第十七話 元近衛中将、花を贈る
蘇原の後片付けが続く中、張り詰めていた空気が緩む、少しだけ落ち着いた時間があった。
そんな折、疾風が桜桃の近くへとやってきた。
何か言いたそうにそわそわしながら、用もないのに彼女の周りをぐるぐると不審に歩き回っている。
桜桃はその様子に気づいていたが、彼が自ら口を開くのを待っていた。
やがて、疾風が意を決したように、拳を握りしめて口を開いた。
「あの、六花殿」
「はい」
「……六花殿は、その、好きな人とか、いるか?」
その問いが落ちた瞬間、周囲の空気が、わずかに、しかし確実に変わった。
桜桃にはその緊迫感が全く分からなかったが、異変は一瞬にして起きていた。
少し離れた場所で戦後処理の地図を睨んでいた昊夜の指先が、ぴたりと止まる。
朝凪は無言のまま、書類から顔を上げ、視線をこちらへ向けた。
刹那にいたっては、手入れしていた刀を持ったまま、にやつきそうな口元を必死に抑えて耳をこちらへ傾けている。
にわかに集まった男たちのただならぬ視線に、桜桃は少し慌てて周囲をそっと見回した。
「……いいえ、いません」
「そうか」
疾風は少しだけ間を置いた。それから、さらに声を潜めて、真剣な面持ちで続けた。
「その……女子というのは、男に何をしてもらったら一番嬉しいんだ?」
桜桃は目を瞬かせ、疾風を見た。
「……好きな人に、何かをして差し上げたい、ということでしょうか」
「そうだ」
疾風の想い人、と桜桃の脳裏に一つの顔が浮かぶ。
……椎香のことだろうか。確か、縁談の話が持ち上がっているとかいないとか。
桜桃は少し首を傾げて考え込んだ。
自分が何をされたら嬉しいか。そう問われても、これまでそんな風に殿方に扱われた経験に乏しく、あまり良い案が思い浮かばない。
けれど、自分のことを一生懸命に想って、尽くしてくれることなら、何だって嬉しいがする。
「……私のためにと、一生懸命考えてしてくださることなら、何でも嬉しいと思います」
「具体的には」
「……具体的に」
桜桃はうーんと小さく唸った。具体的、と言われても本当に何も思い浮かばない。
「……お花を、もらうとか?」
とりあえず、世間一般の女子が好きそうなものを口にしてみた。我ながら随分と適当で、面白みのない答えだと思った、その瞬間。
「――ですって、昊夜様」
すぐ近くから、千弦のからかうような明るい声が飛んできた。
昊夜が、青筋を立てんばかりの鋭い眼光で千弦を睨みつける。
「……私には関係のない話だ」
「そうですか?」
「関係ない」
「はあ」
千弦はにこやかな笑みを崩さないまま、そっと視線を逸らした。
あからさまに動揺して地図に視線を戻す昊夜の横顔を、心の中でこれ以上ないほど面白がっているのだろう。
一方、刹那はくつくつと肩を揺らし、にやにやしながら小声で隣の朝凪を肘で突いた。
「花だってよ、朝凪」
やっぱりな、と刹那は確信した。
あの帝都の屋敷の客間に活けられていた瑞々しい白い花。あれはやっぱりこの男が、姫のためにせっせと活けていたのだと確信する。
すると、その隣で、朝凪が静かに口を開いた。
「ご心配なく」
その一言に全員の視線が、一斉に朝凪へと集まった。
「……私は、季節ごとに贈っている」
広場に、重い沈黙が落ちた。
(やっぱり、お前、めちゃくちゃ尽くしてやがったか……!)
