第11レース 分かってんねん
競馬学校に入れば、毎日馬に乗れる。わりと本気でそう思っていた。
さすがに一日中というわけにはいかないだろうけれど、それでも北海道にいた頃より、ずっと長い時間を馬の背で過ごすことになるはずだ。
だって、ここは騎手になるための学校なのだから。
――ところが。
「斉藤。手ぇ止まってるぞ」
「はいっ!」
教官の声が飛んできて、瞳子は慌てて手元へ視線を戻した。
そこに馬の背中はない。
あるのは、フォークと一輪車。
それから、たっぷりと敷き詰められた藁と、その中に点々と落ちている馬のボロだった。
入学してから、もう何日目だろう。
馬房掃除に担当馬のブラッシング。
馬具の手入れに座学。落馬に備えた受け身の練習に、体力トレーニング、そして木馬。
翌日も、だいたい同じ。
馬には毎日触れている。世話だってしているし、こうして馬房にも入っている。
なのに――乗っていない。
一度も。
「……競馬学校って、もっと馬に乗るものだと思ってた」
フォークで藁を返しながら、つい口からこぼれた。
「なんや、もう飽きたん?」
隣の馬房から、小町がひょこっと顔を出す。頬には藁くずが一本くっついていた。
「飽きてないよ。馬房掃除も大事なのは分かってるし」
「ほな、ええやん」
「分かってるんだけど……」
瞳子はフォークの先で、藁に埋もれていたボロをひとつ拾い上げた。
一輪車へ放り込む。ころん、と転がった。
もうひとつ。また、ころん。
視線を上げれば、馬房の向こうから一頭の馬がこちらを見ている。
乗りたい。背中に跨がって、手綱を握りたい。
ゆっくり歩く常歩でもいい。弾むようなリズムで進む速歩でもいい。
なんなら、馬場を一周するだけだっていい。
それなのに今日も、瞳子の手にあるのは手綱ではなくフォークだ。
「……私、ボロ拾いしに来たんじゃないんだけどなぁ」
「聞こえてるぞ、斉藤」
「えっ」
背後から声が落ちてきた。
ぎくりとして振り返ると、馬房の入口に教官が立っていた。
いつからいたんだろう。
少なくとも、今のひと言はばっちり聞かれていたらしい。
小町が隣の馬房から、そっと顔を引っ込める。
――小町ちゃん、逃げた。
「す、すみません」
瞳子がフォークを握り直すと、教官は怒鳴りもせず、ただ馬房の中を見回した。
「斉藤。そこ」
「はい?」
「隅に残ってる」
指さされた先を見ると、壁際の藁に小さなボロがひとつ埋もれていた。
「あ」
「騎手になる前に、まずまともにボロを拾えるようになれ」
「……はい」
フォークを差し込んで、最後のひとつを拾う。
今日もまだ、馬には乗れそうになかった。
入学してから、もうすぐ一か月が経とうとしていた。
五月に入り、競馬学校を囲む木々もすっかり緑が濃くなった。
日中ともなれば身体を動かすには暑いくらいで、トレーニングを終える頃には額から汗が流れる。
競馬学校での生活にも、だいぶ慣れた。
何時に起きて、いつ厩舎へ行って、どの時間に授業が始まるのか。最初はいちいち時計を確認していた一日の流れも、今では身体の方が先に動く。
そして今日も、瞳子たち一年生の前に並んでいるのは、本物の馬ではなく木馬だった。
「あと五分!」
教官の声が訓練場に響く。
瞳子はモンキー姿勢を保ったまま、奥歯を噛みしめた。
膝を曲げ、腰を浮かせる。踵を下げて、上体を前へ。
両手は手綱を持つ位置から動かさない。
入学したばかりの頃は、ほんの数分で太腿が悲鳴を上げていた。
脚が震えて腰が落ちる。教官に直されて持ち上げれば、今度は肩に力が入り、そこを注意されればまた脚がおかしくなる。
あと五分。
初めてそう言われたときは、五分ってこんなに長かったっけ、と本気で疑った。
けれど、今日は違う。きついことは、きつい。
それでも、まだいける。
以前なら、とっくに何かを考える余裕なんてなくなっていた時間を過ぎても、腰は落ちていない。
あれ? もしかして。私、筋力ついた??
