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ボロボロ領地が私の力で、いつの間にか聖域と呼ばれるようになっていました。  作者: 逆立ちハムスター


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2

 翌朝、私は崩れかけのレンガ塀の影で目を覚ました。

 ルデラ領の夜はひどく寒かったが、昨日飲んだ清らかな水の余韻が体の芯に残っていたのか、これまでの逃亡生活で一番深く眠れたような気がする。


 顔を上げると、相変わらずの灰色の空。そして、領地全体を包み込む不快な悪臭。

 だが、私の目の前だけは違っていた。

 昨日、私が必死に手を浸して浄化し続けた、川べりのほんの一角。そこだけは、周囲のドロドロとしたヘドロに飲み込まれることなく、底の小石を透かしたまま、ひっそりと清らかさを保っていた。


「……よかった。本当に夢じゃなかったんだわ」


 私はそっとその水面に指先を触れた。

 すると、またあのトクンという胸の鼓動が聞こえ、波紋が広がると同時に、透明な領域がわずかに拡大した。どうやらこの力は、私の体調が良いほど、そして心が落ち着いているほど、スムーズに発揮されるらしい。


 私は立ち上がり、川のさらに上流へと向かった。

 この広大なヘドロの川をすべて綺麗にするのは、私の力では到底無理だろう。けれど、少なくとも私の手の届く範囲だけでも、飲める水を増やしたい。

 それが、この『世界の掃き溜め』で私が生きていくための、唯一の「仕事」のような気がしたのだ。


 私は岸辺の岩に腰を下ろし、泥だらけの袖をまくって、再び両手をヘドロの中へと沈めた。

 

(綺麗に、綺麗になれ……)


 高等な魔法など知らない。けれど祈るように念じると、手のひらから柔らかな青白い光が溢れ出す。

 ジワ……ジワ……という微かな音さえ聞こえてきそうな速度で、不透明な黒が、透き通った青へと変わっていく。悪臭が消え、水の弾ける清々しい音が響き始める。

 昨日よりも少しだけコツを掴んだのか、浄化の範囲は一回り広くなった。


 一時間ほど集中していただろうか。

 不意に、背後に人の気配を感じて、私はハッと肩を揺らした。


 恐る恐る振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。

 ボロボロの布切れをまとった、まだ七、八歳くらいの子供。頬はこけ、体は痛々しいほど細い。彼は泥だらけの手で、ひび割れた木製の器を抱えながら、魔法でも見るかのように私の手元の水面を見つめていた。


「お姉ちゃん、それ……なに?」

 少年の声は、枯れ葉が擦れるようにか細かった。

「これはね……お水よ。飲んでも大丈夫な、綺麗なお水」

 私が優しく微笑むと、少年は信じられないというように目を見開いた。

「……そんなの、あるわけないよ。ここの水は、飲むとお腹が痛くなって、死んじゃうんだ」

「大丈夫。私が綺麗にしたから。ほら、飲んでみて?」


 私が器を手に取って水をすくい、彼に差し出す。

 少年は疑い深そうに私と器を交互に見ていたが、やがて喉の渇きに耐えきれなくなったのか、ひったくるようにして器を受け取ると、一気にその水を飲み干した。


 次の瞬間。少年の目から、大粒の涙が溢れ出した。

「……美味しい。冷たくて、美味しい……!」

 彼は声を上げて泣き始めた。それは悲しみではなく、あまりに久々に味わった「生命の感触」に対する、魂の震えのようだった。


 少年の泣き声を聞きつけて、周囲で力なく座り込んでいた他の難民たちも、一人、また一人と重い腰を上げ始めた。

「おい、今、綺麗な水って言ったか……?」

「まさか。こんな場所で……」

 皆、最初は半信半疑だった。だが、少年の器に残った、宝石のように透き通った水の雫を見た瞬間、彼らの目にギラリとした、それでいて必死な光が宿った。


「お、お嬢さん、俺にも……俺にも一口、頼む!」

「私の赤ん坊にも! もう三日もまともに飲めていないの!」


 一気に人々が私に群がった。

 これまで無感動だった人々の豹変ぶりに、私は一瞬怯んだが、すぐに我に返って首を振った。

「順番に! 大丈夫、皆さんの分も綺麗にしますから。器を持って、並んでください!」


 それからは無我夢中だった。

 浄化しては、人々の器に水を注ぐ。また浄化しては、注ぐ。

 胸の鼓動は激しくなり、額からは汗が流れ落ちる。魔力を使いすぎているのか、視界が少しチカチカとしたが、水を飲んだ人々が「ああ……」と救われたような声を漏らすのを聞くたびに、私の心は不思議と満たされていった。


 絶望しかないと思っていたこの地で、私は確かに必要とされている。

 その事実が、故郷を失った私の空っぽの心を温めてくれた。


「……ふぅ、やっと少し落ち着いたかしら」

 最後の一人に水を渡し終えた時、太陽はすでに天頂を過ぎていた。

 あたりには、以前のような殺伐とした静寂ではなく、どこか穏やかな空気が漂っていた。水を飲んだ人々は、互いに言葉を交わしたり、少しだけ生気を取り戻した様子で体を休めている。


