第12レース 騎乗割
五月も半ばに差し掛かり、日々のルーティーンにも慣れ始めたころ。
瞳子たち一年生は講義室で教官から明日の予定を聞いていた。
「明日の午後からは、騎乗訓練に入る」
その言葉を聞いた瞬間、瞳子はぱっと顔を上げた。
――今、騎乗訓練って言った?
思わず隣を見る。
星羅ちゃんと目が合った。その一つ向こうでは、小町ちゃんもこちらを見ている。
やっとだ。待ちに待って、待ちくたびれて。
とうとう、本物の馬に乗れる。
「初日は常歩からだ。これまで木馬でやってきた姿勢とバランスを、実馬の上で確認する。経験者も同じだ」
「はい!」
一年生たちの返事が重なった。
「騎乗馬は今日の夕方、寮の掲示板に騎乗割を出す。各自、必ず確認しておけ」
騎乗割。
聞き慣れない言葉に、瞳子は首を傾げた。
「教官」
「なんだ、斉藤」
「騎乗割って、前の日に確認するんですか?」
「ここにいる馬は全部同じじゃない。物音に敏感な馬もいれば、左右どちらかへ寄りたがる馬もいる。手綱や脚で出す合図――扶助への反応にも差がある」
それはそうだ。
この一か月、毎日馬たちの世話をしてきた瞳子にも分かる。
同じように鼻先へ手を伸ばしても、自分から寄ってくる子もいれば、まず匂いを嗅いでから近づいてくる子もいる。
「騎乗する馬の特徴は、前日のうちに頭へ入れておけ。自分が明日乗る馬について何も知らないまま馬場へ来るな」
「はい!」
どの馬だろう。
それを考えた途端、瞳子の頭の中に何頭もの顔が浮かんだ。
最初なら知っている子の方が――。
知っている?
違う。ここへ来てからは一頭にも乗っていない。
世話をして知っているだけだ。じゃあ、どの馬でもいい。
乗れるなら。
そう思ったところで、頬が勝手に緩んだ。
「とこ」
小さな声が飛んできた。
瞳子が横を向くと、星羅ちゃんが笑っている。
「なに?」
「マジ、顔ニヤけすぎ」
星羅ちゃんが肩を揺らす。
「星羅ちゃんは気にならないの? どの馬に乗るか」
「てか、アタシはどれ乗ってもほぼ初めてだし」
「あ、そっか」
「だから変なの当たんなきゃいいかな」
「変なのって」
「いきなり、立ち上がったり、全力疾走しだすとか」
「そんな危なそうな馬がいたとしても、一年生の最初に当てないんじゃない?」
「でもさー、ガチの全力疾走ってどんな感じかフツーに気になんね?」
そう言いながら、星羅ちゃんは楽しそうだった。
怖がっているようには見えない。
むしろ、どんな馬でも来い、とまではいかなくても、初めてのものを面白がっているように見える。
「私、早く騎乗割見たいな」
「まだ数時間あんじゃん」
「長いなぁ」
「瞳子ちゃん、今日ずっとそんなんやろな」
小町ちゃんが笑った。
「そ、そんなことないよ」
「絶対あるわ」
「ないって」
「ほな、賭ける?」
「何を?」
「筋肉や!」
「嫌だよ! それに私が勝っても、メリット少ないし!」
「なんや! ウチに筋肉がないっ……この話は終わりや」
笑い声を抑えながら、瞳子は前へ向き直った。
それでも頭の片隅から、騎乗割のことは消えてくれなかった。
夕方。
寮へ戻ると、掲示板の前にはすでに一年生が集まっていた。
「出てる!」
誰かの声に、瞳子は思わず歩く速度を上げた。
「とこ、走んなって」
後ろから星羅ちゃんに言われ、ぎりぎりで踏みとどまる。
寮内を走ったら怒られるのは、分かっている。
でも、足が勝手に速くなるのだから仕方ない。
掲示板には、一枚の紙が貼られていた。
明日の騎乗割。
生徒の名前と、その横に騎乗馬の名前が並んでいる。
瞳子は上から順番に目で追った。
斉藤瞳子――。
「あった」
自分の名前。その横に書かれている馬名を見る。
『サクラ』
サクラ――明日、この馬に乗る。
名前を見ただけなのに、急に現実味が増して、胸の奥がむずむずする。
「うっわ……」
隣から男子の声がした。
「マジかよ。俺、こいつ?」
「お前、馬房掃除んとき毎回睨まれて、噛まれそうになるやつじゃん」
「言うなよ。余計嫌になってきた」
何人かが笑う。
瞳子はその会話を聞きながら、もう一度自分の騎乗馬の名前を見た。
『サクラ』は――。
どんな癖があったっけ。馬房での様子なら分かる。大人しくて手のかからない、鹿毛の女の子。
でも、乗ったときのことは知らない。
「星羅ちゃんは?」
