第七話
夜の帳が静かに下りたハルフォード万屋の工房には、作業台に灯されたランプの橙色の光と、心地よい静寂が満ちていた。
アルヴィナは拡大鏡を覗き込みながら、昼間に預かった精巧な『古代のからくり時計』の内部に極細のピンセットを差し込んでいた。百年以上前に作られたというその時計は、微細な魔力バネの歪みによって時を刻むのを止めていたが、アルヴィナが第2階梯の微小金属修復魔法を施すと、「チク、タク」と規則正しい澄んだ音を響かせ始めた。
作業を終えて熱いハーブティーを一口飲み、ふうと息をついたその時だった。
――ドガアアアンッ!
工房の頑丈な樫の木の扉が、暴虐な蹴りによって粉々に蹴破られた。
割れた木片と埃が店内に飛び散り、夜の冷たい海風と共に、血相を変えた男が土足で踏み込んできた。
泥と埃にまみれ、破れた金糸の外套を纏った元婚約者――レイモンド・ヴァルディスだった。
「はあ……はあ……っ! 見つけたぞ、アルヴィナ! 今すぐルミナス王国へ戻るんだ! 私と共に戻り、帝国軍の術式を解読し、防衛結界の修正案を徹夜で書き上げろ! すべてを元通りに修復しろ!」
狂気に満ちた形相で喚き散らし、足元に泥まみれの書類を叩きつけるレイモンド。
だが、アルヴィナは静かに視線を落とし、その書類を一瞥した後、冷徹な群青の瞳でレイモンドを見つめ返した。
「……お引き取りください。貴方に貸す力など、私には一欠片もありません」
アルヴィナの静まり返った声が、夜の工房に冷ややかに響き渡った。
その群青の瞳には怒りも憎しみもなく、ただ路傍の転がる石ころを見るかのような絶対的な無関心だけが宿っていた。
それが、何よりもレイモンドの肥大化した自尊心を痛烈に抉り取った。
「き、貴様……っ! この私が直々に足を運んで迎えに来てやったというのに、その態度は何だ! 平民の分際で、宰相家の私に逆らう気か!」
レイモンドは全身を小刻みに震わせ、血走った目を剥き出しにして咆哮した。
口元からは唾泡を飛ばし、かつての貴族的な気品など見る影もなく崩壊している。
「誰のおかげで王宮に出入りできていたと思っている! 私の婚約者という立場があったからこそ、貴様のような身寄りのない孤児の女が魔導の研究を続けられたのだろうが! 恩知らずめ! お前は私のために命を削り、私のために頭脳を差し出すのが唯一の存在価値なのだ! 私の代わりに泥を被り、私のために死ぬまで働くのが当然の義務だろうが!」
あまりに身勝手で、醜悪極まりない理屈だった。
アルヴィナは静かに溜息をつき、冷ややかな視線をレイモンドの足元へと向けた。
「恩、ですか。私の研究成果をすべて自分の名義で発表し、莫大な研究予算を愛人のドレスや酒代に横領し、最後はその罪をすべて私になすりつけて国外追放にした……それが貴方の言う『恩』なのですか? それだけではありません。貴方は自らの無能を隠すため、真面目に研究していた若手魔導士たちの論文を奪い、異を唱えた者を左遷してきた。都合の良い道具として他者を使い潰し、用が済めば捨てる。そして自分が窮地に陥れば、また命令一つで戻ってくると思っている……貴方の傲慢さには、もはや哀れみすら覚えます」
「だ、黙れ黙れ黙れえええっ!」
痛いところをことごとく突かれたレイモンドは、完全に理性を失って絶叫した。
「言葉で分からぬなら、力ずくで連れて帰るまでだ! 手足をへし折ってでも王都へ引きずり戻し、地下牢に鎖で繋いで書類を書かせてやる! 死ぬまで私の奴隷として働けえっ!」
レイモンドは狂乱のまま、懐から金装飾が施された特注の魔導杖を引き抜いた。
さらに、首元から吊り下げていた禍々しい紫色の魔導宝石――公金を横領して裏ルートで購入した『禁忌の魔力増幅核』を無理やり起動させた。
術者の魔力経路が過負荷で悲鳴を上げるのも構わず、暴走する漆黒の魔力を杖へと注ぎ込んでいく。
「『燃え盛る紅蓮の焔よ、我が敵を焼き尽くす無慈悲なる劫火の槍となれ――第3階梯・紅蓮暴炎槍』!」
ゴオオオオッ!
