第一部 第一章「デビューの朝」第三話
会場に着いたとき、律は思わず足を止めた。
建物の外壁に、QUARTZの巨大なビジュアルが貼られていた。五人が横一列に並んだ、デビュー時の写真だった。自分たちの顔がこんなに大きく街に存在しているのを見るのは、まだ慣れなかった。
「でかいな」と海斗が隣で言った。
「でかいね」と律は言った。
「俺、やっぱ顔いいな」
「今はそこじゃない」
海斗は笑った。律も笑った。笑わないと、なんだか泣きそうだったから。
会場の中に入ると、スタッフが慌ただしく動き回っていた。照明の調整、音響のチェック、セットの最終確認。自分たちのために、こんなにたくさんの人が動いている。そのことが律には、いまだに現実感を持って受け止められなかった。
下積み時代、ライブのたびに自分たちでパイプ椅子を並べていた。音響も照明も最低限で、お客さんが来るかどうかもわからなくて、それでもステージだけは本気だった。あのころと今と、自分たちは何が変わって、何が変わっていないんだろう。
「律」
三上遥が駆け寄ってきた。黒いジャケットにインカムをつけた彼女は、いつも通り忙しそうで、いつも通り頼もしかった。
「おはようございます。体調は全員大丈夫ですか」
「大丈夫です」と律は答えた。
「陽太くん、朝ごはん食べすぎてない?」
「食べすぎてません!」
「食べすぎてました」と聖が静かに言った。
「聖さん!」
遥は苦笑しながら「リハは十二時からです。それまで楽屋で待機してください」と言った。そしてふと律だけに視線を向けて、小声で「大丈夫?」と聞いた。マネージャーとしてではなく、八年間一緒に戦ってきた人間として聞いているのが伝わった。
「大丈夫です」と律はもう一度言った。今度は本当にそう思えた。
楽屋は五人には少し狭かった。
鏡の前に椅子が並んでいて、それぞれの名前が書かれた荷物置き場があった。律は自分の席に座り、鏡の中の自分を見た。まだメイクをしていない、素の顔だった。
隣では陽太がそわそわしながらストレッチをしていた。海斗はスマートフォンを見ながら足を組んでいた。透はイヤホンをつけて目を閉じていた。本番前にいつも聴く曲があると言っていたけど、何を聴いているかは誰も知らなかった。
聖だけが律の隣に座って、静かにしていた。
「なあ」と律は鏡に向かったまま言った。
「うん」
「俺、ちゃんとリーダーできてるかな」
聖はすぐには答えなかった。律も答えを急かさなかった。
「何をもってちゃんとかは知らないけど」と聖はしばらくして言った。「お前がリーダーじゃなかったら、俺はここにいなかったと思う」
律は鏡越しに聖を見た。聖は律を見ていた。
「それって褒めてる?」
「褒めてる」
「聖に褒められるの、なんか慣れないな」
「俺はいつも褒めてる」
「全然そんな感じしないけど」
「受け取り方の問題だ」
律は笑った。聖も、ほんの少しだけ口元が緩んだ。
そのとき陽太が「りつくん聖さん何話してんの!」と割り込んできた。
「内緒」と律は言った。
「えー!」
「陽太、ストレッチちゃんとしろ」と聖が言った。
「してます!見てください!」
陽太が大げさなストレッチを始めた。海斗が「それもうダンスじゃん」と言った。透がイヤホンをつけたままひとつため息をついた。
楽屋に笑い声が広がった。
開演三十分前。
メイクと衣装が整って、五人で廊下に出た。本番前のルーティンだった。ステージの袖まで歩いて、客席の気配を感じてから戻ってくる。それだけのことだけど、これをやらないと始まらない気がした。
袖からそっと客席を覗くと、もうほとんどの席が埋まっていた。コーラルレッド、ハニーゴールド、フロストシルバー、サンシャインイエロー、トワイライトパープル。五色のペンライトが暗い客席の中で静かに揺れていた。
律は息を呑んだ。
下積み時代、客席に十人もいない夜があった。真っ暗な客席に向かって、それでも全力でステージに立った夜があった。あのとき律は、いつかこの景色を見ると信じていた。信じるしかなかった。
今、目の前にある。
「律」
海斗が隣に来た。
「見ろよ、あの紫のペンライト」
客席の中ほどに、トワイライトパープルのペンライトを両手で持って揺らしているファンがいた。
「聖のファンじゃん」
「ああいうの見ると、俺も頑張らないとなって思う」と海斗は言った。珍しく、冗談抜きの声だった。
律は頷いた。
五色のペンライトが、波のように揺れていた。あの光のひとつひとつに、QUARTZを待っている人がいる。QUARTZを選んでくれた人がいる。
律は袖を離れて、メンバーのところへ戻った。
「行こう」
五人が円になった。肩を組んで、真ん中に手を重ねた。八年間、ずっとやってきたやつだった。
「QUARTZ、行きます」と律は言った。
全員の手が、重なった。
暗転した客席から、歓声が上がった。
律は深く息を吸った。
八年分の全部を、今日ここに置いていく。
そう思ったとき、足が自然と動いていた。




