、鐙と鞍をもう一度確かめる。


 どれも手を伸ばせば届くところにあるのに、これからその背中へ跨がると思うと、『サクラ』がさっきまでより少し大きく見えた。


「一年!」


 教官の声が飛ぶ。話していた声が一斉に止まった。


「騎乗したら勝手に動かすな。全員が乗り終わるまで、その場で待機!」

「はい!」


 瞳子は手綱を整えた。


 馬場に散らばっていた音が、急に近くなったように感じる。


 蹄が地面を掻き、馬が鼻を鳴らし、誰かが馬装に触れるたびに革の擦れる音が耳へ届いた。


 左足をかければ、本当に始まる。

 早く乗りたい気持ちは変わらない。


 それなのに、号令を待つ数秒だけが妙に長かった。


「乗馬!」


 鋭い声が響いた。


「はい!」


 瞳子は左足を鐙へかけ、地面を蹴った。


 身体がふっと持ち上がる。右脚を馬の背中へ当てないよう、大きく向こう側へ回し、鞍へすとんと身体を収める。


 乗った。


 そう思った瞬間、『サクラ』がわずかに身体を動かした。


「わっ」


 歩いたわけでもない。ただ四本の脚の上で重心を変えただけ。

 それなのに自分の身体まで一緒に揺れた。この一か月、毎日のように跨がってきた木馬は、息もしなければ首も動かさない。


 けれど『サクラ』は、脚の内側から温もりが伝わってくる。鞍の下でしなやかな筋肉が動き、呼吸するたびに背中が微かに上下していた。


「……あぁ」


 思わず声が漏れた。


 これだ。久しぶりの、本物の馬の背中。

 懐かしいはずなのに、今まで乗ってきたどの馬とも違う感覚。


 瞳子はそっと視線を前へ向けた。


 さっきまで隣にあった『サクラ』の首が、今は自分の身体の前にある。

 左右へ動く耳の向こうに広がる馬場を見るだけで、いつもの景色まで違って見えた。



 『サクラ』がまた小さく身体を動かした。


 今度は驚かなかった。代わりに、その動きを脚の内側で確かめる。


 この子が歩き出したら、今度はこの背中がもっと大きく動くんだ。


 そう考えると、緊張より先に好奇心が膨らんできた。


「斉藤!」

「はい!」

「ぼーっとするな。鐙確認!」

「はいっ!」


 慌てて足元を確認する。浮かれている場合じゃない。


 左右の鐙へきちんと足を収め、膝や踵、腰の位置を意識しながら上体を整えていく。

 木馬で何度も繰り返してきた姿勢だ。もう身体にも馴染んできたはずだった。


 けれど、『サクラ』が小さく首を動かしただけで、瞳子の腰までわずかに揺れた。


 瞳子は手綱を持ち直す。


 昨日覚えた通り、本当に右へ寄るのだろうか。そのとき、自分はちゃんと真っ直ぐ歩かせられるのか。

 まだ一歩も動いていないのに、確かめたいことが次々と浮かんでくる。


「斉藤」

「はい!」

「力み過ぎだ」

「……え?」

「肩の力を抜け」

「すみません!」


 瞳子は慌てて肩の力を抜いた。

 どうやら、早く動きたい気持ちまで身体に出ていたらしい。


 その間にも、『サクラ』は静かに呼吸を続けている。


 まだ一歩も進んでいない。騎乗訓練は、本当に始まったばかりだった。

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