第六話
自由商都グランヴェルの中央運河には、夕暮れの柔らかな黄金色の光が反射し、水面がきらきらと細波を立てて輝いていた。
海からの心地よい潮風が、ハルフォード万屋の軒先に吊るされたガラス製の風鈴をチリンと涼やかに鳴らす。
店の前を通りかかる近所の人々は、店先に立つアルヴィナを見かけると、誰もが親しげに手を振り、声をかけていく。
「アルヴィナさん! 今日も本当に助かったよ! あの海獣の呪縛網、おかげで新品以上の強度になって戻ってきたぜ!」
カウンターの前で満面の笑みを浮かべていたのは、グランヴェル港で数十隻の漁船を束ねる漁師頭のボリスだった。
数日前、外海での操業中に巨大クラーケンの残滓に遭遇し、高価な漁網全体が強力な呪毒と腐食性の深海マナに侵されて使い物にならなくなっていたのだ。他の魔導具店では「破棄して買い直すしかない」と匙を投げられていた網を、アルヴィナが第3階梯の『解呪濾過』によって完全浄化し、さらに耐水性と引張強度を三倍に高める強化術式を付与して返却したのである。
「喜んでいただけて何よりです。これで今夜の沖合漁も安心して出航できますね」
「ああ! これはほんの気持ちだが、夕方の競りで揚がったばかりの特上銀鱗鯛と極上の大紅海老を持ってきたんだ。受け取ってくれ!」
ボリスが木樽いっぱいに詰められた新鮮な魚介類をドンとカウンターに置くと、アルヴィナは困ったように眉を下げながらも、深々と頭を下げた。
「こんなに上等なものをたくさん……ありがとうございます。美味しくいただきますね」
「おう! 何かあったらいつでも船乗りたちを呼んでくれよな!」
漁師頭が満足そうに豪快な足取りで去っていくと、入れ替わりに店の扉のベルがカランと鳴り、重厚な甲冑の擦れ合う音が響いた。
グランヴェル警邏隊の副隊長、シリル・アルノーだった。
「よう、アルヴィナ! 今日も相変わらず街の人気者だな」
「シリルさん、お疲れ様です。夕方のパトロールの帰りですか?」
「ああ。港湾地区から東門までの見回りを終えてきたところだ。ついでに、隊員たちから預かった制式短剣の研磨と魔力コーティングの依頼書を持ってきたぜ。……お、すげえ美味そうな銀鱗鯛じゃねえか! おいおい、今夜はあんたの手料理をご馳走になってもいいか?」
「ええ、もちろん歓迎しますよ。ちょうどセリアさんからも、南方の特産白ワインが定期便で届いたところですから」
アルヴィナはカウンターの奥から、セリアから届いたばかりの手紙と、丁寧に木箱に収められたワインボトルを取り出した。
手紙には、メルヴィル商会の隊商が各地の主要都市で順調に取引を拡大していること、そしてアルヴィナが調合した高純度ポーションが各国の領主たちから絶賛を浴び、破格の高値で取引されていることが、セリアの丁寧で温かな筆致で綴られていた。手紙の最後には『アルヴィナ様が無理をして倒れてしまわないか、それだけが心配です。近いうちに必ずグランヴェルへ戻りますね』という、彼女らしい気遣いの言葉が添えられていた。
シリルは手紙の封蝋を眺めながら、ニヤリと悪戯っぽく口元を歪めた。
「セリアのお嬢さんも相変わらずあんたにベタ惚れだなあ。まあ、命の恩人だし、これだけの器量良しで腕の立つ魔導士なら当然か。……だが本当に、アルヴィナ。あんたがこの街に来てくれてから、警邏隊の装備トラブルは激減したし、街の住人たちの暮らしも格段に便利になった。みんな心からあんたに感謝してるぜ」
「私の方こそ、この街の皆さんに温かく受け入れていただいて、救われたのは私の方ですよ」
アルヴィナは工房の奥の調理台で、手際よく魚を捌き始めた。
第1階梯の微細な熱制御魔法と水流魔法を組み合わせ、瞬時に魚の鱗と内臓を処理し、香草と共に植物油で香ばしく焼き上げていく。良い香りが店内にふわりと広がり、シリルが喉を鳴らす。
