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ルミナ芋の豊作から、およそ二週間が経過した。
ルデラ領の景色は、あの日を境に劇的な変化を遂げている。
かつては悪臭を放つヘドロだった川は、今や私が浄化したことで、川底の白い小石がキラキラと透けて見える清流へと姿を変えた。水辺には浄化の余波で青々とした草花が芽吹き、小さな白い花すら咲かせ始めている。
難民の皆さんも、すっかり見違えるほど元気になった。ルミナ芋や川辺に芽吹き始めた野草などで、様々な工夫を凝らしたり、清らかな水で体を洗った彼らの目には、かつての虚ろな絶望はもうない。パルをはじめとする子供たちは川べりを元気に走り回り、大人たちは朽ちた倒木を組み合わせて、雨風をしのげるしっかりとした小屋を建て始めていた。
ここが『世界の掃き溜め』と呼ばれていたなんて、今では誰も信じないだろう。
「カエナ様! 今日も芋の葉っぱが元気だよ!」
「おはよう、パル。お水汲み、手伝ってくれてありがとうね」
朝の日課である川の浄化を終えた私に、パルが満面の笑みで駆け寄ってくる。私は彼が運んできた水桶を受け取り、ふうっと小さく息をついた。
体調はすこぶる良い。領地が綺麗になればなるほど、そして皆の笑顔が増えるほど不思議と力が湧いてくるのだ。教会は人々の信仰心こそ、聖女の力の源だといつも街で説いていた。今ならそう思える。私の胸の奥にある魔力の泉もこんこんと湧き出しているような気がしてならない。
ただ、一つだけ問題があるとすれば。
「……カエナ。君は、いつまでそのボロ布を纏っているつもりだ」
背後から響いた呆れ声に、私はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、日課の読書を何故か切り上げて散歩に出てきたらしいシレンティウス様が、私の姿を上から下まで、ひどく渋い顔で見下ろしていた。
「ぼ、ボロ布だなんて失礼な! 浄化の力で、汚れも匂いも全くありませんよ!」
「清潔かどうかの話をしているのではない。物理的な限界の話だぞ?」
シレンティウス様の細く長い指先が、私のドレスの裾を指し示した。
言われてみれば、確かに限界を超えていた。
戦火を逃れ、死の沼地を這いつくばって越えてきた私のドレスは、元々は淡いピンク色だったはずだが、今ではすり切れ、あちこちが破れてツギハギだらけになっている。いくら汚れを落としても、生地のほつれまでは直せないのだ。
「それは……その通りですけれど。でも、ここには服屋さんなんてありませんし、着られるだけマシですから」
「その……なんだ。私が……いや、皆が気にする。……そう!私の視界の端で、領主よりもみすぼらしい格好でチョロチョロされると、本を読む集中力が削がれるのだ」
「もう、相変わらず素直じゃない言い方ですね」
私がくすくすと笑うと、彼はふいっと視線を逸らした。
「ついてこい。……君はもう、皆の希望になっているんだ。それに、風邪でも引かれて浄化が止まったら、またあの悪臭の中で暮らす羽目になるからな。皆はそれは避けたいだろう。君の始めたことだ。責任が生じている」
言い訳のように呟きながら、彼は館の方へと歩き出した。
連れて行かれたのは、例のルミナ芋の種を見つけた地下貯蔵庫の、さらに奥にある魔法の隠し部屋だった。
重厚な樫の木の扉をシレンティウス様が半透明の輝く鍵で開けると、そこにはいくつもの大きな衣装箱が整然と並べられていた。
「ここは……?」
「ルデラがまだ『廃墟』ではなかった頃の、領主一族の遺物だ。……私の母や、その前の代の女たちが残していったものが入っているはずだ」
シレンティウス様はそう言うと、一番手前にあった豪奢な細工の衣装箱の蓋を開けた。
中には、絹やビロードで仕立てられた、目を見張るような美しいドレスの数々が眠っていた。防虫の香が焚き染められていたのか、カビてはいないものの、長い年月のせいで色褪せ、埃っぽい匂いが染み付いている。
「なんだ、その……好きなものを選べ。君の浄化の力なら、新品同様に戻せるだろう。たぶん」
「こんなに高価なもの、私が着てもいいんですか? これは、シレンティウス様のご家族の……大切な品では」