狭い工房の中に、猛烈な熱風と黒煙が巻き起こった。
杖の先端から放たれたのは、触れるものすべてを一瞬で炭化させる超高熱の炎の槍。至近距離から放たれたその威力は、通常の人間であれば跡形もなく消し炭になる必殺の一撃だった。
だが――アルヴィナは眉一つ動かさず、一歩も退かなかった。
「……基礎がなっていない上に、他人の魔力増幅器に頼るから、術式の幾何構造が完全に破綻しているわ」
アルヴィナは杖すら抜かず、ただ右手の指先を軽く宙でスナップさせた。
「『位相偏向・熱力学干渉』」
バシュウウウウッ!
放たれた巨大な炎の槍は、アルヴィナの眼前わずか三十センチの空間に展開された透明な空間の歪みへと吸い込まれた。
燃え盛る熱エネルギーは瞬時に運動ベクトルを相殺され、ただの生温かい微風となって霧散したのだ。
第4階梯の空間物理干渉魔法。触媒も長大な詠唱も必要としない、完璧な魔力制御による絶対防御。
「な……!? ば、馬鹿な! 私の増幅核を用いた全力の攻撃魔法が……指先一つで掻き消された……!?」
レイモンドは目を見開き、ガチガチと歯を鳴らしながら後ずさりした。
アルヴィナが優秀であることは知っていた。だが、これほどまでの圧倒的な実力差があることなど、レイモンドは一度たりとも想像したことすら信じたくもなかったのだ。
「レイモンド様。貴方は魔法の基礎すら忘れてしまったようですね」
アルヴィナは静かに一歩、前へと歩み出た。
その瞬間、工房内の大気の重さが十倍に跳ね上がったかのような、凄まじい威圧感が部屋中を満たした。
「魔法とは、他者を脅し、己の欲望を満たすための凶器ではありません。……ましてや、他国の法と秩序を踏みにじり、土足で他人の家に押し入って振りかざすなど、言語道断です」
「ひ、ひいっ……! く、来るな! 私はヴァルディス家の次男だぞ! 無礼を働けばタダでは……!」
「ここはルミナス王国ではありません。グランヴェルの法に従い、貴方を拘束します」
アルヴィナは冷徹な眼差しで、右手を水平に掲げた。
「『重力律の檻よ、不浄なる暴威を大地に縫い留めよ――第5階梯・重力縛鎖』」
ドガアアアンッ!
「ぎゃあああああっ!」
レイモンドの身体に、目に見えない数トンの重力場が垂直に叩きつけられた。
レイモンドは床の大理石に顔面から叩き伏せられ、四肢を完全に封じられて指一本動かせなくなった。
手にしていた豪奢な魔導杖と紫色の増幅核は、パキリと乾いた音を立てて粉々に砕け散り、床に散乱する。
「ぐ、ぐぎぎ……っ! は、離せ……! 息が……身体が潰れる……! 助けてくれええっ!」
先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、レイモンドは涙と鼻水を床に垂らしながら、無様な命乞いを始めた。
その時、壊れた扉の外から、ドカドカと激しい足音と甲冑の擦れ合う音が響いてきた。
「動くな! グランヴェル警邏隊だ! 武器を捨てろ!」
抜刀した十数名の警邏隊員を引き連れ、副隊長のシリルが血相を変えて店内に突入してきた。
「アルヴィナ! 無事か!? 詰所で異常な魔力反応を感知して駆けつけたんだが……!」
「シリルさん。申し訳ありません、店を少し騒がせてしまいました」
アルヴィナが平然とした顔で応対すると、シリルは床に無様に転がって呻いている男を見て目を丸くした。
「おいおい……一体何事だ? 店の扉はへし折れてるし、床で潰れてるこの薄汚い男は誰なんだ?」
「ルミナス王国の宮廷筆頭魔導士を名乗る不審者です。夜間に店舗の扉を破壊して侵入し、私に対して第3階梯の攻撃魔法を行使してきました。正当防衛として拘束したところです」
「な、何だと!?」
シリルの鳶色の瞳に、猛烈な怒りの炎が宿った。
シリルは床に這いつくばるレイモンドの襟首を掴み上げ、鋭い眼光で睨みつけた。
「てめえ……! 俺たちの街の大切な万屋に土足で押し入って、アルヴィナに攻撃魔法を放っただと!? ふざけた真似をしやがって!」
「ひ、放せ! 無礼者! 私はルミナス王国の宮廷筆頭魔導士レイモンド・ヴァルディス卿だぞ! 貴様らのような地方都市の番犬風情が、この私に触れていいはずが……!」
「うるせえええっ!」
ドゴォッ!