刹那が心の中で盛大に突っ込みを入れた、その時。
「朝凪殿が!?」
疾風が驚愕のあまり目を丸くした。
「はい」
「……誰に、だ?」
朝凪はほんの少しだけ間を置いた。そして、いつも通りの表情の乏しい、淡々とした声で遮る。
「……それはまた別の話です」
それだけを言い残すと、朝凪は静かに立ち上がった。
「では、失礼します」
そのまま、追及を許さない完璧な所作で、一人どこかへ行ってしまった。
疾風はしばらく、朝凪の後ろ姿が消えた方向を呆然と見つめていた。
「……朝凪殿、物静かな割に、意外とやるんだな……」
それから疾風は腕を組み、「花か……」と再び深刻な顔で考え込み始めた。
「疾風様、お花に何か心当たりがありますか」
桜桃が尋ねると、疾風は困ったように眉を下げた。
「いや、今は冬だから、外を見ても雪ばかりで難しいなと思ってな」
「……冬でも咲く美しい花はありますよ」
「そうか!」
疾風は少し考えてから、ぱっと表情を明るくして桜桃を見た。
「ありがとう六花殿、すごく参考になった!」
「お役に立てたかどうか……」
「なった、大いになった!」
疾風はそれだけ言うと、今度こそ満足そうに胸を張って、自分の持ち場へと足早に離れていった。
桜桃は、嵐のように去っていったその背中を、見送った。
その様子を眺めていた刹那は、ゆっくりと水筒を傾けながら、今度は桜桃に視線を戻した。
疾風から「好きな人がいるか」と聞かれた時、桜桃は無意識に、昊夜を目で追っていた。無自覚なのだろう。
(たぶん本人も気付いてないな)
刹那は水を一口含み、立ち上がって桜桃のそばへ歩み寄った。
「姫、好きな人いないのか」
「……いません」
「じゃあさ、昊夜はどうなんだ?」
桜桃の動きが、一瞬だけ止まった。
「……こ、昊夜様……!?」
みるみるうちに、桜桃の白い頬が鮮やかな朱に染まっていく。本人は慌てて隠そうとしているが、動揺が隠せていない。
「昊夜は、随分お前を気にかけてるみたいだが……」
「こ、昊夜様には……いつも怒られてばかりで……。それでも、気づけばいつも、私を助けてくれて……」
俯きながら、熱くなった顔を両手で挟むようにして、ぽつり、ぽつりと呟く。
「気になるのか?」
「……よく、分かりません」
しどろもどろになり、視線を泳がせる少女。
その様子を眺めていた刹那は、口元がニヤけてしまうのを必死で堪えた。
(よく分からない、ねえ……)
この分かりやすすぎる反応。自覚がないだけで、どう見ても答えは出ている。
(おいおい。その顔はもう、完全に好きだろ)
鈍すぎる二人のもどかしい距離感に、刹那は内心で「早くくっつけよ」と小さく笑った。
昊夜への気持ちはこれで完全に確定した。だとしたら、もう一人、ずっと隣にいるあの男はどうなのか。
桜桃から朝凪に感じるのは、もっと古くて深いものな気がする。絶対的な信頼。主従に近い。ある意味盲目的なもの。
まぁ、あれだけ至れり尽くせりで甘やかされれば、そうもなるだろう。相当長い付き合いのはずだ。
だがそれが恋かと言うと――どうも毛色が違う。
兄のような。保護者のような。従者のような。
そういう感情と、恋は、似ているようで違う。
つまり、朝凪がどれだけマメに花を活けて尽くしていようが、桜桃にとっては「男」じゃない。
(あいつには悪いが、そっちの脈は一切ねえな……まぁ、可哀想だが一応聞いてみるか)
そんな、朝凪へのちょっとした同情と答え合わせの意味を込めて、刹那はさらに声を落とした。
「……じゃあ、朝凪は?」
問われた桜桃は不思議そうに目を丸くした。
「朝凪? 違うわよ」
「……あ、そう。やっぱり違うか」
「だって朝凪には、大切な許嫁がいたから」
刹那が、水筒の水をもう一口、口に含んだ瞬間だった。
「ぶーーっ!!!」
盛大に吹き出した。
「ちょっと!」
「わ、悪い……ゲホッ、え、ちょっと待て」
刹那は慌てて口元を拭いながら、信じられないという目で桜桃を凝視した。
「許嫁って……お前とは別に、他に女がいたってことだよな?」
「そうよ。当たり前でしょ」
「なんでお前がそれ知ってんだよ」
「昔、本人から聞いたから」
刹那はしばらく、声も出ずに固まった。あの朝凪に、そんな浮いた話があったなど初耳だった。
「その人は今……」
「もういないけどね」
桜桃は寂しそうに笑った。
刹那は、それ以上は聞けなかった。
「今でも、朝凪はお花を季節ごとに供えてるわよ」
刹那は屋敷に飾ってあった白い花を思い出した。
(あいつ、姫に貢いでたんじゃなくて、死んだ婚約者に供えてたのかよ……!)
とんでもない切ない真実と、自分の見事な勘違いに、刹那は背筋が寒くなるのを覚えた。
桜桃はそれ以上、何も言わなかった。
少しの間、二人で静かに風の音を聞いていた。
朝凪が消えた先を、桜桃はぼんやりと見つめる。
──六花。
朝凪が自分をその名で呼ぶ声は、いつもどこか、特別な響きが混ざっている気がしていた。
優しいというよりは、大切に扱っているような、慈しむようなそんな響き。
それはきっと、彼が今でも、その人のことを想っているからだ。
もうこの世界にはいない、大切な人を。あの名前の響きに、その面影を重ねているのかもしれなかった。
(……朝凪には、いつか誰かと幸せになってほしいな)
桜桃は、祈るようにそう願った。あんなに優しくて静かで、誠実な男なのだ。
ただ――その隣にいるのは、自分ではないような気がした。
それがなぜなのかは、今の桜桃には、まだよく分からなかった。




