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ふかふかの、とまではいかないけれど、背中を刺す小石も、底冷えする泥の感触もない、簡素で平らなベッド。
館の二階にある空き室を一つあてがわれた私は、数週間ぶりに「屋根の下」で朝の光を迎えた。
シレンティウス様から許可をもらった昨日の午後、私は大急ぎでこの部屋の埃を払い、窓ガラスを磨き上げた。私の浄化の力は、汚れを落とすだけでなく、空間そのものの淀んだ空気まで清浄にしてくれるようだ。おかげで、長年放置されていたはずの部屋は、まるで日当たりの良い森の中にいるような、澄み切った空気に満たされていた。
「……よしっ、今日も頑張ろう」
私は大きく伸びをしてベッドから抜け出すと、井戸――これも昨日、浄化の力を注ぎ込んで、毒水から清らかな地下水へと変えておいた――で顔を洗い、身支度を整えた。
一階へ降りると、書斎の扉は少しだけ開いていた。
隙間から覗き込むと、シレンティウス様は昨日と全く同じ椅子で、全く同じように本を読んでいる。ひょっとしてこの人は、寝る時も本を手放さないのだろうか。それとも寝てない?
「おはようございます、シレンティウス様。……昨夜は、ちゃんとベッドで眠られましたか?」
私が苦笑しながら声をかけると、彼はページから視線を外さずに「……私の睡眠習慣は、この領地の存亡には関わらない」と、相変わらず可愛気のない返事をしてきた。
「それに、君が勝手に台所や廊下を歩き回って『浄化』などという真似をしたせいで、空気が妙に軽くて落ち着かない。……長年慣れ親しんだルデラの埃っぽさが、少し恋しいくらいだ」
「それは強がりというものです。咳払いの回数、昨日よりずっと減っているじゃないですか」
「…………」
やれやれとした視線のような、彼は無言でそのまま本に視線を戻した。
そんな彼のそっけない態度も、今ではなんだか少し愛おしく感じられる。私はクスリと笑ってから、館の外へと足を踏み出した。
今日の目標は、昨日と同じく難民の皆さんに綺麗なお水を配ることだ。
館の敷地を出て川べりへ向かうと、そこにはすでに、空の器を持った人々の列ができていた。皆、私の姿を見るなり、縋るような、それでいて深い敬意を込めた眼差しを向けてくる。
「聖女様、おはようございます」
「今日もどうか、その奇跡のお水を……」
いつの間にか、私は『聖女』などという大層な呼ばれ方をするようになっていた。フローリスのしがない町娘だった私が聖女だなんて、おこがましいにも程がある。
「聖女だなんて呼ばないでください。私はカエナです。お水はたくさんありますから、慌てずに並んでくださいね」
私は川岸にしゃがみ込み、水面に向かって両手をかざした。
トクン、と胸の奥で魔力が脈打ち、手のひらから青白い光が溢れる。あっという間に川のヘドロが分解され、底の小石が透き通るほどの清らかな水が広がっていった。
人々の器に順番に水を注いでいく。水を飲んだ人々の顔には、確かな生気が戻りつつあった。
しかし。
昨日初めて私から水を飲んだ、あの痩せこけた少年――名前をパルと教えてくれた――に水を渡した時のことだ。
きゅるるる……。
パルが水を飲み干した瞬間、彼のお腹から、ひどく大きくて、悲痛な音が鳴った。
パルだけではない。水を飲んで落ち着きを取り戻した周囲の大人たちからも、同じように空腹を訴える音が聞こえてくる。
「……ごめんね、聖女様。お水、とっても美味しいんだけど……でも、お腹が空いちゃって」
パルは恥ずかしそうに下を向いた。
どんなに水が綺麗になっても、人間は水だけでは生きていけない。
このルデラ領には、食べ物が殆ど何もないのだ。草木は枯れ果て、動物の姿もなく、土壌は猛毒を含んだ泥に覆われている。外の世界から商人が来ることも絶対にない。
水によって『今すぐ死ぬ』という状況から脱したからこそ、彼らの身体は次なる生命の維持――つまり『食糧』を強烈に求め始めていたのだ。
