清華Side① それで、十分
一人で部屋へ戻ると、制服のブレザーを脱いだ。
肩や袖に皺が寄っていないか確かめ、ハンガーに掛けてクローゼットへしまう。
ようやく静かな時間になった。
入学式に記者会見、それから写真撮影と、朝からずっと人の目があった。
別に緊張していたわけではない。人前に立つことなら、馬術の大会で何度も経験している。質問される内容だって、ある程度は予想していた。
それでも、一日中誰かに見られ続けるというのは、それなりに疲れるものらしい。
机の前に座る。
廊下の向こうから、かすかに声が聞こえる。
藍沢さんたちだろう。
部屋へ誘われたとき、断ることに迷いはなかった。
『え、清っちは来ないの? 』
あの呼び方だけは、本当にやめてもらいたい。
「清っち……」
誰もいない部屋で呟いてみても、やはり意味が分からない。
名字でも名前でもない。
そもそも、二週間やそこらの付き合いでしかない相手にあそこまで気安く接する感覚そのものが、よく理解できなかった。
もっとも、藍沢さんに悪気がないことくらいは分かっている。
成瀬さんもそうだ。
有名な調教師の孫娘であり、調教助手の娘。競馬一家に相応しいくらいに、知識は同年代とは思えないほど豊富で、話している内容にも筋が通っている。
そして――。
視線を部屋の反対側へ移す。
斎藤さんのベッド。
まだ二週間しか同室で過ごしていないのに、どちらが誰の場所なのかは一目で分かる。
自分の机には必要なものだけが決まった位置に置いてある。
一方、斎藤さんの机には筆記用具や教本のほかにも、少し位置のずれた物がいくつかあった。
朝には整えていたはずなのに、夜になるころには大抵こうなる。
本人は気にしていないらしく、話す声も大きければ、よく笑う。思っていることも、驚くほどそのまま顔に出る。
昨日も座学の途中で眠くなったのか、必死に目を開けようとしていた。本人は隠しているつもりだったのだろうが、隣から見れば一目瞭然だった。
馬の話になると、さらに分かりやすく、目まで変わる。私にはそれが少し不思議だった。自分とはまるで違う。だからといって嫌いなわけではない。
三人とも、悪い人ではない。おそらく一緒に部屋へ行けば、それなりに楽しく過ごせたのだろう。
それでも私は、馴れ合うためにここへ来たわけではない。
机の上に置いていた教本を手に取った。
競馬学校で過ごせるのは三年間。
騎乗技術だけではない。競馬法規、馬学、競走馬の管理、体力づくり。身につけるべきことはいくらでもある。
これまで馬術で積み上げてきたものが役立つ部分はあるだろう。
騎座、重心、扶助。
馬の僅かな変化を身体で感じ取ること。それが出来たからと言って、騎手になれるわけではない。
過去の経験に頼りすぎない方がいい。
馬術と競馬は違う。
今日の記者会見で、自分が口にした言葉を思い出す。
『私は競馬を一から学び、自分の可能性を試したいと思い志望しました』
斎藤さんには、どう聞こえただろう。隣から視線を感じたことには気づいていた。
おそらく、何か思われていたかもしれない。それでも構わなかった。
用意していた言葉だからといって、嘘をついたわけではない。
馬術を続ける道も、もちろんあった。
そのまま続けていれば、高校でも、その先でも大会へ出ていただろう。
周囲も、それを望んでいた。
物心つくころから馬に乗り、競技会へ出て、結果を残す。
勝てば家族が喜び、教えてくれた人たちからは次の大会を期待された。期待されれば応えたかったから、さらに練習し、もっと上手くなろうとした。勝てばまた次を目指す――そうすることが、いつの間にか当たり前になっていた。
自分には、それができた。できてしまった。
だから長い間、考えもしなかった。これは、本当に自分が望んでいることなのか。
周囲が喜んでくれるから、続けているだけではないのか。
気づいたときには、誰のために馬に乗っているのか分からなくなっていた。
それでも。馬に乗ることそのものまで嫌いになったわけではない。
むしろ――好きだ。