誰かに命令されるわけでもなく、自分の意志で誰かのために腕を振るい、共に笑い合う夕餉のひととき。
かつてルミナス王国の冷たい石造りの宮廷で、徹夜の書類仕事の合間に冷め切ったパンを齧っていた日々に比べれば、ここはまさに地上の楽園だった。
だがその頃、アルヴィナが背を向けた遥か北東のルミナス王国では、彼女が抜けたことによる破滅の歯車が、制御不能な速度で回転を始めていた。
□□□□□□□
ルミナス王国王宮、その玉座の間は、かつてない怒号と絶望的な混乱に包まれていた。
「報告いたします! 宮廷筆頭魔導士レイモンド・ヴァルディス卿、ならびに愛人のエレナ・カース男爵令嬢が、今朝未明より宿舎から姿を消しております!」
「筆頭魔導士の執務室を捜索いたしましたが、机の上には何一つ書類の決済が行われておらず、本日正午が期限であったロザリア帝国への回答文書も白紙のまま放置されておりました!」
伝令兵の悲鳴のような報告が響き渡った瞬間、玉座の前に立つ第一王子エリオットの顔から一切の表情が消え失せ、絶対零度の冷気がその全身から立ち上った。
「……何だと?」
エリオットの金色の瞳が、燃え盛る怒りの炎を宿して見開かれた。
広間に居並ぶ重臣たちや将軍たちが一斉に息を呑み、壇上の下で平伏していたレイモンドの父、宰相ヴァルディス公爵はその場にへたり込み、青ざめた唇を震わせた。
「ば、バカな……! レイモンドの奴、敵前逃亡したというのか……!? この国家存亡の危機に、一国の筆頭魔導士が自らの職責を放り出して逃げ出すなど……!」
「宰相閣下。貴殿が自らの権力欲のために無能な息子を庇い立てし、真に国を支えていた優秀な魔導士を冤罪で追い出したツケが、これだ」
エリオットは腰の佩刀の柄を力任せに握りしめ、地を這うような冷酷な声で全軍へ宣告を下した。
「宮廷筆頭魔導士レイモンド・ヴァルディスを、敵前逃亡罪、国家反逆罪、最高度職務放棄罪の容疑で永久指名手配とする。憲兵隊および特務暗殺班を直ちに動員せよ。生死を問わず、速やかに捕縛せよ! また、共謀者であるエレナ・カース男爵令嬢の身柄を直ちに拘束し、地下牢へ連行せよ!」
『嫌ああああっ! 離しなさいよ無礼者! わたくしは男爵令嬢なのよ! レイモンド様ぁ、どこにいらっしゃるの!? 助けてええっ!』
王宮の廊下から、憲兵たちに引きずられていくエレナの醜い絶叫が響き渡ったが、誰もそれに同情の目を向ける者はいなかった。
そして――破滅の時は訪れた。
――ズガガガガガガアアアアンッ!
王宮の巨大な天蓋とステンドグラスを粉々に砕かんばかりの地響きと轟音が、遥か北東の国境線から王都へと届いた。
大理石の床が波打ち、シャンデリアが激しく揺れて火花を散らす。
「報告! ロザリア帝国軍が協定破棄と宣戦布告を宣言! 十個師団、兵力十万を超える大軍勢が国境線を突破し、我が国北部へ雪崩を打って侵攻を開始しました!」
「北部第一・第二防衛要塞の国土防衛大結界、中継塔の魔力過負荷により完全崩壊! 帝国軍の戦略級魔導部隊による砲撃が市街地に着弾しております!」
アルヴィナが追放されて以来、適切な魔力循環の補正を怠り、メンテナンスを放棄され続けた大結界は、帝国の第5階梯・攻城魔導砲の第一撃を受け止めることすらできず、ガラス細工のように脆く粉砕されたのだ。
さらに、兵士たちに配備されていた魔導具の多くが整備不良で暴発や沈黙を起こし、ルミナス王国軍の防衛線はわずか数時間で壊滅的な打撃を受けた。
「全軍に通達! 近衛第一師団および残存の魔導大隊を直ちに出撃させよ! 私が直々に前線で迎撃の指揮を執る!」
エリオット第一王子は深紅の軍外套を翻し、抜刀して大広間を駆け出していった。
だが、軍を支えるべき魔導の屋台骨を自らの手でへし折ってしまったルミナス王国にとって、それはあまりにも遅すぎる足掻きに過ぎなかった。