「……待っていて。私、なんとかしてみるから」
私はパルの頭を撫でると、空の器を抱えたまま、足早に館へと引き返した。
書斎の扉を勢いよく開けると、シレンティウス様がわずかに眉をひそめた。
「シレンティウス様! 種は……種はありませんか!?」
「……朝から騒々しい。種だと?」
「はい! 野菜でも、麦でも、なんでもいいんです。食べ物を育てないと、みんな餓死してしまいます!」
私の必死な訴えに、シレンティウス様は本を閉じ、深くため息をついた。
「カエナ。ここはルデラだと言ったはずだ。見渡す限りの毒の土壌で、何が育つというのだ。仮に種があったとしても、発芽する前に土の毒素で腐り落ちるのが関の山だ」
「土の毒なら、私が抜きます! お水を綺麗にできたんです、土だって絶対に浄化できるはずです」
私が一歩も引かない姿勢を見せると、シレンティウス様はしばらく私の目を見つめ返し……やがて、諦めたように立ち上がった。
「……ついてこい」
彼に案内されたのは、館の地下にある、冷たく湿った貯蔵庫だった。
埃まみれの木箱や、錆びついた武具が乱雑に置かれている中、彼は一番奥にあった古ぼけた鉄の箱を開けた。その中には、丁寧に蝋で封をされた素焼きの壺がいくつか収められていた。
「この領地が『世界の掃き溜め』になる前……数百年前、まだここが豊かな土地だった頃の記録と共に保管されていた種だ」
シレンティウス様は、その中の一つを私の手に乗せた。
「『ルミナ芋』という、痩せた土地でも育つ丈夫な根菜らしい。だが、何百年も前の代物だ。種自体が死んでいてもおかしくはないぞ?」
「ありがとうございます! やってみます!」
私は壺を胸に抱きしめ、すぐさま館の裏手――かつては庭園だったと思われる、今はただの紫色の泥濘が広がる荒れ地――へと向かった。
背後から、シレンティウス様が静かについてくる気配がした。止めても無駄だと分かっているのだろう。
私は泥濘の前に立ち、深呼吸をした。
水と違い、土には何百年分もの「穢れ」と「絶望」が固着しているような、どす黒い重圧を感じる。
でも、やらなければ。パルの、あのお腹を空かせた顔を放ってはおけない。
私は意を決して、両手を深く、紫色の泥の中へと突き入れた。
「――っ!!」
瞬間に襲ってきたのは、水とは比べ物にならないほどの、強烈な拒絶反応だった。
まるで土全体が、私の浄化の光を押し返そうとしているかのようだ。ビリビリとした痛みが指先から腕へと走り、魔力が急激に吸い取られていく感覚に、目の前が一瞬真っ暗になった。
(負けない……。綺麗に、清らかな土に……!)
私は歯を食いしばり、胸の奥の鼓動をすべて両手に集中させた。
青白い光が、泥の中で激しく明滅する。
ジュゥゥゥッ、と、泥から毒素が気化するような音が鳴り響き、どす黒い土が、少しずつ、少しずつ、本来の豊かな茶色を取り戻していく。
しかし、土の浄化は想像以上に私の体力を奪った。
「……はぁっ……くっ……!」
息が上がり、膝がガクガクと震える。視界が揺れ、立っていることすら困難になってきた。
それでも、私は手を離さなかった。もう少し。あと少しで、一握りの畑ができる。
「カエナ、もうやめろ」
背後からシレンティウス様の鋭い声が飛んだ。
だが、私は首を振った。
「だ、大丈夫……です。あと、すこ、し……」
バキン、と。
自分の中で、何かの限界が弾けるような音がした。
同時に、私の両手から放たれていた光が爆発的に広がり、半径数メートルにわたって、紫の泥がふかふかの、栄養に満ちた黒土へと一気に変貌を遂げた。
「できた……!」
喜びに顔を上げた瞬間。
ぷつんと糸が切れたように、私の身体から一切の力が抜け落ちた。
そのまま泥の中に倒れ込む――そう覚悟して目を閉じた私の身体を、強く、温かく、力強い腕が受け止めた。
「……無茶をするなと、あれほど言っただろうが、この大馬鹿者が」