「斉藤、前!」
「はいっ!」
嬉しくなって横を見ようとしたところを、すぐに見つかった。
瞳子は正面へ視線を戻す。
でも、口元が少し緩むのまでは止められなかった。
毎日走って、筋力トレーニングをして、木馬に跨がって。馬にはちっとも乗せてもらえないけれど、ちゃんと自分の身体は変わっている。
「あと三分!」
まだ三分。
でも、嫌ではなかった。
むしろ最後まで崩さずにやってみたい。そう思えること自体、一か月前とは全然違う。
少し離れた木馬では、星羅も同じ姿勢を取っている。
入学した頃こそ、初めてやるモンキー姿勢に苦戦していたのに、今では腰の位置もほとんど動かない。
しかも、涼しい顔をしている。なんであんなに平気そうなの?こっちは結構頑張ってるのに。
「藍沢。余裕あるなら腰、もう少し上げろ」
「うぇ、マジすか」
「口じゃなく身体動かせ」
「はい!」
星羅の腰が上がった。それでも姿勢は崩れない。
やっぱりすごい。身体を動かすことに関しては、星羅が四人の中で一番なのかもしれない。
清華も安定していた。
星羅のような力強さとは違って、余計な動きがほとんどない。
そして――。
「成瀬。腰」
「はい!」
小町の返事が聞こえ、瞳子は目だけを向ける。
フォームは綺麗だった。
背中の角度も、脚の位置も、教官から教えられた見本そのものに見える。
でも、太腿が小さく震えている。落ちかけた腰を、小町が持ち上げるも、しばらくするとまた下がる。
「成瀬。形は悪くない。維持しろ」
「はい!」
また戻す。その繰り返しだった。
「そこまで!」
終了の声と同時に、瞳子は大きく息を吐いた。
最後の方は気合で乗り切れたけど、木馬から降りると、やはり脚はズッシリと重い。
でも、ちゃんと立っていられる。
「ガチ、脚いてぇ」
星羅が太腿を叩いた。
「星羅ちゃん、全然平気そうだったじゃん」
「とこは最後の方、プルプルしてた」
「そんなに?」
「産まれたての子鹿みたいだった」
思わず自分の脚を見る。
そう言われてみれば、本当に違う。
「ちょっとは、筋力ついたんだけどな」
「それな。アタシも前よりは楽だし」
「清華さんも?」
タオルで汗を拭いていた清華へ尋ねると、静かに頷いた。
「えぇ。以前より余計な力を使わずに維持できるようになりました」
「やっぱりみんなそうなんだ」
一か月なんて短いと思っていた。
でも毎日同じことを積み重ねれば、身体はちゃんと応えてくれるらしい。
嬉しくなって、もう一人へ目を向ける。
小町はまだ木馬の横にいた。
太腿へ両手を当て、ゆっくり揉んでいる。
「小町ちゃんは?」
「……ん?」
「前より楽になった?」
一瞬だけ間があった。
「そら、一か月もやってるからな」
そう言って笑う。
けれど、その直後に立ち上がった小町の膝が、わずかに揺れた。
「あっ。大丈夫?」
「平気、平気。ちょっと脚にきただけや」
小町はすぐに姿勢を戻す。
「自分らが元気すぎんねん」
「私も結構疲れてるよ?」
「星羅なんか、まだ走れそうな顔しとるやん」
「走れそうでも走りたくはない」
星羅が即座に否定する。
小町も笑った。いつもの小町だ。
だから瞳子も、それ以上は気にしなかった。
授業が終わった十七時以降の自由時間。
瞳子が木馬室の扉を開けると、先客がいた。
「……あれ、小町ちゃん?」
鏡の前で、小町が一人、木馬に跨がっている。
さっきまで授業で散々乗っていたのに。
「瞳子ちゃんか。どしたん?」
「今日掴んだ感覚、忘れないうちにもう一回やっておこうかなって」
そんな単純な理由で来てみれば、小町も同じ場所にいた。
「真面目やなぁ」
「小町ちゃんに言われたくないよ」
「それもそやな」
小町が笑う。
瞳子も隣の木馬へ跨がった。
授業で何度も言われたことを思い出しながら、腰を浮かせる。
膝を曲げて、踵を下げる。
上体は――このくらい?
