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ルデラ領の空にぽっかりと開いた光の穴から、今日もさんさんと太陽が降り注いでいる。
あの日から数日。陽光を浴びたルデラの土は、まるで長い眠りから目覚めて伸びをするかのように、爆発的な生命力を見せ始めていた。
私が浄化したのは一部の土と水だけだったはずだが、清らかな水が川を下り、栄養満点の土が風に運ばれることで、浄化の連鎖は領地全体へと波及しつつあった。
かつての荒涼とした灰色の風景はどこへやら。今では見渡す限りの青々とした草原が広がり、あちこちに可憐な野花が咲き乱れている。ルミナ芋の畑も大人たちの手で大きく拡張され、毎日籠いっぱいの収穫をもたらしてくれていた。
「んんっ、いいお天気!」
私は空色のドレスの裾を軽く持ち上げながら、館の裏庭――すっかり美しい緑の庭園へと生まれ変わった場所――で、大きく背伸びをした。
太陽の匂いがする風が、頬を撫でていく。
「カエナ。あまりはしゃぐな。埃が舞う」
ふいに、木陰から落ち着いた声が降ってきた。
振り返ると、新しく生い茂った大きなオークの木の根元に、シレンティウス様が腰を下ろして本を読んでいた。
「埃なんて、もうルデラにはありませんよ」
私がくすくす笑いながら近づくと、彼は片手で本を開いたまま、もう片方の手で自分の隣の芝生をポンポンと叩いた。座れ、という合図だ。
私は少しドキッとしながらも、彼の隣にちょこんと座った。
相変わらず彼は質素な服を着ているが、私がこっそり浄化の力をかけたおかげで、擦り切れていた袖口は直り、布地も本来の清潔な白さを取り戻している。木漏れ日を浴びる銀灰色の髪は、本物の銀糸のようにキラキラと輝いていて、思わず見惚れてしまいそうになる。
「……なんだ? 私の顔に、何かついているのか?」
視線に気づいたシレンティウス様が、本から目を離さずに尋ねた。
「いえ。……シレンティウス様も、外で本を読むようになったんだなあって、嬉しく思いまして」
「……館の中より、こっちの方が明るくて文字が読みやすいだけだ」
相変わらず素直じゃない言い訳に、私はまた内心笑ってしまった。
最近の彼は、無関心で冷たかった最初の頃が嘘のように、表情が柔らかくなっている。私が淹れたハーブティーを「美味い」と言って飲んでくれるし、難民の子供たちが庭に迷い込んできても、追い払わずに放置(彼なりの優しさだ)してくれるようになった。
「平和ですね」
私がポツリと呟くと、シレンティウス様は本を閉じて、空に開いた光の穴を見上げた。
「……そうだな。平和だ」
だが、その声のトーンは、どこか重く沈んでいた。
「しかし光は目立つ。暗闇の中に灯った唯一の明かりには、温もりを求める者だけでなく、それを奪い取ろうとする羽虫も群がってくるものだ」
「羽虫……ですか?」
「カエナ。君は、自分の起こした奇跡の『価値』を理解していない。これほど豊かで、澄み切った魔力に満ちた土地……周辺の国々が、ただ指をくわえて見ているはずがないだろう」
シレンティウス様の横顔に、かつての『番人』としての冷徹な影がよぎった。
その言葉の意味を、私が心から理解するよりも早く。
「た、大変だぁーーっ!!」
庭園の入り口から、血相を変えた難民の男性が転がり込んできた。
「シレンティウス様! カエナ様! き、来たんです、奴らが!」
「落ち着きたまえ。何が来たと?」
シレンティウス様が静かに、だが威厳のある声で問う。
「ぐ、軍隊です! 黒い鎧を着た……ヴァルスト帝国の兵士たちが、沼地を越えて、こちらへ向かってきています!!」
ヴァルスト帝国。
その名を聞いた瞬間、私の全身の血の気がサッと引いた。
私の故郷であるフローリスを焼き払い、すべてを奪い去った、あの残虐な軍事国家だ。彼らがどうしてこんなところに。
「……沼地を越えただと!? いくら毒の霧が晴れたとはいえ、あの泥の深淵は残っているはずだぞ!?」
