第十六話 舞姫、少女の名を刻む
少し離れた影から、暁はその様子をじっと凝視していた。
日向が、わざわざあの神祇官の娘に会いに来た。
何か小さなものを手渡し、娘はそれを受け取った。
あの、酷薄なまでに己を律し、他者に無関心だった日向が、だ。
「心配だからに決まっている」と言って、戦火の燻る武州の地まで一人で現れた。
暁は無言のまま、静かに腕を組んだ。
日向が心底案じ、身を案じて動く相手など、この世にそう多くない。
先帝と桜桃元皇女を火の海で失ってからというもの、あの男が誰かのために私情で動いたことなど、一度でもあっただろうか。
――いや、ない。
それが、あの「六花」という娘だった。
暁の目が、大きく見開かれた。
脳裏で霧が一気に晴れ、それは疑惑から、揺るぎない確信へと変わる。
「……やはり、娘だ」
思わず声が漏れ出ていた。
「え?」
すぐ隣で、戦後処理の報告をしようとしていた疾風が、素っ頓狂な声を上げた。
「何がですか、暁殿」
「……いや、何でもない」
「娘って、一体誰の娘ですか。そんなに驚いた顔して」
「……なんでもないと言っている」
「なんでもなくないですよ! 急に怖い顔して言い出すから」
暁は少しの間を置き、溢れそうになる感情を理性で押さえ込んだ。
「今は、何も聞くな」
「えーっ……」
「聞くな」
絶対的な威圧感を含んだその声音に、疾風は不満そうに頬を膨らませたものの、それ以上追及するのを諦め、しぶしぶ口を閉ざした。
だが、どうしても好奇心を抑えきれない疾風は、暁が書類に目を落とした隙を見計らって、広場の隅で刀の手入れをしていた刹那の元へとこっそり足早に近づいた。
「ねぇ、刹那殿」
「何ですか、疾風様。忙しいんですけど」
「さっき暁殿が、あの神祇官の六花殿の方を見ながら、急に『やはり娘だ』って言い出したんだよ」
「……ああ」
刹那は少し考えてから、あからさまに面倒くさそうな目で疾風を見た。
(娘? ……あのおっさん、何かに目覚めたか?)
中年男の事情など別に知りたくもなかった刹那は、適当に話を合わせることにした。
「まぁ、今は何も聞かない方がいいですよ。そういうのは」
「ちょっと、刹那殿まで! 一体何を知ってるんですか!?」
「いつか分かりますって、いつか」
「いつかって、いつですか! 今教えてくれたっていいじゃないですか!」
「いつかは、いつかです。ほら、向こうで捕虜の連行が始まりますよ。仕事仕事」
「もう、なんなんだよ二人して!」
刹那はいつもの飄々とした調子で疾風の背中をポンと叩き、そそくさとその場を離れた。
疾風はまたしても納得のいかない不満げな顔をしていたが、男たちの間に流れる奇妙な空気の正体を掴めぬまま、自分の持ち場へと戻っていくのだった。
***
日向が州府の重い扉を押し開けて中へ入っていく。朝凪は音もなくその後ろ姿を追った。
薄暗い廊下に、二人の乾いた足音が静かに響く。
「……日向殿」
朝凪の声に、日向はゆっくりと足を止めて振り返った。
朝凪はその隣へ静かに歩み寄る。
日向の顔を見て朝凪の頭の中に浮かんだのは、朝賀の日に桜桃が『近衛礼を日向がひとりでしてくれた』と言っていたことだった。
「……日向殿は、姫様に――」
そこまで言って、言葉を飲み込む。聞くべきことではない。
日向が自ら語らないなら、自分がそこを踏み込むべきではないと思った。
朝凪は静かに首を振った。
「……いえ。日向殿は……如月殿が残したものを追っているのですか」
「ああ」
余計な弁明も、事情の説明もない。だが、その一言だけで朝凪にはすべてが伝わっていた。
朝凪は小さく息を吐き出す。
「そうでしたか……」
短い沈黙が、二人の間に流れた。
