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ボロボロ領地が私の力で、いつの間にか聖域と呼ばれるようになっていました。  作者: 逆立ちハムスター


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3

 領主の館への道は、昨日よりも少しだけ歩きやすかった。

 道端の泥が乾燥したわけではない。ただ、私の心の中に「毒のないお茶を淹れる」という明確な目標ができたことで、足元を気にする余裕が生まれたからだろう。


 私は昨日浄化したばかりの水を、難民の少年が「これ使って」と貸してくれた、少し欠けた陶器の瓶にたっぷりと詰め、それを大切に抱えて館の門をくぐった。

 相変わらず門番もおらず、開け放たれたままの玄関ホールには、昨日と同じ埃っぽい沈黙が溜まっている。


「……失礼します。カエナです。お約束通り、お水を持ってきました」


 静かに声をかけると、館の奥から「ふむ」と、昨日よりもさらに低い、だが確かに聞き覚えのある声が返ってきた。

 私は声のした書斎へ向かった。

 そこには窓際で山のような本に囲まれ、昨日と全く同じ姿勢で古書を読みふけるシレンティウスの姿があった。彼は私が入ってきたことさえ気づいていないかのように、ページをめくる指を止めない。


 私はまず、書斎の隅にあった古い鋳鉄製のコンロに目をつけた。

 幸い、薪は少しだけ残っている。私は火を起こし、瓶の水を小鍋にあけて火にかけた。

 待っている間、私は改めて書斎を見渡した。

 ……ひどい。

 壁、床、机の上。あらゆる場所に、数年分は溜まっているであろう灰色の埃が積もっている。銀灰色の髪を持つ美しい領主様は、この不潔な環境で平然と生活しているらしい。


「あの……シレンティウス様。お湯が沸くまで、少しだけお掃除をしてもよろしいでしょうか?」

「……好きにしろ」

 シレンティウスが、ようやく本から顔を上げた。その瞳には、心底「理解不能だ」という困惑が浮かんでいる。

「だが、そんなことをして何になる。どうせまた埃は積もり、泥は運ばれてくる。この領地が『ルデラ』である以上、清潔さなど無意味な贅沢だ」


 彼の言葉は相変わらず冷笑的だった。

 けれど私はめげなかった。フローリスの町娘だった頃から、私は掃除と洗濯が大好きだったのだ。

「無意味ではありません。埃っぽい空気で本を読めば、喉を痛めます。それに……綺麗な場所で飲むお茶の方が、絶対に美味しいですから」


 私は返事も待たずに、持っていた手ぬぐいを少しだけお湯で濡らし、棚の一角を拭き始めた。

 シュッ、とひと拭きするだけで、積もっていた埃の下から、美しいマホガニーの木目が顔を出す。


(あ、やっぱり。この力……)


 手ぬぐいを通じ、私の指先から微かな浄化の光が伝わる。

 ただ拭き取るだけではない。布が触れた瞬間に、染み付いた汚れやカビの臭いまでもが「分解」され、消えていく。私が一度拭いた場所は、まるで新品のように輝きを取り戻した。

 私は楽しくなり、鼻歌を歌いそうになるのを堪えながら、シレンティウスの座る机の周囲を重点的に磨き上げた。


「……君は、止まらないのだな」

 シレンティウスの声に、少しだけ呆れたような、それでいて感心したような色が混じった。

「他人の無関心にも、この地の絶望にも、君は一切立ち止まろうとしない」

「立ち止まっていたら、悲しみに追いつかれてしまいますから」

 私は手を止めずに答えた。

「動いている方が、楽なんです。それに、こうして綺麗になっていくのを見るのは、自分の心が洗われるようで……」


 ちょうどその時、小鍋のお湯がシュンシュンと小気味よい音を立てて沸き上がった。

 私は館の台所を探し回り、奥の方に眠っていた古ぼけた、だが上質な磁器のティーカップを見つけ出した。それも浄化の力で磨き上げると、私は慎重にお湯を注いだ。


 茶葉は、残念ながらどこにもなかった。

 けれど私が浄化した水は、ただの白湯さゆではない。

 私の浄化の力は「本来あるべき姿に戻す」力だ。この水には、大地の清らかなミネラルと、私の魔力が溶け込んだ微かな甘みがある。


「どうぞ。お茶の葉はありませんけれど……私の、一番自信のある『お水』です」


 私はシレンティウスの机の上に、湯気の立つカップを置いた。

 彼は本を閉じ、暫くの間、その澄み切ったお湯をじっと見つめていた。まるで、毒が入っていないか疑っているのではなく、あまりの透明さに戸惑っているかのように。


 やがて、彼は長い指先でカップを取り、一口、ゆっくりと喉に流し込んだ。


 彼の喉が、小さく動いた。

 シレンティウスの瞳が、僅かに見開かれる。

 

「……温かいな」

 ぽつりと、彼は漏らした。

「ええ……お湯ですから……」

私は困惑気味に答えた。

「ふむ。単なるお湯だというのに……不思議と、胸の底まで温もりが届くかのようだ。毒素だけでなく、この地の冷たさまでもが、取り除かれているかの如く……」

「美味しいですか?」

 私が覗き込むようにして尋ねると、彼は視線を逸らし、また一口飲んだ。

「……悪くない。……いや、今まで飲んだどんなお湯よりも、雑味がない」


 彼はそう言って、初めて小さな、本当に小さな溜息をついた。それは昨日までの虚無的な呼吸ではなく、安堵に近いものだった。


「カエナ。昨日も言ったが、君は、なぜこの力を使って、ルデラから逃げ出そうとしない? それに、その能力があれば、この土地を取り囲む『死の沼地』や『猛毒の霧』を抜けることなど、造作もないはずだ」