「別に大切になどしていない。着る者がいなければ、ただの布の塊だ」
彼は冷たく言い放ったが、その瞳の奥には、わずかな寂寥の色が揺れているように見えた。彼はこの館で、たった一人で、過去の遺物と共にどれほどの時間を過ごしてきたのだろう。
私は胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じながら、箱の中から一着のドレスを取り出した。
それは夜明けの空のような、淡く美しい空色のドレスだった。過度な装飾はなく、動きやすそうでありながら、上品な刺繍が裾に施されている。
「これにします」
「……ああ。それか……」
シレンティウス様は一瞬、何かを言いかけて口をつぐみ、「好きにしろ」とだけ短く答えた。
私はドレスを胸に抱き、浄化の力を流し込んだ。
トクン、という鼓動と共に青白い光が布地を包み込む。数百年分の埃とくすみが嘘のように消え去り、絹の滑らかな艶と、空色の鮮やかな色彩が完璧に蘇った。
「着替えてきますね!」
私は足早に自分の部屋に戻り、急いでボロボロの服を脱いで、真新しい(ように見える)ドレスに袖を通した。
サイズは驚くほどぴったりだった。鏡がないので自分ではよく分からないが、少なくともさっきまでの難民のような姿よりは、ずっとマシになったはずだ。
少しだけ緊張しながら、私は一階の書斎へと向かった。
「あの、シレンティウス様。着替えてみました」
控えめに声をかけると、また本を読んでいた彼がゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、彼の銀灰色の瞳が、大きく見開かれた。
本を握る彼の手がピタリと止まり、瞬きすら忘れたかのように、ただじっと私を見つめている。
「……えっと、おかしいですか? やっぱり、私みたいな町娘には、貴族のドレスは似合わないですよね……」
居心地が悪くなって俯くと、シレンティウス様は慌てたようにコホンと咳払いをした。
「……いや。似合っていないわけでは……ない」
彼の声は、いつもより少しだけ低く、掠れていた。
「ただ、その……。あまりにも、見違えたからだ。……いや悪くない。ルデラの風景には、そのくらい澄んだ色の方がよく映えるかもな」
彼は言い訳のように早口でまくしたてると、バンッと音を立てて本で自分の顔を半分隠してしまった。だが、本から覗く彼の耳たぶが、微かに赤く染まっているのを、私は見逃さなかった。
(……ふふっ、可愛いところもあるんだから)
温かい気持ちに包まれていた、その時だった。
館の外から、大人たちの騒がしい声が聞こえてきた。
「おい、あれを見ろ!」
「空が……霧が……!」
何事かと、私とシレンティウス様の顔を見て、急いで外へ飛び出した。
声の出処は、ルデラ領の境界線を覆っている、あの紫色の『猛毒の霧』の近くだった。人々が不安げに空を見上げている。
私も彼らの視線の先を追って、息を呑んだ。
領地を完全に囲み、外の世界の光を遮断していた分厚い毒の霧が、一部だけ、薄く透け始めているのだ。
「カエナ、あれは君が?」
シレンティウス様が鋭い声で問う。
「分かりません。でも……きっと、領地全体の毒素が減ったから、結界のような霧の力も弱まっているんだと思います」
水が綺麗になり、土が豊かになり、緑が育ち始めたことで、ルデラ領そのものの『穢れ』の総量が激減しているのだ。
私は自然と、霧の薄くなっている方向へと歩き出していた。
「おい、どこへ行く? 近づくな、霧の毒は強力だぞ?」
シレンティウス様が私の腕を掴んで引き止めようとする。
「大丈夫です。私、なんだか今なら……あの霧を、払える気がするんです」
根拠のない自信だった。けれど、私の体の中で脈打つ魔力が、外の光を求めてうずうずと騒いでいるのを感じていた。
私は彼の手をそっと外し、霧の境界線――かつて私が死に物狂いで越えてきた場所の、ほんの数歩手前まで進み出た。
すぐ目の前で、禍々しい紫色の霧がうねっている。触れれば肺が焼け焦げる、死の障壁。
私は深く息を吸い込み、両手を天に向かって高く掲げた。
(開け――!!)