日向は視線を、開け放たれた窓の向こう――先ほどまで自分がいた、桜桃の座る広場の方へと向けた。
その瞳の奥に、一瞬だけ父親のような、そして臣下としての痛切な影が過る。
「……今まで、お前たちのそばにいてやれなくて、悪かった」
日向の口から出た想定外の謝罪に、しかし朝凪は表情を変えず、静かに首を横に振った。
「姫様は今、生きておられます。あの日、あなたと六花がその身を挺して、逃がしてくださったからです」
日向は何も答えず、ただじっと朝凪の言葉を聞いていた。朝凪は淡々と、しかし真っ直ぐな声音で続ける。
「私はただ、その続きをしているだけです」
日向は、朝凪の目を正面から見据えた。
感情を表に出さない二人の武人が、視線だけで互いの苦闘を称え合う。やがて日向は、小さく、深く頷いた。
「……ここまでよく守ってきた」
確かな重みを伴った、その一言だけだった。
朝凪は静かに、長い睫毛を伏せる。
「まだ、私はお守りしきれていません。姫様がお戻りするまでは」
日向の厳格な口元が、その言葉を聞いて満足そうに緩んだ。
「そう言うと思った」
二人はそのまま、州府の執務室へと足を踏み入れた。乱雑に散らかった机の上や棚から、手がかりとなる書類を無言で改め始める。
そこで日向が、一枚の公文書を掴み取った。
「……これは」
それは、今年の武州における徴収基準を大幅に引き上げるための指示書だった。これほどの重税を課せば、民が困窮し、内乱が起きるのは火を見るより明らかだ。
文書の末尾には、民部省で武州の租税を担当していた官吏の署名と印が残されている。
日向は眉を寄せた。
正式な手続きを踏んでいる。少なくとも、武州の役人が勝手に税を吊り上げたわけではない。
ならば、この数字を中央から武州へ下ろした者がいる。
だがその時、朝凪がふと、その下に埋もれていた別の指示書に目を留めた。
引き抜いて検分する。
朝凪の眉が、わずかに動いた。
「日向殿、これを見てください」
「何だ」
朝凪が差し出したのは、先ほどの徴収指示書と同じ頃に出された、蘇原周辺の地方兵を西部へ移すよう命じた配置変更書だった。
日向はその変更書に目を通す。
「西部で賊徒が出たため、蘇原の駐屯兵を移した……」
「賊徒は二十名ほどです」
「……」
「それに対して、蘇原から三百を動かしている」
日向の目が、文書へ戻った。
朝凪は別の報告書をその横へ置く。
「しかも、この時期にはすでに蘇原で徴税への反発が強まっていた。普通なら、こちらの兵を減らす理由がない」
日向の指先が、蘇原の名を静かに押さえた。
「つまり、賊徒を鎮圧するために動かしたのではなく、蘇原から、兵を退かせるためか」
二人は無言で顔を見合わせ、再び書類へと視線を落とした。
***
焼かれた建物の生々しい残骸、散らばった生活の荷、次々と運び込まれる負傷者たちの呻き。
動ける者が必死に動き、声を上げる者が矢継ぎ早に指示を出し、それぞれが生きるために手を動かしている。
桜桃は、傷む肩の存在を忘れるようにして水の配給を手伝っていた。その最中、ふと広場の端に目が止まった。
崩れかけた壁際に、男が一人、力なく座り込んでいた。
縄で縛られてはいない。降伏して自ら武器を置いた、反乱兵の生き残りだろう。
立てた両膝に額を押し当てるようにしており、その表情は窺い知れない。
その男の傍らに、小さな子供がいた。
まだ四つか、五つか。男の泥に汚れた上着の端を小さな手でぎゅっと握って、ただ黙って突っ立っている。
桜桃は水袋を抱え、静かに近づいた。
「……水を、どうぞ」
男は顔を上げないまま、重々しく腕を動かした。
「……ああ」
受け取ると、乾ききった喉に一口だけ流し込む。
それからすぐに、水袋を隣の子供の方へ差し出した。子供は小さな両手で健気にそれを受け取り、遠慮がちに少しだけ口をつけた。
