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焼け落ちる故郷の匂いは、きっと生涯、私の鼻腔から消えることはないだろう。
私の名前はカエナ。つい数週間前までは、緑豊かで穏やかな小国で、貧乏でも裕福でもない生活。家族と共にささやかながらも幸せな日々を送る、ごく普通の町娘だった。
朝になればパンの焼ける香ばしい匂いが路地を抜け、昼には広場で子供たちの笑い声が響く。そんな当たり前の日常は、巨大な軍事国家の無慈悲な侵略によって、唐突に、そしてあっけなく終わりを告げた。
轟音と共に崩れ落ちるレンガの壁。空を覆い尽くすほどの黒煙。逃げ惑う人々の悲鳴と、容赦なく振り下ろされる冷たい白刃。
家も、愛する家族も、親しい友人も、昨日まで当たり前のように隣にあった笑顔も。そのすべてが紅蓮の業火に飲み込まれた。私はただ一人、母に背中を突き飛ばされるようにして、着の身着のまま炎上する町から逃げ出すことしかできなかった。
あてもなく彷徨い、泥水をすすりながら私が目指した先は、大陸の最果てに位置する『ルデラ領』だった。
周辺諸国から『世界の掃き溜め』、あるいは『世界の避難所』と呼ばれるその土地は、どんな大国の軍隊であっても決して足を踏み入れようとしない、唯一の空白地帯だった。
なぜ追手が来ないのか。理由は明確である。ルデラ領は、歴史的にも宗教的にも「神に見捨てられた忌むべき地」として、強烈な禁忌とされているからだ。あそこに足を踏み入れれば魂が穢れ、死後も神の御許へは行けない――そんな迷信が、大陸全土に深く根付いている。
だが軍隊が進軍しない最大の理由は、もっと物理的で残酷なものだった。
ルデラ領を外界から完全に隔絶する、死の障壁が存在するのだ。
境界線を覆い尽くす、分厚く淀んだ紫色の『猛毒の霧』。吸い込めば肺が焼け焦げ、目を開ければ視力を奪われる。私は、道端に転がっていた戦死者の外套を剥ぎ取り、それを水で濡らして口と鼻をきつく覆うことで、決死の覚悟で霧の中へと飛び込んだ。
さらに最悪なのは、霧の足元に広がる『底なしの沼地』である。
一見するとただのぬかるみだが、一歩でも踏み外せば最後、ズブズブという不気味な音と共に、泥の深淵へと引きずり込まれてしまう。
霧の中で方向感覚を失い、悲鳴を上げて沼に飲み込まれていく他の難民たちの姿を、私は何度となく目撃した。助けようと手を伸ばせば、自分も確実に道連れになる。私は血の滲むような思いで目を逸らし、ただ足元の僅かな固い土、白骨化した倒木だけを頼りに、這いつくばるようにして進み続けた。
なぜ、そこまでして生き延びようとしたのか、自分でもわからない。
ただ、燃え盛る故郷を背にした時、「生きなさい、カエナ」と最後に微笑んだ母の顔が、私の足を無理やりにでも前へと動かさせていた。
どれほどの時間を、あの死の境界で過ごしただろうか。
不意に、視界を覆っていた紫の霧が晴れ、冷たい風がひび割れた頬を打った。
私は泥だらけの地面に倒れ込み、激しくむせ返った。どうやら、奇跡的に死の沼地を抜け、ルデラ領の内側へと辿り着いたらしい。
荒い息を整え、重い瞼をこじ開けるようにして顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。分かっていたけれど、過酷な過程を進む中で、希望が芽生えてしまっていたのだ。楽園があると。
「……これが、世界の……避難所……?」
掠れた声が、乾いた風に溶けて消えた。
私は絶句した。そこは、文字通りの『掃き溜め』だったのだ。
見渡す限りの荒野。草木は枯れ果て、生命の息吹など微塵も感じられない。あちこちに、ボロ布や朽ちた木の枝で作られた粗末なテントが、まるで無数の墓標のようにひしめき合っている。