 シレンティウスの問いは、核心を突いていた。

 確かに私の浄化の力があれば、あの霧を押し除けて外の世界へ戻ることもできるかもしれない。


「……最初は、そう思いました」

 私は磨き上げた窓の外、遠くに見える難民たちのテント群を見つめた。

「でも、私がここから逃げ出しても、あの人たちは残されたままです。昨日の少年……彼に『美味しい』と言って水を飲ませた時、私は自分の居場所をここに見つけた気がしたんです」

 私は向き直り、シレンティウスの灰色の瞳をまっすぐに見つめた。

「シレンティウス様。あなたはなぜ、この地を捨てないのですか? 贅沢もせず、軍も持たず、ただこうして廃墟を守っているのは、なぜ?」


 一瞬、沈黙が支配した。

 窓から差し込む光の中に、まだ拭き取れていない僅かな埃がキラキラと舞っている。

 

「……ここは、『掃き溜め』だからだ」

 シレンティウスは、少し冷めたお湯を飲み干し、静かに語り始めた。

「世界には必ず、光と影がある。輝かしい王国や、豊かな庭園が存続するためには、その裏で生まれる汚れや、溢れ出した余剰物を引き受ける場所が必要なのだ。それがこの『ルデラ』だ」

 彼の声は、どこか遠い記憶を辿るような響きがあった。

「他国が関わろうとしないのは、ここが禁忌だからではない。ここが無価値だからでもない。ここを『世界のゴミ捨て場』として残しておくことが、彼らにとって都合が良いからだ。……私は、その最果ての番人に過ぎない」


 番人。

 領主ではなく、番人?

 その言葉の響きに、私は胸が締め付けられた。彼は、自分の意志でここにいるのではないのかもしれない。あるいは、この世界の不条理を一身に背負って、独りでこの暗がりに座り続けているのではないか。


「……番人なら、もっと楽をしても良いはずです」

 私は一歩、彼の方へ歩み寄った。

「番人の仕事が『見守ること』なら……せめて、あなたの周りだけでも、私は綺麗にしたいんです。それが、お茶を一杯いただいたお礼ですから」


 私はそう言って、彼の机の端に置いてあった「枯れ果てた植木鉢」に手を伸ばした。

 かつては何かの花が植わっていたのだろうが、今は乾燥してひび割れた土と、黒く変色した茎の残骸が刺さっているだけ。


「無駄だ。それはもう何百……遠い昔に枯れた」

「やってみないと、分かりません」


 私は深呼吸をし、胸の奥の鼓動を指先に集めた。

 青白い光が、昨日よりも強く、温かく溢れ出す。

 私は鉢の中の土に、そっと触れた。


(目覚めて。ここはもう、毒の地じゃないわ)


 浄化の光が土に染み込み、不純物を焼き払い、失われていた生命の記憶を呼び起こす。

 

 パキ、という微かな音がした。

 シレンティウスが目を細める。

 

 真っ黒だった茎の残骸から、一筋の瑞々しい「緑」が芽吹いた。

 それは見る間に成長し、小さな、本当に小さな、けれど力強い若葉を二枚、パッと広げたのだ。

 

「芽が出たか」

 シレンティウスが椅子から立ち上がり、鉢を覗き込んだ。

 

「ほら、生きていました」

 私は少し得意げに笑った。魔力を一気に使ったせいで、少し立ちくらみがしたが、彼の驚いた顔を見ただけで疲れが吹き飛ぶ気がした。

 

「……なんてことだ」

 シレンティウスは、芽吹いたばかりの若葉を壊れ物を扱うような手つきで指先で触れ、それから私を見た。

 その瞳の中の「無関心」という名の霧が、今、完全にかき消えた。

 

「カエナ。……やはり君は、ここに来るべきではなかった」

 彼は私の肩を、大きな手でぐっと掴んだ。

「君の力は、この領地のことわりを根底から覆してしまう。それは、希望であると同時に……世界を敵に回す火種にもなりかねない」

 

 彼の声は低く、真剣だった。

 昨日までの冷たい領主様ではなく、一人の女性を案じる男の顔が、そこにはあった。

 

「構いません。世界が敵でも、お水は綺麗になります」

 私が冗談めかして言うと、彼は一瞬呆れたような表情を浮かべ、それから……

 

「…………ふっ」

 

 初めて彼が笑った。

 それは花の蕾が綻ぶような、優しく、そしてこの世の何よりも美しい微笑みだった。

 

「……まあ勝手にするがいい。……だが、今日からは、この館の一部を君に開放しよう。水汲みだけでなく、食事や休憩もここでするといい。……番人の一人暮らしには、この家屋は少し広すぎると思っていたところだ」

 

「……! はい、喜んで!」

 

 私の返事が、埃の消えた書斎に明るく響いた。

 窓の外では、相変わらずヘドロの川が流れている。

 けれど、シレンティウスの机の上で揺れる小さな緑の葉は、確かにこの「世界の掃き溜め」に、新しい物語が始まったことを告げていた。


 ボロボロだった領地と、孤独だった領主様。

 私の力で、少しずつ、けれど確実に。

 ここが「楽園」と呼ばれる日も、そう遠くないかもしれない。

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