桜桃はその場に、そっと膝をついてしゃがみ込んだ。
子供が桜桃をじっと見つめてくる。
濁りのない丸い目をしているが、怯えているのか、それとも疲れ果てているのか、その幼い表情からは感情がうまく読み解けなかった。
「……この子の、お父さんですか」
「……俺の子だ」
男の声は掠れていた。すべてを奪われ、何もかもが削ぎ落とされた後の、空っぽのような声だった。
桜桃はしばらくの間、その小さな子供を見つめていた。
「……なぜ、蜂起したのですか」
問いかけてから、自分はなんて余計なことを聞いたのだろうと後悔した。
だが、男は激昂もしなかった。
「粟を持っていかれた」
ただそれだけを、淡々と言った。
「秋に取れた分、全部だ。俺たちの、冬支度の分まで残さずにな」
「……」
「お役人様は、春まで待てと言った。だが、待てば飢えて死ぬ。足りないなら……動くしかなかった」
間違っていない、と桜桃は思った。
この人が、この父親が間違っているとは、天地がひっくり返っても言えない。言えないのに、今の自分には、返す言葉が何も見つからなかった。
「……この子の名前は?」
「……千草」
「千草ちゃん」
男が少しだけ顔を上げた。名前を繰り返されることを、まったく予期していなかったような目だった。
桜桃は子供を見た。千草、という名を持つ生きた子供が、真っ直ぐに桜桃を見つめ返している。
「春になったら、奪われた粟は戻りますか」
「……分からない」
「そう、ですか」
「分からないから……だから、戦ったんだ」
男の声が、微かに震えた。諦めと、それでも決して諦めきれない執念が、静かに混ざり合った響きだった。
桜桃は必死に言葉を探した。けれど、そんな都合のいい慰めは、この凄惨な広場のどこにも転がっていなかった。
「……私は、帝都から来ました」
代わりに、震える唇からそれだけがこぼれ落ちた。
「戻ったとき、このことを必ず話します。千草という子供の父親が、冬を越すための粟をすべて持っていかれて、だから、生きるために刃を取ったのだと」
男は驚いたように、初めて桜桃の目を真っ直ぐに見た。
「……話して、何になる。お前たちのような高貴な人間に、俺たちの何が変わる」
「すぐには、何にもならないかもしれません」
「なら――」
桜桃は男の目を、真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、ただの『反乱兵の数』として処理されて残るより、名前を持つ一人の人間として誰かの記憶に残った方が、まだ、ましだと思います」
男はしばらくの間、桜桃の瞳をじっと見つめていた。
その奥で何を考えているのかは分からなかった。
やがて、男は諦めたように視線を、再び我が子へと落とした。
「……春になれば、また畑に出る。それだけだ。俺たちにできるのは」
「はい」
男はそれ以上、何も言わなかった。
桜桃は静かに立ち上がった。
何か重いものが、身体の奥にそのまま沈んでいくのが分かった。
単純な悲しみでも、理不尽への怒りでもない。どこへ向ければいいのかさえ分からない、昏い感情だった。
歩き出しながら、一度だけ後ろを振り返る。
千草が、まだこちらをじっと見つめていた。
桜桃はその幼い瞳から視線を外せないまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
それから、意を決して前を向いた。
帝都に戻ったら、このことを必ず話さなければならない。
握り潰されそうなこの現実を、「千草」という名前を、世界のどこかに刻み付けなければならない。
今の自分には、まだ何も変えられない。
だが――せめて、覚えていることだけは、できる。