そして領地全体を覆うのは、鼻の奥を直接殴りつけるような強烈な悪臭だった。腐敗臭、汚物の匂い、そして病の匂いが混ざり合った、空気が淀んで重く感じるほどの不快な匂い。
領地の中央を流れる大きな川は、もはや川と呼べる代物ではなかった。ドロドロとした黒褐色のヘドロが、まるで巨大なナメクジのようにゆっくりと這って流れている。時折、表面でポコッと黄色く濁ったガスが弾け、さらに強烈な悪臭を周囲に撒き散らしていた。
その川べりには、私と同じように戦争や飢餓から逃れてきた難民たちが、うつろな目で座り込んでいる。彼らの頬はこけ、骨と皮だけになり、目には希望はおろか、絶望すらも残っていなかった。ただ、死が迎えに来るのを待つ抜け殻のように、ピクリとも動かない。
ここでは、誰も私を襲おうとはしない。私から奪うものなど何一つないと分かっているからだ。同時に、誰も私に手を差し伸べようとはしない。他人に構う余裕など、誰一人として持ち合わせていないのだから。
これが、抑圧も保護もない、絶対的な放置の地。
私は鉛のように重い体を引きずり、領地の中心にあると思われる建物へと向かった。一応、この地を治める領主がいるという噂は聞いていたからだ。難民として流れ着いた以上、何らかの身分登録や、滞在の許可が必要なのだろうと思ったのだ。
しかし、たどり着いた『領主の館』は、私の予想を根底から覆すものだった。
それは豪華な城でもなければ、堅牢な砦でもなかった。ただの、苔むした古い石造りの館だったのだ。門兵はおろか、メイドや使用人の姿すら見当たらない。扉は蝶番が壊れて半ば開け放たれており、誰でも出入りできる状態だった。
恐る恐る中に入ると、埃っぽい静寂が空間を支配していた。
「あの……どなたか、いらっしゃいませんか……?」
掠れた声で呼びかけると、館の奥から微かな衣擦れの音が聞こえた。
足を踏み入れた先は、書斎のような広い部屋だった。壁一面の本棚には、古びた書物が無造作に詰め込まれ、床にもいくつもの本が塔のように積み上げられている。
そして、窓際の古ぼけた椅子に、一人の若い男が深く腰掛けていた。
年齢は二十代半ばから後半だろうか。色素の薄い、月の光のような銀灰色の髪は無造作に伸び放題で、彼が身につけている衣服も、貴族の領主とは思えないほど質素で、袖口は擦り切れていた。
彼は、膝の上に広げた分厚い古書に視線を落としたまま、私の声に反応する素振りも見せない。まるで、私が存在していないかのように。
「……あの、ルデラ領の領主様で、いらっしゃいますか?」
私が再び問いかけると、男はゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、外を流れる泥の川よりもさらに静かで、底知れない無関心を湛えていた。何の感情も、何の意志も読み取れない、虚無のような灰色の瞳。
「私がこの地の領主、シレンティウス。君は、また新たに流れ着いた難民の一人か」
ぽつりと、低く平坦な声が埃っぽい空気を震わせた。
「は、はい。私の名前はカエナです。戦争で故郷を失い、こちらへ……その、滞在の許可と、できれば少しの水でもいただけないかと……」
私がすがるような思いで言うと、シレンティウスは小さく息を吐いた。それはため息というよりも、単なる呼吸の一部のような無機質なものだった。
「許可も何も、好きにすればいい。ここはルデラ。見ての通り、何もない領地だ。私は君たちに税を求めないし、労働も強要しない。だが同時に、食事を与えることも、外敵から守ることもない」
彼は淡々と、氷のように冷たい事実だけを口にした。
「空いている場所を見つけて、勝手に住むといい。生き倒れようが、誰かと争って死のうが、私には一切関係のないことだ。……話がそれだけなら、出ていってくれ。本を読む邪魔だ」
そう言うと、彼は私から興味を失ったように、再び本へと視線を落としてしまった。
私は呆然と立ち尽くした。
これが領主?