馬の背に跨がった瞬間の高さも、一歩目を踏み出す直前に身体の下で筋肉が動く感覚も、こちらの扶助と馬の動きが噛み合い、思い描いた通りの軌道を走れたときの感覚も、今でもはっきり覚えている。
だからこそ、競馬を選んだ。
誰かに言われたわけではない。自分で調べた。自分で考えた。
そして、自分で競馬学校を受験すると決めた。初めてだった。馬に関わる道を、自分だけで選んだのは。
今日の記者会見で、
『ご家族は、その決断を応援されていますか?』
と聞かれたときのことを思い出す。
『……祖父には、応援してもらっています』
それ以上は答えなかったし、答える必要もない。
なぜ馬術を辞めたのか、どうして競馬だったのか。誰かに理解してもらわなくてもいい。自分が分かっていれば、それでいい。
開きかけた教本へ視線を落とした。
けれど、文字を追う前に、ある言葉が頭へ浮かんだ。
信頼。
馬術を続けていたころ、何度聞いたか分からない言葉。
人馬一体。
馬との信頼関係。
同じ馬と時間を重ね、癖を知り、性格を知り、その日の僅かな変化まで感じ取る。
馬にも自分を知ってもらい、任せてもらい、信じてもらう。その見えない『絆』を頼りに、呼吸を合わせる。
それがどれほど大切かは、私自身がよく知っている。
「…………」
ページをめくろうとしていた指が止まった。
胸の奥に浮かびかけたものを、意識して押し戻す。
それ以上、考える必要はない。
今、自分が選んだのは競馬なのだから。騎手になれば、数多くの競走馬に騎乗する。
毎回同じ馬に乗れることもあるかもしれないけれど、馬術競技よりは共にする時間は圧倒的に短い。
限られた時間の中で癖を把握し、状態を見極め、その馬に合った乗り方を選ぶ。
そして、求められた結果を出す。
今日、どんな騎手になりたいのかと聞かれて答えた。
『調教師や厩舎の方々が描いたレースプランを正確に遂行し、その馬の能力を完璧に引き出せる騎手です』
あれも本心だった。
どんな馬に乗っても、その馬が持っている力を引き出せる。
感情に左右されず、相手が変わっても、自分の技術だけは変わらない。技術を磨き、知識を増やし、経験を積んで判断の精度を上げていけば、少なくともそれは自分の努力だけでどうにかできる。
小さく息を吐く。
そう、それでいい。
馬とは、必要な時にだけ正確に向き合えばいい。人間も同じだ。
三年間、同じ場所で学ぶ同期。競争相手でもあり、同じ騎手を目指す仲間でもある。
授業で協力することもあるだろう。互いに助ける場面だって、きっとある。
それで十分だ、必要以上に近づく理由はない。
仲良くならなければいけない決まりなど、どこにもない。
廊下の向こうから、また笑い声が聞こえてきた。
さっきより大きい藍沢さんの声が一番よく聞こえる。
次に成瀬さんが藍沢さんをたしなめる声。
少し遅れて――斎藤さんの笑い声。
何をしているのだろう、わざわざ確認するほどのことでもない。
教本の最初のページへ目を落とした。
数行読み進める、また笑い声。
「…………」
今度は、ほんの僅かに眉を寄せた。
集中が出来ない、騒がしい。
後で斎藤さんが戻ってきたら、少し静かにするよう言った方がいいかもしれない。
そう考えてから、ふと気づく。
あの三人の声が聞こえているのは、別の部屋だ。
斎藤さんに言っても意味がない。
「……何を考えているんでしょう」
自分でも分からなかった。
もう一度、教本へ意識を戻す。
しばらくすると、廊下の声は聞こえなくなった。
今度こそ静かになった。意識を戻して文字を追う。
一ページ。
二ページ。
普段なら、それだけで周囲のことなど気にならなくなる。なのに今日は、数分もしないうちに視線が動いた。
向かい側のベッド。斎藤さんは、まだ戻ってこない。
当然だ、自分が先に部屋へ戻ったのだから。それだけのこと。
すぐに教本へ視線を戻した。自分は、自分のやるべきことをすればいい。
騎手になる。そのために、ここへ来た。友人を作るためではない。
誰かと特別な関係になるためでもない。馬にも、人にも、必要以上に近づかなくていい。
それが一番合理的だ。
廊下の向こうから三人の笑い声が聞こえなくなったことを、少しだけ静かすぎると思った理由については――考えないことにした。