シリルは容赦なくレイモンドの腹に硬質な籠手を叩き込んだ。
「ぐえっ……!?」
「ルミナスの貴族だか何だか知らねえが、ここは独立商都グランヴェルだ! 他国の身分なんざ通用しねえ! 深夜の住居不法侵入、器物破損、殺人未遂、違法魔導行使の現行犯だ! おい、魔力封じの手枷を嵌めろ! 詰所の最深部の地下牢へ叩き込め!」
「はっ!」
隊員たちが一斉に取り押さえ、重厚な魔力遮断合金の手枷をレイモンドの両手首にガチリと嵌め込んだ。
魔力を完全に封じられたレイモンドは、芋虫のように転がりながら引きずられていく。
「ア、アルヴィナ! 頼む、助けてくれ! 私を許してくれ! 戻ってきてくれえええっ!」
夜の運河沿いに木霊するレイモンドの醜い絶叫を、アルヴィナは一度も振り返ることなく見送った。
◇
翌朝、グランヴェル自治評議会の特別審問室。
アルヴィナはシリルと共に、評議会の幹部たちから事情聴取を受けていた。
評議会議長は、机の上に広げられた二通の公文書を見比べながら、深いため息をついた。
「アルヴィナ様、大変な災難でしたな。……驚くべきことに、昨夜拘束したレイモンド・ヴァルディスについて、ルミナス王国政府から今朝届いた緊急親書と照合が取れました。あの男は、ルミナス王国において『敵前逃亡罪』『国家反逆罪』『最高度職務放棄罪』により、最高位の国際指名手配が下されております」
「敵前逃亡……ですか」
「ええ。隣国ロザリア帝国との開戦の危機に際し、自らの職務をすべて放り出して敵前逃亡したとのことです。さらに、ルミナス王国の第一王子エリオット殿下による独自調査の結果、過去に貴女にかけられていた公金横領および機密漏洩の容疑が、すべてレイモンドによる捏造と虚偽告発であったことが完全に証明されたそうです」
評議会議長はアルヴィナに向かって深々と頭を下げた。
「アルヴィナ様。貴女の無実と高潔さは、ルミナス王国の公式記録によっても完全に証明されました。ルミナス王国側からは『大罪人レイモンドの身柄の即時引き渡し』と、あわせて『アルヴィナ様の宮廷への復帰要請』が届いておりますが……貴女のご意向はいかがですか?」
アルヴィナは迷うことなく、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「レイモンドの身柄については、グランヴェルの法と国際協定に従い、ルミナス王国へ引き渡していただいて構いません。……ですが、私自身の宮廷復帰については、一切お受けするつもりはありません。私の居場所は、この自由商都グランヴェルにありますから」
その時、審問室の扉が勢いよく開いた。
「アルヴィナ様!」
旅装の外套を翻し、息を切らせて駆け込んできたのはセリアだった。
昨夜の事件を聞きつけ、隣町での商談を切り上げて早馬で駆け戻ってきたのだ。
「セリアさん……! 戻られたのですか?」
「アルヴィナ様が無事で……本当によかった……!」
セリアは周囲の目も気にせずアルヴィナに駆け寄り、その無事を確かめるように両手をぎゅっと握りしめた。その瞳には涙が浮かんでいた。
シリルや評議会の面々が温かな笑みを浮かべて見守る中、アルヴィナはセリアの手を優しく握り返した。
「ご心配をおかけしました、セリアさん。私はこの通り、何一つ傷ついていませんよ」
「もう……本当に無茶ばかりなさるのですから……!」
セリアが涙を拭って笑顔を見せると、室内に明るい笑い声が広がった。
かつての理不尽な追放劇から始まった旅路は、確かな絆と信頼に守られた、かけがえのない平穏へと結実していた。
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