「これ」
星羅ちゃんが指を置いた。
「どんな馬?」
「アタシが知るわけなくね?」
「一か月いたじゃん!」
「あーね。えっと、オス?」
「牝馬だよ」
「明日、朝イチでガールズトークしてくる」
星羅ちゃんがあっさり言う。
その隣では、清華さんが黙って騎乗割を見ていた。
自分の名前から、その横へ。
視線が止まる。
それだけだった。
驚くでもなく、喜ぶでもない。
いつもの清華さん。
「清華さん、どうだった?」
「確認しました」
「いや、馬」
「分かっています」
清華さんが騎乗馬の名前をもう一度見る。
「初めて乗る馬ですから、今の時点で言えることはありません」
「そっか」
「ただ」
清華さんが掲示板から目を離した。
「事前に確認できることは、確認しておきます」
やっぱり清華さんだ。
明日乗れる、と浮かれている自分とは全然違う。
瞳子も、もう一度紙へ目を向けた。
そうだ、喜んでるだけじゃ駄目なんだ。
教官にも言われた。明日乗る馬について、何も知らないまま馬場へ来るな。
夕食を終えたあと。
瞳子は寮の部屋で、公用タブレットを開いていた。
ホーム画面に並んでいるのは、授業で使う教材や訓練用の資料ばかりだ。ネットを開くためのアプリも、誰かと連絡を取るためのものもない。
その中から騎乗馬の資料を開く。
画面に表示されたのは、明日乗る『サクラ』の情報だった。
年齢や性別。これまでの訓練での記録。
そして、注意事項。
「……右に寄りやすい」
小さく読み上げる。
馬場で気を抜くと、進路が少しずつ右へ寄ることがある。
手綱だけで無理に戻そうとせず、乗り手の脚でも合図を送り、真っ直ぐ進ませること。
瞳子は画面をスクロールした。
その下にも、いくつか注意点が並んでいる。
なるほど。
馬房で触っているだけでは分からないことばかりだ。
明日はこの子が右へ寄ろうとしたら――。
どうするんだっけ。
瞳子は木馬で習ったことを頭の中で思い返した。
右へ行く。戻す……手綱だけじゃなくて、脚も。
頭の中に馬場を思い浮かべる。自分が鞍の上にいる。
馬が右へ寄る。そこで――。
「斎藤さん」
「わっ!」
突然声をかけられ、瞳子は肩を跳ねさせた。
振り向くと、清華さんがこちらを見ていた。
「びっくりした……」
「先ほどから同じところを何度も読んでいますが」
「え?」
画面を見る。
確かに、右へ寄りやすい、の項目からほとんど進んでいない。
「明日のこと考えてた」
「そうですか」
「清華さんは、もう見た?」
「一通りは」
「早っ」
「読むだけですから」
「覚えた?」
「概ね」
「早っ!」
思わず二回言ってしまった。
清華さんは気にした様子もなく、自分のタブレットへ視線を戻す。
瞳子も画面へ向き直った。右へ寄りやすい。
もうこれは覚えた、たぶん。
「……清華さん」
「なんですか?」
「明日、緊張する?」
清華さんの指が止まった。
「なぜですか?」
「なんとなく」
「馬に跨ったり、常歩をするだけですよ」
清華さんがこちらを見る。
「それでも、競馬学校では初めてすることだよ」
「競馬学校だからといって、馬に乗る基本が変わるわけではありません」
「……ミス・パーフェクト」
ぽつりと、声が漏れた。
「……緊張している、と答えた方がよかったですか?」
「だって、知らない馬に乗るんだよ?」
少しだけ間を置いて、
「先ほど言いましたが、基本動作は一緒です。私が緊張するとしたら、実際に走るようになってからですね、馬術競技とは変わってくるでしょうから」
清華さんはそう言った。
瞳子はタブレットの画面へ視線を戻した。
知らない馬。いや、知らないわけじゃない。
名前も知っているし、顔も知っている。
何度も触れたことだってある。
でも、その背中の上から見るこの子のことは、まだ何も知らない。
緊張と楽しみが混ざる。
翌日の午後。
騎乗用の装備へ着替えた瞳子たちは、それぞれ騎乗馬がいる馬房へ向かった。
ヘルメットに安全ベスト。足元にはブーツ。
昨日の夜に何度も確認した馬の特徴は、ちゃんと頭に入っている。
右へ寄りやすい。手綱だけで無理に戻そうとしない。
脚も使って、真っ直ぐに。
大丈夫。覚えてる。
瞳子は馬房の前で、もう一度その言葉を頭の中に並べた。
「よろしくね」
声をかけてから、馬房へ入る。昨日までにも何度も見てきた馬だった。