胸の奥で、これまでで最大の魔力が爆発した。
私の全身から、強烈な青白い光の柱が立ち昇り、それは物理的な衝撃波となって、眼前の紫の霧へと叩きつけられた。
「カエナ……」
シレンティウス様の声が聞こえた直後、私の視界は真っ白な閃光に包まれた。
ジリジリと毒素が焼き尽くされる音。空気を震わせるような轟音。
私は歯を食いしばり、光を放ち続けた。腕がちぎれそうになっても、絶対に引かない。この領地に、この暗い掃き溜めに、光を。
やがて。
パァンッ! と、ガラスが割れるような甲高い音が響き渡った。
光が収まり、私がゆっくりと目を開けると。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「……あぁ」
声にならない吐息が漏れる。
厚く立ち込めていた紫の霧が、私たちがいる上空を中心にして、ぽっかりと巨大な円を描くように消え去っていたのだ。
そして、その『穴』から。
何百年もの間、このルデラ領に届くことのなかったであろう、眩いほどの黄金色の『太陽の光』が、まっすぐに降り注いできたのだ。
陽光は、浄化された澄んだ川の水面を乱反射させ、青々と茂る草葉を黄金に輝かせた。
灰色の絶望に包まれていた世界が、一瞬にして、極彩色の美しい光の世界へと塗り替えられていく。
「お、お天道様だ……!」
「光だ、あったけぇ……神様、太陽の光だ……!!」
難民の大人たちも、子供たちも、陽光をその身に浴びて、抱き合いながら歓喜の声を上げて泣き崩れた。
私も、暖かな太陽の熱を頬に感じながら、涙で視界を滲ませた。
「……本当に、君というやつは……」
瞬間移動でもしたかのように、シレンティウス様が私の隣に立っていた。
彼は眩しそうに目を細め、数百年ぶりの太陽を見上げている。その横顔は、私がこの館に来てから見た、どの表情よりも穏やかで、そして――美しかった。
「やれやれ、やり遂げてしまったな。ルデラの空を、開けてしまったか」
「はい……。これで、みんなお日様の下で暮らせます」
私が微笑むと、彼は不意に、大きな手で私の頭をぽん、と撫でた。
「あぁ……まあ、よくやった。……私の領地を、綺麗にしてくれてありがとう」
それは、ただの無関心な領主ではなく、この地を治める本物の領主としての、心からの感謝の言葉のようだった。
その言葉の温かさに、私はたまらず彼の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いてしまった。シレンティウス様は、驚きながらも私を突き放すことはせず、不器用な手つきで私の背中を優しく撫でてくれた。
ルデラ領は、もう『世界の掃き溜め』ではない。
ここは、太陽の祝福を受けた、清らかな聖域へと生まれ変わったのだ。
――しかし。
光があるところには、必ず影が落ちる。
ルデラ領を覆う毒の霧が一部晴れ、天を貫くような光の柱が立ち昇った光景は、ルデラ領の内側だけでなく、外の世界からもはっきりと目撃されていた。
隣国・軍事国家ヴァルストの国境警備隊。
死の沼地の向こう側で、馬に跨った黒鎧の騎士が、望遠鏡越しにその信じがたい奇跡の光景を凝視していた。
「……あり得ん。忌むべき死の土地、ルデラの霧が晴れただと?」
騎士の目が、欲望と驚愕に見開かれる。
毒の霧の向こう側にチラリと見えたのは廃墟などではない。豊かな緑と、清らかな水。そして、黄金の光に包まれた、まるで神話の聖域のような美しい土地。
「至急、王都へ伝令を走らせろ!」
騎士は背後の部下に怒鳴った。
「神に見捨てられた領地が、莫大な価値を持つ『祝福の地』へと変貌している! ……先を越される前に、我が国が神の慈愛を独占するのだ!」
平和な日常を手に入れたばかりのカエナたちの知らないところで、世界は確実に、この小さな『聖域』を巡って動き出そうとしていた。