「それが、カエナ様が土を浄化してくださった影響か、沼の毒が抜けて、ただの浅い湿地になってしまっていて……馬に乗ったまま、やすやすと突破したんだ!」
私のせいだ。
私がみんなを助けたい一心で浄化の力を広げすぎたから、ルデラを守っていた天然の要塞まで壊してしまったんだ。
ガタガタと震え出した私の肩を、大きな手が強く、それでいて優しく温かく包み込んだ。
「自分を責めるな、カエナ。君は間違ったことはしていない」
シレンティウス様だった。彼の銀灰色の瞳は、少しの揺らぎもなく真っ直ぐに前を見据えていた。
「来るべき時が、少し早まっただけ。……私が行こう。君はここにいなさい」
「だ、駄目です! ヴァルストの兵士は血も涙もありません。丸腰で行ったら、殺されてしまいます!」
私は彼の手を両手で強く握りしめた。
「私も行きます。私のせいで皆を危険に晒したんです。それに……私なら、また泥の結界を作れるかもしれない……!」
シレンティウス様は私の目を見つめ返し、やがて短く息を吐いた。
「……君のその頑固さには、本当に敵わないな。ならば、私の後ろから絶対に離れるな。いいな?」
「はい……!」
私たちは急いで庭園を抜け、領地の境界線――かつて底なしの沼地だった場所へと向かった。しかし不思議なことに、歩いて向かったはずなのに、わずか数歩で目的地に着いてしまった。少し違和感を抱く程度だった。
そこに広がっていた光景に、私は息を呑んだ。
清らかな湿地帯を踏み荒らし、数十騎もの黒鎧の騎馬兵が、ずらりと横一列に並んでいたのだ。軍旗には、ヴァルスト帝国の象徴である血塗られた双頭の鷲が描かれている。
その圧倒的な暴力の気配に、難民の皆は恐怖で身を寄せ合い、ガタガタと震えていた。パルも、母親の腕の中で泣きじゃくっている。
「はっ! これが『世界の掃き溜め』だと? 笑わせる!」
部隊の先頭にいる、ひときわ豪華な鎧を着た隊長らしき男が、馬の上から傲慢に笑い声を上げた。
「肥沃な土、豊富な水源。まさに宝の山ではないか! おい、そこの薄汚い難民ども! この土地は偉大なるヴァルスト帝国の領土だ! 貴様らは、我が国の領地を不法に占拠している。速やかに退去するか、我が国の奴隷として死ぬまで畑を耕すか、どちらかを今すぐ選べ! 逆らえばこの場で処刑する」
男の非情な宣告に、難民たちから絶望の悲鳴が上がる。
まただ。また、こうやって理不尽な暴力が、私たちの居場所と、ささやかな幸せを奪っていくのだ。
「カエナ様……っ」
パルが、私を見つけてすがるような声を上げた。
その声に反応したのか、隊長の男が鋭い視線をこちらへと向けた。そして、空色のドレスを着た私の姿を捉えるなり、下品な笑みを浮かべた。
「ほう……。こんな掃き溜めに、ずいぶんと上等な女がいるではないか。おい、お前! 俺の夜伽の相手として召し抱えてやろう。大人しくこちらへ来い!」
男が顎でしゃくると、数人の兵士が馬を降り、下卑た笑いを浮かべながら私に向かって歩み寄ってきた。
「や、やめて……っ!」
私が後ずさりした、その瞬間。
「――私の許可なく、私のものに触れるな」
それは、魂まで凍りそうなほど恐ろしい声が響き渡った。
私の前に、一人の男が立ち塞がる。
銀灰色の髪を風に揺らし、ただの質素な服を着ただけの、丸腰のシレンティウス様だ。
「あぁ? なんだ貴様は。命が惜しくば引っ込んでいろ!」
兵士の一人が剣を抜き、シレンティウス様に向かって斬りかかろうとした。
「シレンティウス様っ!」
私が悲鳴を上げた、次の瞬間だった。
『――跪け』
シレンティウス様が、ただ一言、低く呟いた。
その瞬間、世界から一切の「音」が消え去った。
風の音も、馬のいななきも、兵士の足音も。圧倒的な『静寂』が、物理的な重量を伴って空間を押しつぶしたのだ。
「……ガッ……!?」
斬りかかろうとしていた兵士たちが、まるで目に見えない巨人に頭を押さえつけられたかのように、次々と地面に這いつくばった。