世話をして、触れて、近くで息遣いも聞いている。
なのに今日は、この子が少し違って見える。
これから自分が乗る馬だからだろうか。
瞳子が近づくと、『サクラ』がこちらへ顔を向けた。
鼻先へ手を伸ばす。ふっと温かい息が掌にかかった。
「今日は一緒に頑張ろうね」
馬装を確認し、準備を終える。あとは馬場まで曳いていくだけだ。瞳子は手綱を持ち、馬の左側へ立った。
「一年、移動するぞ!」
「はい!」
教官の声が厩舎内に響く。
次々と馬房から馬が出てくる。蹄が床を打つ音。鼻を鳴らす音。人の足音。
さっきまで静かだった厩舎が、一気に慌ただしくなった。
瞳子も歩き出す。
すぐ横を、大きな身体がついてくる。
曳き馬なら北海道でも散々やってきた。
馬の肩のあたりに自分の身体を置き、歩調を合わせる。
これは大丈夫。
むしろ、『サクラ』と並んで歩けることが嬉しかった。
ところが。
「うぇ、ちょ、待って!」
後ろから聞き慣れた声がした。
瞳子は振り返りそうになって、ぎりぎりで堪えた。
今は自分の馬を見ないと。それでも声だけで誰なのかは分かる。
「速いって!」
星羅ちゃんだ。
ちらりと横目を向ける。
星羅ちゃんの馬が、少し前へ出たがっていた。
星羅ちゃん自身も歩くのが遅いわけではない。
でも、馬の方は、さらに先へ行こうとする。
「藍沢! 馬に歩かされるな!」
「はい!」
教官の声が飛んだ。
星羅ちゃんが手綱を扱い、馬との位置を戻そうとする。
「ここ……だよね。おっけ」
馬の肩の横へ身体を戻す。
けれど数歩進むと、また馬の鼻先が前へ出た。
「いや、速いって、アタシの可愛さに興奮してんのか?」
困っているのか、楽しそうなのか、分からない。
星羅ちゃんらしいな。
瞳子の口元が緩む。
「斉藤! 前見ろ!」
「はいっ!」
見つかった。慌てて自分の馬へ意識を戻す。
危ない。昨日までなら、ただ馬を曳いているだけだった。
でも今日は違う。このまま馬場へ行って、この子に乗る。
そう思うたび、気持ちがあちこちへ飛んでしまう。
前。自分の馬。
瞳子は意識して歩調を合わせた。
そのとき、少し前を歩いている一組が目に入った。
清華さんだった。
「……」
思わず見入ってしまう。
別に、何か特別なことをしているようには見えなかった。
清華さんは馬の左側に立って、ただ歩いている。
それだけなのに――綺麗だった。
馬の肩と清華さんの位置が、ほとんど変わらない。
馬が少し首を動かしても、清華さんの身体はぶれない。
手綱を強く引いているようにも見えなかった。
むしろ力なんてほとんど使っていないように見える。
背筋を伸ばし、前を見て歩く。その横を馬が当然のようについていく。
星羅ちゃんは、まだ馬と「どっちがどっちについていくのか」を探している感じなのに。
清華さんには、それが最初からない。馬との間に、迷いがない。
――すごい。
乗ってすらいないのに。ただ一緒に歩いているだけで、これだけ違うんだ。
馬術のジュニアチャンピオン。
その経歴は知っていた。
電車で初めて会った日、小町ちゃんからどれだけすごい選手だったのかも聞いた。
でも、こういうことなのかもしれない。
大会の成績を聞くより、今の清華さんを見ている方がずっと分かりやすかった。
「斉藤」
「はいっ!」
「さっき前見ろと言ったよな」
「……はい」
「なら前見ろ」
「はい……」
また怒られた。
今日はまだ馬場にも着いていないのに。
瞳子は今度こそ正面へ視線を固定した。
隣では、『サクラ』が一定の歩調でついてきている。
蹄の音が、瞳子の足音と重なる。
馬場までの道を、一年生たちがそれぞれの馬と並んで歩いていく。
前には清華さん。
少し後ろには、まだ馬との距離を何度も直している星羅ちゃん。
小町ちゃんも自分の馬を曳いている。
そして瞳子のすぐ横には、今日初めて背中を借りる馬がいる。
馬場が近づいてきた。胸の鼓動も、それにつれて速くなる。
楽しみ。早く乗りたい。
でも――少し怖い。
昨日覚えたこの子の癖。
木馬とは違う、本当に動く馬の背中。
ちゃんとできるかな。
北海道で馬に乗っていたときには、こんなことを考えたことなんてなかったのに。
ここでは、ただ乗るんじゃない。
騎手になるために乗る。
そう考えた途端、手綱を持つ手に少しだけ力が入った。




