第一部 第二章「8年前の春」第四話
レッスンが始まって三週間が経つころには、桐島の指導が何を求めているのかが少しずつわかってきた。
桐島は褒めない。ただ、ダメなところだけを的確に言う。「腕が死んでる」「リズムが後ろにある」「顔が嘘をついてる」。短くて、容赦がなくて、でも的外れなことは一度も言わなかった。律はそれが、嫌いじゃなかった。
問題は、四人のレベルがばらばらだということだった。
海斗はダンス経験が長いぶん基礎が安定していて、新しい振り付けを覚えるのが早い。透は動きに無駄がなくて、一度覚えたものを忘れない。聖は経験者らしい安定感があって、全体のバランスを見る目がある。
律だけが、明らかに遅れていた。
独学で覚えた癖が体に染み付いていて、それを修正するのに人より時間がかかる。頭でわかっていても体がついてこない。悔しいというより、もどかしかった。わかっているのに、できない。そのもどかしさが、レッスンのたびに積み重なっていった。
その日のレッスンは、二時間経っても同じ箇所を繰り返していた。
八小節のフレーズで、律だけが何度やってもタイミングが合わない。桐島は何も言わなかった。ただ律が終わるたびに、もう一度、と言うだけだった。
五回目が終わったとき、海斗がため息をついた。
小さなため息だった。本人は気づいていないかもしれない。でも律には聞こえた。
六回目。
また合わなかった。
「もう一度」
桐島の声に、律は頷いた。でも頭の中で、海斗のため息が繰り返されていた。
七回目が終わったとき、桐島が「今日はここまで」と言った。
律はその場に膝をついた。体が限界だったわけじゃない。ただ、立っていたくなかった。
スタジオを出ると、外はもう暗くなっていた。
四人で寮に向かう道は、いつもより静かだった。律は少し後ろを歩いた。前を歩く三人の背中を見ながら、頭の中がうまく整理できないでいた。
悔しい。それは確かだ。でもそれより、海斗のため息が引っかかって離れなかった。
俺のせいで、時間を無駄にさせているんだろうか。
「律」
聖が立ち止まって振り返った。
「何してる」
「・・・歩いてる」
「遅い」
「ごめん」
聖は何も言わずに律の隣まで戻ってきた。並んで歩き始める。前を行く海斗と透との距離が、少し開いていた。
「_落ち込んでるのか」と聖が静かに言った。
「落ち込んでない」
「嘘をつくな」
律は少し黙った。
「海斗のため息、聞こえた」
聖はすぐには答えなかった。しばらく歩いてから「聞こえてたのか」と言った。
「うん」
「あいつに聞いたか」
「聞いてない」
「なんで」
「聞きづらい」
また沈黙が続いた。二人の足音だけが、夜の道に響いていた。
「俺も昔、足を引っ張ってると思ってた時期がある」と聖が言った。
律は聖を見た。聖は前を向いたままだった。
「リフレインにいたとき。他のメンバーより覚えが遅くて、練習を長引かせることがよくあった」
「それで、どうしたんですか」
聖は律を見た。また「ですます」になっていることに、律自身が気づいていた。でも聖は訂正しなかった。
「続けた。それだけだ」
「それだけ?」
「それだけじゃ足りないか」
律は少し考えた。
「足りる、かな」
「足りる」と聖は言った。迷いのない声だった。「うまくなれば、全部解決する。今できないことは、明日できるようになればいい」
律は前を向いた。
海斗と透の背中が、まだ先を歩いていた。
「聖さん」
「うん」
「ありがとうございます」
聖は答えなかった。ただ少しだけ歩く速度を上げた。律もそれに合わせた。
寮に戻ると、海斗がリビングのソファに転がっていた。
律は少し迷ってから、海斗の向かいに座った。
「なあ」
「ん」と海斗はスマートフォンを見たまま言った。
「今日のレッスン、俺のせいで長引いてごめん」
海斗はスマートフォンから目を離した。律を見た。
「え。何それ」
「ため息、聞こえてたから」
海斗は少し黙った。それからゆっくり起き上がって、律と向かい合った。
「あのため息はさ」と海斗は言った。「お前に向けたわけじゃない」
「え」
「桐島に向けた。あの人、もう少しうまく教えられないのかなって思って」
律は少し呆気に取られた。
「桐島に?」
「そう。お前が悪いんじゃなくて、教え方の問題じゃんって。繰り返させるだけじゃなくてさ、もっと別のアプローチがあるだろって」
律はしばらく何も言えなかった。
「俺てっきり、足引っ張ってるって思われてると」
「思ってない」と海斗はあっさり言った。「つーか律、お前毎回一番必死じゃん。それ見てて思ったことないわ、そんなこと」
律は視線を落とした。
胸の中で、何かがほどけていく感じがした。
「海斗!」
「うん」
「俺、絶対うまくなる!」
「知ってる」と海斗は言った。またスマートフォンに視線を戻しながら。「お前がうまくならなかったら、誰がうまくなるんだよ笑」
それだけだった。
でも律には、それで十分だった。
その夜、律は部屋に戻ってから一時間、ひとりで八小節を繰り返した。
誰も見ていない。桐島もいない。ただ鏡の前で、何度も何度も繰り返した。
二十回目を過ぎたころ、少しだけ、タイミングが合った気がした。
気のせいかもしれない。でも律は小さく「よっしゃ」と呟いた。
仙台では、毎晩こうやって練習していた。あのころと何も変わっていない。場所が変わっただけで、自分は何も変わっていない。
それが、妙に嬉しかった。




