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第一部 第二章「8年前の春」第二話

レッスン初日は、その日の木曜日だった。


事務所の地下にあるスタジオは、思っていたより広かった。鏡張りの壁、フローリングの床、隅に積まれたスピーカー。天井の蛍光灯が少し古くて、端の方が微妙にちらついていた。それでも律には、十分すぎるくらいの場所に見えた。


四人でスタジオに入ると、すでにインストラクターが待っていた。三十代くらいの男性で、体つきからして只者じゃないのがわかった。


「担当の桐島です。よろしく」


それだけ言って、桐島はすぐに動き始めた。


「まず全員、基礎を見せてもらう。順番に踊れ」


準備運動もなかった。律は少し戸惑ったけど、一番最初に手を挙げた。


曲が流れた。律は踊った。うまくはなかった。独学で覚えた動きには癖があって、体の使い方が効率的じゃなかった。でも律は知っている限りの全力を出した。


踊り終えたが、桐島は何も言わなかった。


次に海斗が踊った。さすがにダンス経験が長いだけあって、体の使い方が綺麗だった。でもどこか丁寧すぎて、感情が薄い気がした。


透が踊った。動きは最小限で、表情も変わらなかった。でも不思議と目が離せなかった。


聖が踊った。経験者らしい安定感があった。でも律には、聖が少しだけ手を抜いているように見えた。


四人が踊り終えると、桐島はしばらく黙っていた。


「全員下手だな」


誰も何も言わなかった。


「ただ」と桐島は続けた。視線が律に向いた。「お前だけ目が違う。下手なのに目だけは本物だ。それだけは褒めてやる」


律は何も言えなかった。


「明日から毎日来い。週三じゃ足りない」


レッスンが終わったのは夜の九時だった。


四人でスタジオを出ると、外はすっかり暗くなっていた。四月でもまだ夜は肌寒かった。


律は全身が筋肉痛になりそうなのを感じながら、自動販売機の前で足を止めた。財布を出すと、小銭が少なかった。寮の生活費を計算しながら一番安い水を買おうとしたとき、隣に誰かが来た。


聖だった。


聖は律の隣に立って、自動販売機にお金を入れた。ボタンを押して出てきたのはスポーツドリンクで、それを律に差し出した。


「え、いいですよ」と律は言った。


「いい」と聖は言った。


律は受け取った。ありがとうございます、と言った。聖は頷いただけだった。


しばらく四人で自動販売機の前に立っていた。特に誰も何も言わなかった。でも律は不思議と、この沈黙が嫌いじゃなかった。


「桐島さん、厳しいな」と海斗が言った。


「あんな言い方しなくてもいいじゃん、全員下手って」と律は言った。


「事実だろ」と透が言った。


「透、お前は傷ついてないの?」


透は少し間を置いた。


「・・・傷ついてない」


「嘘くさい」


透はそれ以上何も言わなかった。でも律には、嘘をついていることがなんとなくわかった。


「俺は傷ついた」と海斗が言った。あっさりした口調だった。「でもまあ、うまくなればいいだけじゃん」


「そうだな」と律は言った。


聖は黙って自分のコーヒーを飲んでいた。


「聖さんは?」と律は聞いた。


「何が」


「傷つきました?」


聖は少し考えてから首を小さく振り言った。


「慣れてる」


律はその言葉の重さに気づいた。慣れている、ということは、前にも同じような経験をしているということだ。聖に前のグループがあったことは事務所から聞いていた。でも詳しいことは何も知らなかった。


聞こうか、と思ったけどやめた。今日会ったばかりだった。


「俺たち、絶対うまくなろうな」と律は言った。


海斗が「そうだな」と言った。透が視線を律に向けた。聖が小さく頷いた。


夜の空気の中で、四人はしばらくそこに立っていた。


寮に戻ると、律は自分の部屋に入って床に倒れ込んだ。


天井を見上げながら、今日一日のことを頭の中でなぞった。慣れない移動、事務所のビル、会議室、スタジオ、桐島の言葉、聖のスポーツドリンク。


全員下手だな、と言われた。


でも、お前だけ目が違うとも言われた。


律は天井に向かって小さく笑った。


下手でいい。今は。うまくなればいいだけだ。


スマートフォンを手に取ると、妹からLINEが来ていた。


「今日どうだった?」


律は少し考えてから返信した。


「全員下手って言われた」


すぐに返ってきた。


「お兄ちゃん以外がね!」


律はもう一度笑った。今度はさっきより少し大きく。


仙台の空と東京の空は、同じ星が見えるんだろうか、と律はぼんやり思った。


明日もレッスンがある。


それだけで十分だった。

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