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第一部 第二章「8年前の春」第三話

寮は事務所から歩いて十分のところにある、古いマンションだった。


六階建ての四階に、クロスロードが借り上げている部屋が四つ並んでいる。401が聖、402が律、403が海斗、404が透。廊下を挟んで向かいに共用のキッチンとリビングがあって、風呂とトイレは各部屋についていた。


律の部屋は六畳一間で、ベッドと机と小さなクローゼットだけがある。窓から見える景色は隣のビルの壁だ。仙台の実家の部屋より狭い。それでも律はこの部屋が、初日から好きだった。


ここが、自分の場所だと思えた。


寮生活が始まって最初の一週間、四人の関係はまだぎこちない。


レッスンは一緒に受けるけど、それ以外の時間は各自部屋にいることが多かった。共用のリビングで顔を合わせても、会話はいつも短くて、沈黙の方が長かった。


海斗だけは律の部屋によく来た。特に用事があるわけでもなく、ドアをノックして「暇?」と言って入ってくる。律は暇じゃないときも「まあ」と答えてしまうのが癖になりつつあった。


透はリビングに来ても基本的に黙っていた。自分のコップでお茶を飲んで、誰とも目を合わせないまま部屋に戻っていく。律は最初のうち、透が自分のことを嫌いなのかと思っていた。でも嫌いな人間のいる場所にわざわざ来るだろうか、と考えると、よくわからなくなった。


一番距離感が読めないのは聖だった。リビングにいるときは静かにコーヒーを飲んでいて、話しかければ答えるけど自分からは喋らない。それなのに律が気づかないうちに、さりげなく何かをしてくれていることがある。リビングのテーブルに律の好きそうなお菓子が置いてあったり、律が忘れていったスタジオのタオルが部屋の前に畳んで置いてあったり。


誰がやったか聞いたら、聖は「さあ」と言うが、律にはわかっていた。


寮生活十日目の夜、共用のリビングで事件が起きた。


といっても大した事件ではない。律がカップラーメンを作ろうとしてお湯を入れすぎて、テーブルにこぼしてしまっただけのことだ。


「あ、やば!」


律は慌ててティッシュを取ろうとして、立ち上がりざまに椅子を倒した。がたん、という音が廊下まで響いたらしく、すぐに海斗が部屋から顔を出した。


「何の音?」


「ごめん、お湯こぼしただけ」


「あー」


海斗はキッチンからタオルを持ってきて、律が何か言う前に拭き始めた。律が「俺がやる」と言っても、「いいよ別に」と言うだけで手を止めない。そういうところが海斗らしかった。


そのとき透も部屋から出てきた。音で起きたのか、それとも元々起きていたのか、よくわからない。リビングの惨状を一瞥して、無言でキッチンに向かい、新しいタオルを持って戻ってきた。そのまま何も言わずに反対側から拭き始める。


「透、いいって」と律は言った。


透は答えなかった。ただ黙って、丁寧に拭いた。


三人でテーブルを拭いていると、今度は聖が部屋から出てきた。状況を把握するのに二秒もかからなかったと思う。聖はキッチンに向かって、戻ってきたとき手に持っていたのは新しいカップラーメンだった。律の前にそっと置く。


「え、聖さんのじゃないですか」


「買えばいい」


それだけ言って、聖は自分のコーヒーを取りに戻った。律は聖に対して思わず「ですます」で話していることに気づいたが、訂正できなかった。


四人でリビングのソファに座った。


律がカップラーメンを食べて、海斗がお茶を飲んで、透が窓の外を眺めて、聖がコーヒーを飲んでいる。誰も何も言わない。でもそれまでの沈黙とは、何かが違う気がした。部屋にひとりでいるときの静けさとは、全然別物だった。


「俺さ」と律は麺をすすりながら言った。「仙台にいたとき、友達に笑われたんだよね。アイドルになるとか言って、って」


誰も何も言わなかった。続きを待っていた。


「でも別に、気にしなかった。だってなるもん、って思ってたから」


「単純だな」と海斗が言った。


「そう?」


「悪い意味じゃなくて」海斗はお茶のコップを両手で持ちながら続けた。「俺なんか、なんとなくここにいるから。律みたいにはっきりしてる方がすごいと思う」


律は少し驚いた。海斗がそんなことを言うとは思っていなかった。


「海斗は、なんでアイドルやろうと思ったの」


「思ってないよ、まだ」


「え?」


「向いてるかもって言われたから来ただけ。やりたいかどうかは、まだわからない」


正直な答えだった。律はしばらく考えてから口を開いた。


「じゃあ一緒に、やりたいって思えるようになろう」


海斗が律を見た。何か言いたそうな顔をして、でも結局「お前ほんと単純だな」とだけ言った。


「うるさい」


海斗が笑った。律も笑った。


透がそのやりとりをじっと見ていた。何を思っているのかはわからない。ただ、部屋に戻ろうとはしなかった。


聖はコーヒーを飲みながら窓の外を見ていた。その横顔はいつも通り穏やかで、でもどこか違う色を持っていた。律にはまだ、その色の名前がわからなかった。


__その夜から、リビングに四人が集まることが増えていった。


大した理由はない。ただ、誰かがいるとわかっている場所に、自然と足が向くようになっていく。それだけのことなのに、律には毎晩、寮に帰るのが楽しみだった。


海斗は相変わらず律の部屋によく来る。透はリビングで黙っていることが多いけど、帰る頻度は減っていった。聖はコーヒーを飲みながら本を読んでいることが多いけど、律が話しかけると必ず答えてくれる。


四人がQUARTZになっていく、最初の時間だった。


律はそのことを、このときはまだうまく言葉にできなかった。でも毎晩眠りにつくとき、悪くないな、とだけ思っていた。

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