「……こんな感じだったよね?」
鏡に映る自分を見ていると、小町がすぐに口を挟んだ。
「もうちょい上体前」
「ここ?」
「行きすぎ。ほんのちょい戻して」
「……ここ?」
「そこや」
言われた位置で止める。
「あ」
すっと身体が収まった。
さっきまでより、太腿だけにかかっていた負担が少ない。
「ほんとだ。全然違う」
「膝だけで支えようとしたらしんどいねん。足首も使って、腰はその位置。上半身に余計な力入れんように」
「こう?」
「そうそう」
しばらくその姿勢を保ってみる。
できる。
これならさっきよりずっと楽だ。
「小町ちゃん、教官みたい」
「……褒めてるん?」
「褒めてるよ!」
鏡の中の自分を見る。
小町に言われた通りに少し直しただけなのに、形まで良くなった気がする。
隣を見ると、小町の姿勢はやっぱり綺麗だった。
どこに腰を置いて、どれくらい上体を傾けて、どう脚を使えばいいのか。
たぶん、小町には全部見えている。
自分だって毎日同じ説明を聞いているのに、少し見ただけで違いに気づくなんて。
「小町ちゃんって、こういうの得意だよね」
「まあ、昔から腐るほど騎手の映像見てきたからな。乗り方もずっと見とったし」
「私なんて、乗ってる馬ばっかり見てたかも」
「瞳子ちゃんらしいわ」
小町が少し得意そうに笑う。その顔を見て、瞳子も笑った。
そのとき、木馬室の扉が開いた。
「やっぱいた」
入ってきたのは星羅だった。
「星羅ちゃん」
「小町が部屋戻ってこねーから、ここかなって。……とこまでいるし」
「星羅ちゃんもやる?」
「あぁ……まあ、来たついでに」
そう言いながら、星羅は空いている木馬へ跨がった。
「小町。これで合ってる?」
「全然ちゃう」
「ガチ?」
即答だった。
「星羅は脚で踏ん張りすぎや。膝固めたら馬の動き吸収できへんで」
「じゃ、どうすんの?」
「足首もっと使って。上体も少し前」
「こう?」
「もうちょい」
「ここ?」
星羅が姿勢を止める。
数秒。
十秒。
そのまま動かない。
「あ、これ楽」
「せやろ?」
瞳子も鏡越しに星羅を見る。
さっきまでより明らかに綺麗だった。
「星羅ちゃん、一回でできたね」
「小町教官が優秀だからな」
「教官ちゃうわ」
「でも、すげー分かりやすかった」
小町が得意そうに口元を緩める。
そのときだった。鏡の中で、小町の腰が少し下がった。
すぐに元の位置へ戻る。瞳子は何となく目を向けた。
小町のフォームは崩れていない……いや、崩れかけるたびに、自分で正しい位置へ戻している。
そこが正しいと、ちゃんと分かっているから。
また少し腰が下がるも、すぐに戻す。
太腿が細かく震え始めていた。
「小町ちゃん、脚大丈夫?」
「へーきや」
「でも――」
「この位置やろ」
小町は自分の腰を少し持ち上げた。
「分かってんねん」
それだけ言って、鏡へ視線を戻す。声がいつもより少し低かった。
瞳子は口を閉じた。
分かっている。確かにそうだ。
小町は、自分と星羅の姿勢を一目で直してみせた。なのに、その小町の腰がまた落ちた。
「……っ」
今度は戻すまでに少し時間がかかった。
「小町、休んだら?」
星羅も気づいたらしい。
「まだや」
「でも脚ヤバくね?」
「まだやっちゅーねん!」
小町が腰を持ち上げる。
星羅が何か言おうとしたけれど、それ以上は続けなかった。
瞳子も言葉が出てこない。鏡の中に、三人の姿が並んでいる。
星羅は、さっき小町から教えられた位置をもうほとんど崩さない。
瞳子も、直してもらってからは、太腿の負担がずっと軽くなっていた。
正しい位置が分かってからは、二人とも明らかに楽になった。
小町は、その位置を最初から知っている。他人に教えられるくらいに完璧に。
それなのに。小町の細い太腿は、さっきよりも大きく震えていた。
また腰が落ちる。小町は唇をきゅっと結んで、もう一度持ち上げた。
その横顔を見て、ようやく瞳子にも少しだけ分かった気がした。
知っているのに。身体が、そこにいてくれない。
「……小町ちゃん」
名前を呼ぶ。
「なん……や?」
返事は来た。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
頑張って――違う。もう頑張っている。
休んだ方がいい――それも、さっき星羅ちゃんが言った。
「……ううん」
結局、それしか言えなかった。
小町は何も聞き返さず、鏡へ視線を戻した。
腰を直す。落ちる。また直す。自分は、できるようになったのが嬉しくてここへ来た。
でも、小町は違う。
鏡の中で、小町は歯を食いしばっていた。細い脚が、また悲鳴を上げるように震え始める。
その隣で瞳子はモンキー姿勢を保ったまま、何も言えずに小町を見つめることしかできなかった。