耳元で聞こえたのは、呆れの混じった、微かに震えているシレンティウス様の声だった。
目を開けると、彼の銀灰色の髪が私の頬を掠めていた。彼は泥で自分の服が汚れることなど一切気にせず、崩れ落ちそうになった私を背後からしっかりと抱きとめていた。
彼の胸からは、古い紙の匂いと、微かな清々しい香りがした。そして、妙に温かい。
「ごめんな……さい。でも、ほら……土が……」
私が弱々しく笑って指差すと、シレンティウス様は小さく頷いてから、私が作り出した小さな畑を見た。
「……ああ。見事なものだな。毒の土壌が、一瞬にして極上の腐葉土に変わるとは」
彼は私をそっと地面に座らせると、私の手から転がり落ちていた壺を拾い上げた。
「あとは私がやる。君はそこで息を整えていろ」
えっ、と私が驚く間もなく、シレンティウス様は素手で土を掘り返し始めた。
あの、何事にも無関心で、本ばかり読んでいた領主様が、泥だらけになりながら、不器用な手つきで一つ一つ、丁寧にルミナ芋の種を植えていく。
その背中を見ていると、どうしてだか、また涙が出そうになった。
「シレンティウス様……。手、泥だらけですよ」
「君に言われたくはないな。君の手の方が、泥棒猫よりも酷い有様だぞ」
振り向いた彼の顔にも泥が跳ねていて、私は思わず吹き出してしまった。
彼も一瞬呆気にとられたような顔をした後、微かに、口角を上げた。
すべての種を植え終えた後、私は残った僅かな魔力を振り絞り、浄化した水を畑にたっぷりと撒いた。
すると、数百年眠っていたとは思えないほどのすさまじい生命力で――いや、私の浄化の光の余韻が影響したのだろうか――土の中から、みるみるうちに緑色の芽が顔を出した。
芽はぐんぐんと成長し、あっという間に私の膝丈ほどの葉を広げ、その根元には、土を押し上げるようにして丸々と太った黄金色の芋が実を結んだのだ。
「……数百年ぶりのルデラの収穫、か」
シレンティウス様が、信じられないものを見るような目で黄金の芋を掘り出した。
その日の夕方。
館の前の広場には、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
私が大量のルミナ芋を塩茹で(塩はシレンティウス様の貯蔵庫にあった)にしたのだ。大きな鍋の前に列を作った難民たちは、湯気を立てる熱々の芋を受け取ると、夢中で齧り付いた。
「う、うまい……! なんだこれ、甘くて、ほっぺたが落ちそうだ!」
「あああ……生き返る……。神様、カエナ様……ありがとう……!」
パルも、小さな両手で大きな芋を抱え、涙と鼻水を流しながら頬張っている。
その光景を見て、私は胸がいっぱいになった。
水だけじゃない。食べ物も、こうして生み出すことができた。これで本当に、みんな生きていける。
「ほら、君も食べろ。倒れられては、私がまた種を植える羽目になる」
ふいに、横から声がした。
見上げると、シレンティウス様が、私のためにお皿に取り分けた芋を差し出していた。
相変わらずの無愛想な言い回しだけど、彼が自ら他人のために食べ物を運んでくるなんて、数日前なら絶対にあり得ないことだった。
「……ありがとうございます、シレンティウス様」
私が受け取って一口かじると、ホクホクとした甘みが口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
「そうか。……なら、悪くない芋だな」
シレンティウス様は、私の隣に腰を下ろし、彼自身も芋を静かに食べ始めた。
夕日に照らされるボロボロの領地。
でも、ここには今、清らかな水があり、温かい食べ物があり、そして、笑顔がある。
私の隣で芋を食べる領主様の横顔は、夕日のせいか、いつもより少しだけ優しく見えた。
まだまだ浄化しなければならない場所はたくさんある。でも、彼がいれば、きっと大丈夫だ。
そんな根拠のない確信を胸に抱きながら、私はもう一口、甘い芋を頬張った。




