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第一部 第二章「8年前の春」第一話

春というのは、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。


蒼井律は電車の窓に額をつけて、流れていく景色を眺めていた。乗り慣れない路線だった。乗り換えを三回間違えそうになって、そのたびにスマートフォンの地図を開いた。田舎から出てきたばかりの十五歳には、東京の路線図はまだ謎解きみたいだった。


今日、初めてクロスロード・エンターテインメントの事務所に行く。


先月受けたオーディションで合格の電話をもらったとき、律は声が出なかった。嬉しいとか、驚いたとか、そういう感情より先に、ただ全身の力が抜けた。二年間、片っ端からオーディションを受け続けた。落ち続けた。それでも諦めなかったのは、中学生のころにテレビで見たアイドルのライブが頭から離れなかったからだ。あのステージに立ちたい。それだけが律を動かしていた。


電車が駅に滑り込んだ。


律は立ち上がって、リュックのショルダーを握り直した。緊張していた。でもそれより、早く行きたかった。


事務所のビルは、思っていたより小さかった。


エントランスに入ると受付の女性が「オーディション合格者の方ですか」と聞いた。律が頷くと「では四階の会議室へどうぞ」と言われた。


エレベーターを降りて会議室のドアを開けると、すでに三人いた。


ひとりは窓際に立って外を見ていた。背が高くて、落ち着いた雰囲気の男だった。律より年上に見えた。もうひとりは椅子に座ってスマートフォンを触っていて、顔が整いすぎていて思わず二度見した。最後のひとりは壁際に立って腕を組んでいた。目が細くて、クールな印象だった。


三人とも、律に気づいて視線を向けた。


「あ、えっと、蒼井律です。よろしくお願いします」


緊張で声が少し上ずった。


窓際の男が律を見た。何かを確かめるような目だった。それからゆっくり口を開いた。


「水無月聖。よろしく」


スマートフォンを触っていた男が顔を上げた。


「永瀬海斗。よろしくー」


軽い口調だった。でも律を見る目は、思ったより真剣だった。


壁際の男は少し間があってから言った。


「柊透」


それだけだった。よろしくも、何もなかった。律は少し戸惑ったけど、なんとなく悪意はない気がした。


律は空いている椅子に座った。四人で会議室にいると、静かだった。


「みんな、東京の人?」と律は聞いた。


「俺は」と海斗が言った。「律は?」


「地方から来た。・・・電車乗り間違えそうになった」


「何回?」


「三回」


海斗が笑った。声に出して笑う人だった。


「聖は?」と律は聞いた。


「東京」と聖は短く言った。


「透は?」


透は少し間を置いてから「東京」と言った。


四人でまた黙った。でもさっきより少し柔らかい沈黙だった。


十分ほどして、ドアが開いた。


担当者らしき男性スタッフが入ってきて「全員揃いましたね」と言った。律は思わず「あ、もうひとりいるんですか」と聞いた。


「今日は四人です」とスタッフは言った。「グループとしての活動は今日からになりますが、まだ正式なグループ名も決まっていません。これから一緒に作り上げていくことになります」


律は四人の顔を見渡した。


聖は静かに頷いていた。海斗は少し退屈そうな顔をしていたけど、目は真剣だった。透は相変わらず表情がなかった。


スタッフが続けた。


「皆さんには今日から週三回、この事務所でレッスンを受けてもらいます。ダンス、ボーカル、それからグループとしての基礎を一から積み上げていきます。デビューの時期は未定ですが、まずは一年後の初ライブを目標に動いていきます」


一年後。


律はその言葉を頭の中で繰り返した。一年後に初ライブ。そこから先はどうなるんだろう。どこまで行けるんだろう。


わからなかった。でもわからないことが、怖くなかった。


説明が終わって、スタッフが部屋を出た。


四人だけになった会議室に、また沈黙が戻ってきた。


律は窓の外を見た。東京の空は、地元の空より狭く見えた。ビルが多いせいだと思った。でも青さは同じだった。


「なあ」と律は言った。


三人が律を見た。


「俺たち、・・・絶対売れような」


言ってから、少し恥ずかしくなった。会ったばかりの人間にいきなり何を言っているんだと思った。でも口から出てしまったものは戻せなかった。


海斗が一番最初に口を開いた。


「いいじゃん。売れよう」


透は何も言わなかった。でも律から視線を逸らさなかった。それが透なりの返事だと、このときの律にはまだわからなかった。


聖は少し間を置いてから、律を見た。


さっきと同じ、何かを確かめるような目だった。でも今度はその目に、何か別のものが混じっていた気がした。


「ああ」と聖は言った。「売れよう」


窓から春の光が差し込んでいた。


これが、QUARTZの最初の日だった。

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