 私は疲労で震える腕をさすり、乱れた髪をかき上げた。

 その時だった。


「…………領地が騒がしいと思えば、君か」


 低く、抑揚のない声。

 振り返ると、そこには昨日のあの領主――シレンティウスが立っていた。


 彼は相変わらず、貴族とは思えないほど質素な格好で、片手には古い革表紙の本を抱えている。だが、その銀灰色の瞳は、昨日とは少しだけ違う色を帯びていた。

 無関心という名の深い霧の奥に、ほんの一筋、好奇心の火が灯ったような、そんな眼差し。


 シレンティウスは、私が浄化した川の一画まで歩み寄ると、膝をついて水面を見つめた。

「…………。この川に、不純物を取り除く微生物は存在しない。毒素を分解する土壌もない。にもかかわらず、ここだけが不自然なほど澄んでいる」

 彼は独り言のように呟き、おもむろにその水を指先で掬って、唇を湿らせた。


「……信じがたいが、事実のようだな。ルデラの毒を、ただの『水』に変えたというのか」

 彼は立ち上がり、まっすぐに私を見た。

 昨日、館で会った時は私の顔など見ていなかったはずだが、今ははっきりと、私という存在を網膜に焼き付けようとしているのが分かった。


「……君の名前は、確か、カエナと言ったな」

「はい、カエナです」

「どこから来た。君のような『特異な力』を持つ者が、なぜこんな掃き溜めにまで流れ着いた」


 その問いに、私は胸が締め付けられるような思いがした。

 燃える家、母の笑顔。思い出すだけで視界が滲む。

「……東の、フローリスという小国です。一ヶ月前、隣国の軍に侵攻され……町はすべて、焼かれました。私は、生き残った数少ない一人です」


 私の声は、最後の方は震えていた。

 シレンティウスは、その私の動揺を冷徹に観察するでもなく、かといって過剰に同情するでもなく、ただ「そうか」と短く答えた。


「フローリスか。かつて『花の庭園』と謳われた美しい国だったな。今はもう、現在の地図の上にも残っていないが」

 彼の言葉は残酷なまでに平坦だったが、不思議と悪意は感じられなかった。彼はただ、客観的な事実を述べているだけなのだ。


「ルデラには、何もない。君がどれほど水を浄化しようと、この地が呪われている事実は変わらない。他国や神が救いの手を差し伸べることもない」

 シレンティウスは、手に持っていた本をぎゅっと握り直した。

「それでも……君は、ここで浄化を続けるつもりか? 報われない努力だ。君の力があれば、どこか別の、もっと豊かな国で、聖女として迎え入れられる可能性もあっただろうに。いや、今からでも遅くはない」


 私は少しだけ考えてから、凛とした声を返した。

「豊かな国では、私がいなくても誰も困りません。でも、ここでは、この水一杯で子供が息を吹き返し、老人が微笑むんです。報われるかどうかは分かりません。でも……私は、ここを『ボロボロ』のままにしておきたくないんです」


 シレンティウスは、私の言葉を聞いて、わずかに目を細めた。

 それは、彼が初めて見せた、感情の揺らぎだった。

 

「……奇妙な人間だ。昨日会った時は、今にも消えてしまいそうな魂のようだったが」

 彼はふいっと視線を逸らし、館の方へと歩き出した。

「勝手にするがいい。だが死なない程度にな。君が倒れれば、せっかく喜んでいる奴らがまた絶望することになる」


 背中越しに投げられた言葉は、ぶっきらぼうで、どこか突き放すような響きだった。

 けれど。

「……あ、あの、領主様!」

 私が呼びかけると、彼は足を止めずに「なんだ」と短く応じた。

「お水……館の方まで、お運びしましょうか? 少しだけでも、綺麗な方がいいでしょう?」


 一瞬、沈黙が流れた。

 シレンティウスは振り返ることなく、だが心なしか声を低めて答えた。


「……毒のないお茶が飲めるなら、悪くない。気が向けば、持ってくるがいい」


 そう言って、彼は今度こそ去っていった。

 

 私は、彼が消えた館の方向をじっと見つめ、それから自分の手を見た。

 魔力を使って疲れているはずなのに、心は不思議と軽かった。


(毒のないお茶……。ふふ、それなら、頑張って汲んでいかないとね)


 私はもう一度、川べりに腰を下ろした。

 周囲では、水を飲んで少しだけ元気になった少年が、道端に落ちていた石ころで何かを地面に描いて遊んでいる。

 まだ、この地には花の一輪も咲いていない。

 けれど、私の目の前の水面には、灰色の雲の切れ間から漏れた、ほんのわずかな陽光がキラリと反射していた。


 ボロボロ領地の生活は、まだ始まったばかり。

 でも明日もまた、この綺麗な水を誰かに届けよう。

 そう思うだけで、私の明日もまた、少しだけ輝いて見えるような気がした。

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