それだけではない。馬に乗っていた隊長や他の兵士たちも、馬の脚がガクガクと折れ曲がり、全員が泥水の中に無様に引きずり落とされたのだ。
「な、なんだこれは……! 体が、動か、ない……っ!」
隊長が泥に顔を押し付けられながら、恐怖に見開かれた目でシレンティウス様を睨み上げる。
「私はシレンティウス。このルデラ領の領主であり……この地の『番人』だ」
シレンティウス様は、地面にひれ伏す黒鎧の兵士たちを、虫けらでも見るかのような冷徹な瞳で見下ろしていた。
「私はこれまで、他国の者には一切の干渉をしてこなかった。ここがゴミ捨て場である限り、守る価値など何一つなかったからだ。……だが」
彼は少しだけ振り返り、背後でへたり込んでいる私を、優しく、本当に愛おしそうな目で見つめた。
「今は違う。この地には、新たに守るべき光ができた。私が愛おしいと思う、領民たちがいる」
再び前を向いた彼の全身から、恐ろしいほどの魔力が立ち昇った。それは私の青白い浄化の光とは対極の、すべてを押しつぶすような圧倒的な『重力』と『沈黙』の魔力だった。
「私の領地を荒らす者には、等しく『沈黙』の罰を与えよう。……二度と、私の領土に足を踏み入れるな。次は魂がないと思え」
シレンティウス様が指先を軽く弾く。
すると、兵士たちを押し潰していた重圧が、まるで嵐のように横方向へと吹き荒れた。
「ぎゃあああっ!!」
数十人の重武装の兵士と馬が、まるで枯れ葉のように空中に巻き上げられ、領地の境界線の遥か向こう――猛毒の霧のさらに外側へと、一瞬にして吹き飛ばされていってしまった。
後には、静けさと、誰一人傷ついていない平和な草原だけが残された。吹き飛ばされた彼が本当に無事かどうかは不明だ。
「……」
あまりの出来事に、難民の皆も、私も、声を発することすらできなかった。
軍隊を持たず、本ばかり読んでいる、無関心で無力な領主。
それが私たちの認識だった。だが、違ったのだ。彼はたった一人で軍隊を壊滅させられるほどの、桁外れの魔法の使い手だった。だからこそ、彼はこの『世界の掃き溜め』をたった一人で管理する番人を任されていたのだと悟った。
「カエナ。怪我はないか?」
静寂を破ったのは、いつもの穏やかな、少しぶっきらぼうなシレンティウス様の声だった。
振り返った彼は、先ほどの恐ろしい魔力を微塵も感じさせない、ただの不器用な、いつもの顔に戻っていた。
「……シレンティウス、様……っ」
張り詰めていた糸が切れ、私は彼の胸に飛び込んでしまった。
「怖かった……! また、みんなの居場所が奪われちゃうかと思って……」
私の震える背中を、彼の手がぎこちなく、けれどしっかりと抱きとめてくれた。
「すまなかったな。怖い思いをさせて。……だが、もう安心しろ」
彼の低い声が、頭上から降ってくる。
「君がこの地を美しく浄化したのなら、それに群がる害虫を払うのは、領主である私の役目だろう。……私はもう、目を逸らさない。君が作ってくれたこの聖域を、私が必ず守り抜く」
その頼もしい言葉に、難民の皆から、わぁっ!と割れんばかりの歓声が上がった。
「シレンティウス様、万歳!」
「カエナ様、万歳! 我らの聖域、万歳!」
皆の喜ぶ声を聞きながら、私はシレンティウス様の胸の中で、涙でぐしゃぐしゃになった顔をこすりつけた。
彼の胸からは、やはり古い紙の匂いと、太陽の温かい匂いがした。
平和は永遠ではないかもしれない。
ヴァルスト帝国は、またもっと大きな軍隊を送ってくるかもしれない。
けれど、今の私には恐れはなかった。
絶望を希望に変える、私の「浄化」の力。
そして、その希望を外敵から守り抜く、彼の「沈黙」の力。
私たちが一緒にいれば、このボロボロだった領地は、誰にも侵されない本物の『聖域』になれると、確信できたからだ。
「……シレンティウス様」
「なんだ?」
「お洋服、泥が跳ねちゃいましたね。後でまた、綺麗に浄化しておきますから」
「……ああ。頼む」
私の胸の中で、小さな、けれど確かな恋の芽が、太陽の光を浴びてパッと花開いた気がした。