□□□□□□□
一方その頃、レイモンド・ヴァルディスは、狂気と焦燥の闇の中を這いずり回っていた。
裏社会の情報ギルドに全財産を注ぎ込み、違法な長距離転移門を無理やり起動させて南西へと飛んだものの、転移の術式反動により全身の魔力経路は焼き切れるような激痛に苛まれていた。
愛人のエレナなどとっくに見捨てていた。自分の命と地位を守ることだけが、彼の頭を支配していた。
「はあ……はあ……っ! アルヴィナ……どこだ、アルヴィナ……!」
アルガ山脈の危険な裏道を、転がるようにして駆け下りてきたレイモンドの姿は、かつての華やかな宮廷筆頭魔導士の面影など微塵もなかった。
金糸の刺繍が施された特注の外套は泥と汚水にまみれてボロボロに裂け、自慢の金髪は油と埃で固まり、琥珀色の瞳は血走り、頬はげっそりと削げ落ちていた。
夜の帳が下りた自由商都グランヴェルの街路を、通行人に不気味な視線を向けられながら、レイモンドは運河沿いを彷徨い歩いた。
そして――運河のほとりに掲げられた、あの小さな木製の看板を目にしたのだ。
『ハルフォード万屋』
「見つけた……見つけたぞおおおっ!」
レイモンドは狂喜の声を上げ、店の扉へと突進した。
――ドガアアアンッ!
シリルが帰り、アルヴィナがちょうど工房の片付けを終えて戸締りをしようとしたその瞬間、店の頑丈な木製扉が激しい蹴りによって蹴破られた。
割れた木片と埃が店内に飛び散り、夜の冷たい海風が吹き込んでくる。
土足で店の中に乱入してきた男の姿を見て、アルヴィナは静かに眉をひそめた。
「レイモンド……様?」
アルヴィナのあまりにも平然とした、動揺のない澄んだ声を聞いた瞬間、レイモンドの脳内で何かがプツリと切れた。
「貴様ぁっ! アルヴィナ! こんな南方の薄汚い僻地で、万屋ごっこなどとふざけた真似をしおって! 私がどれほど苦労してお前を探し回ったと思っているんだ!」
「……何のご用でしょうか。ここは自由商都グランヴェルです。ルミナス王国の管轄外であり、私は貴方の部下でも婚約者でもありません」
「黙れ! 減らず口を叩くな!」
レイモンドは狂乱したように喚き散らし、懐から汗と泥でぐしゃぐしゃになった羊皮紙の束を取り出すと、アルヴィナの足元へと乱暴に叩きつけた。
「今すぐ荷物をまとめろ! 私と共にルミナス王国へ戻るんだ! 帝国軍が攻め込んできて結界が壊れた! この帝国の古代術式を今夜中に解読し、防衛結界の修正案を徹夜で書き上げろ! すべてを元通りに修復しろ! それが終われば、お前を再び私の筆頭補佐として使ってやらんこともないと言っているんだ!」
あまりに身勝手で、常軌を逸した恫喝。
アルヴィナは静かに視線を落とし、足元に散らばった泥まみれの書類を眺めた。
かつて自分が血のにじむ思いで守り続けていた王国の防衛計画書と、帝国の条約文書。
だが、今のアルヴィナの心には、かつてのような義務感も、レイモンドに対する情も、何一つ残っていなかった。
(この人は、何も変わっていない)
他人の努力を当然のように奪い、困れば理不尽に怒鳴り散らし、すべての責任を他人に押し付ける。
そんな人間のために、なぜ自分が再びあの地獄のような宮廷に戻らなければならないのか。
アルヴィナはゆっくりと顔を上げ、冷徹な群青の瞳でレイモンドを見つめ返した。
「お断りします」
「な……何だと!?」
「私はルミナス王国から『国外追放』処分を受けた身です。貴方方自身が公式親書をもって大陸全土に通達されたはずですが? 大罪人である私が祖国の土を踏むことなど、法的に許されるはずがありません。お引き取りください」
アルヴィナの氷のように冷たく、完璧な論理に基づいた拒絶に、レイモンドの顔が怒りと屈辱、そして逃れようのない恐怖によって青黒く歪んでいった。
よろしければ評価・リアクションお願いします。