軍隊すら持たず、領民に一切の関心も持たず、ただただこの朽ち果てた館で本を読んでいるだけの男。他国が一切関わろうとしないのも頷ける。この地には、価値というものが一切存在しないのだ。奪う価値も、支配する価値も、守る価値すらない。
あまりの冷遇に怒りすら湧いてこなかった。私はただ無力感に苛まれながら、静かに一礼し、館を後にした。
外に出ると、相変わらず陰鬱な灰色の空と、むせ返るような悪臭が私を出迎えた。
ついに歩き疲れた足が限界を迎え、私はヘドロの流れる川べりの片隅に、糸が切れた操り人形のようにへたり込んだ。
喉が渇いた。ひどく渇いた。
しかし、手持ちの水筒はとうの昔に空っぽだ。目の前を流れるのは、飲むことなど到底不可能な、死の匂いがする泥水だけ。
ふと、自分の手を見る。
泥と血と煤にまみれ、本来の肌の色など分からないほど汚れきっていた。爪の間には黒い泥が詰まり、あちこちに擦り傷ができている。顔もきっと、同じように薄汚れているだろう。
「……せめて、顔だけでも洗いたいな……」
私は虚ろな目で呟き、ふらふらと川辺へと身を乗り出した。
顔を近づけるだけで、えずきそうになるほどの悪臭が鼻を突き刺す。普通の人間なら触れることすら躊躇うであろうそのヘドロの川に、私は自暴自棄に近い感情で、両手を深く突っ込んだ。
冷たく、ぬるりとした嫌な感触が肌を覆う。
その時だった。
トクン、と。
私の胸の奥底で、何かが脈打ったような気がした。
それは、生まれてからずっと私の中に眠っていた、私自身もよく分かっていない「力」の鼓動。
私の両手のひらから、淡い、本当にささやかな、蛍の光のような青白い光が漏れ出した。
「え……?」
私が驚いて目を見開いた瞬間、奇跡は起きた。
私の手が触れている部分を中心に、泥水が『逃げて』いくのだ。
いや、正確には違う。ドロドロの黒褐色だったヘドロから、不純物や悪臭、毒素といったありとあらゆる穢れが、まるで聖女の魔法のように分解され、浄化されていく。
じわじわと、しかし確実に。
私の手の周囲、ほんの数十センチの範囲だけが、川底の小石がはっきりと透けて見えるほどの、驚くほど澄み切った透明な水へと変化したのだ。
周囲に漂っていた腐敗臭が嘘のように消え去り、代わりに、朝露に濡れた森の奥深くにある湧水のような、清冽で爽やかな空気がふわりと香った。
私は震える手で、その浄化された水をすくい上げた。
手のひらに溜まった水は、灰色の空の下にあっても、自ら光を放つようにキラキラと輝いている。それは疑いようもなく、純粋で美しい「水」だった。
私は夢中で、乾ききった喉の奥へその水を流し込んだ。何度も何度も、夢中で……。
「……っ……冷たくて、美味しい……」
細胞の隅々にまで清らかな水分が染み渡っていく感覚。
その瞬間、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
家族を失ってから、泣くことすら忘れていた私の瞳から、熱い雫がとめどなく溢れ出し、澄んだ水面へと落ちて小さな波紋を広げた。
私には、幼い頃から少しだけ不思議な力があった。しおれた花に触れると少しだけ生気を取り戻させたり、濁ったコップの水を綺麗にしたりできる程度の、誰にも言えない秘密の力。
しかし、まさかこんな死に絶えたような毒の川の水を、ここまで完全に浄化できるなんて思ってもみなかった。
ひょっとしたら。
この、神に見捨てられたボロボロの領地でなら。
誰の役にも立たないと思っていた私のこの「隠れた力」を使って、ほんの少しだけ、生きていく理由を見つけることができるかもしれない。
無関心な領主と、何もない領地。
ならば、私が少しずつ、この場所を綺麗にしていけばいい。
灰色の空の下、私はたった数十センチだけ綺麗になった川面を見つめながら、静かに、しかし決して消えることのない確かな希望の火を、胸の奥に灯した。
――これが、のちに周辺諸国から『奇跡の聖域』と恐れられ、そして崇められることになるルデラ領の、本当の始まりの日だった。




