第十八話 皇子、切り捨てる
――甘やかな前日の空気は、夜明けの凍てつく風にあっさりと吹き消された。
翌朝、蘇原の空はどんよりとした鉛色に包まれていた。昨夜の風の音は止み、代わりに広場を支配していたのは、凍りついた泥と血の匂い、そして容赦のない現実の足音だった。
朝凪と千弦は夜明け前から、負傷者を収容した仮設の救護所へ向かっていた。
桜桃が、冷え切った手で祭具を一つひとつ布にまとめていると、遠くの兵たちの間で交わされる乾いた声が、風に乗って聞こえてきた。
「――首謀者らの処刑が決まった」
「総大将、昊夜様の直命だ。見せしめとして、間もなく執行される」
その言葉が鼓膜に届いた瞬間、桜桃の顔から、すうっと血の気が引いた。
脳裏に、昨日の壁際に座り込んでいたあの父親の姿と、上着の端を握りしめていた「千草」という名の子供の、あの丸い瞳が鮮烈に蘇る。
気づいたときには、桜桃は走っていた。
重い神祇官の衣の裾を乱暴に掴み、ぬかるむ泥に足を取られそうになりながら、必死に広場を見回して昊夜の姿を探す。
広場の端、処刑台となる木組の近くで、昊夜は数人の将兵に指示を出していた。
「待ってください!」
桜桃の悲痛な叫びが、広場に鋭く響いた。
周囲の兵たちが一斉に振り返り、その視線の中心で、昊夜もまた静かに首を巡らせた。
桜桃は息を切らせながら、昊夜の目の前に立ちはだかった。
「処刑は……処刑は、待ってください」
昊夜は、感情の波を一切感じさせない黒眸で、じっと桜桃を見下ろした。
「下がれ」
「待ってください!」
「六花」
「彼らは、ただ生きるために立ち上がったんです! 秋に実った粟をすべて奪われて、冬を越せなくて、子供が飢えて死にそうになって……それでも誰も助けてくれなくて、だから、動くしかなかったんです!」
「――分かっている」
昊夜の声は、ひどく静かだった。それが、かえって桜桃の胸を突き刺す。
「分かっていて……それでも、処刑するんですか」
「そうだ」
桜桃は息を呑んだ。心臓が激しく波打つ。
「なぜですか……!」
「今日、一の首を斬らなければ、明日、各地で百の民が死ぬことになる」
いつも通りの、硬く静鳴した声だった。決して血も涙もない悪鬼の声ではない。ただ、すべてを背負うと己の魂に誓い、決めている人間の声だった。
「ここで首謀者を生かせば、法は死に、各地で同様の暴動が連鎖する。これが、今この国において、死者の数を最も少なく抑えられる唯一の判断だ」
「でも、彼らは本当の悪人じゃない! 追い詰められただけの、ただの民で……」
「それは感傷だ。統治の判断に混ぜるべき問題ではない」
正論だった。あまりにも隙のない正論に、桜桃は言葉を詰まらせた。
それでも、目の前で淡々と死を宣告するこの男を、どうしても受け入れることができなかった。
「……昊夜様は、苦しくないんですか」
桜桃はゆっくりと顔を上げた。
「私には、助けられる命を、見捨てることはできません」
昊夜の瞳が、わずかに揺れる。
「姫」
いつの間にか傍に来ていた刹那が思わず名を呼ぶ。
彼の顔からは、いつもの軽さが消えていた。
刹那の頭の中で、一瞬だけ目の前の少女と違う誰かが重なる。
桜桃は構わず続けた。
「法を守ることが大切なのは分かっています。でも、助けられる人が目の前にいるのに、助けない理由などありません」
昊夜の視線が、真っ直ぐに桜桃を射抜いた。
ほんの一瞬。だが、肉体を物理的に貫かれたかと錯覚するほどの、剥き出しの鋭い眼光が飛んできた。
桜桃は、肺の空気をすべて奪われたように息が止まった。
(この目……私は、知っている)
どこで。いつ。それを手繰り寄せる間もなく、桜桃の身体は本能的な恐怖によって、一歩後ろへと引き下がっていた。頭で考えるより先に、足が動いていた。
昊夜はすぐに視線を前へと戻した。何事もなかったかのように、再び静かに口を開く。
「苦しいか苦しくないかは、関係ない」
声は、いつもの昊夜に戻っていた。
だが、桜桃の脳裏には、今の一瞬の「目」が焼き付いて離れなかった。
あれは、他人を突き放す冷たい目ではなかった。理不尽な問いへの怒りでもなかった。
ただ、誰の手も届かない深い奈落の底で、一人きりで痛みに耐え続けているような――触れてはいけない絶望を見てしまったような、そんな戦慄だった。
「苦しければ、正しい判断ができるのか。苦しめば、死者の数が一人でも減るのか」
桜桃は、何も答えられなかった。
「感情を持つことは否定しない。だが、それを判断に混ぜるな。濁るだけだ」
「……それが、あなたのやり方ですか」
「上に立つ者とは、選ぶ者のことだ」
昊夜は、蘇原の街並みを遠く見つめながら、静かに言った。
「救うべき者と、切り捨てるべき者を……誰かが選ばなければならない。その手を血に染める者がいなければ、国は瓦解する」
桜桃は、その大きな背中を見つめた。
「その、誰もやりたがらないつらい役を……あなたが、一人で引き受けているのね」
「……」
「……つらい役ね」
ぽつりと言った言葉に、昊夜は少しの間だけ、桜桃の顔を見た。
彼は何かを言いかけて、けれど喉の奥でその言葉を押し留めた。ただ、静かに視線を前方の兵たちへと戻す。
「――下がれ」
今度の声は、先ほどまでとは少しだけ違っていた。
命令ではない。これ以上、自分を揺るがさないでくれと乞うような、拒絶の響き。桜桃には、そう聞こえた。
桜桃は、ゆっくりと一歩下がった。引きながらも、彼の頑なな横顔から目を離せなかった。
苦しいか苦しくないかは関係ない、と言い切った人の顔。
(苦しくないわけがない……)
ただ、それを吐き出し、誰かに縋るための場所を、この人はこの世界に持っていないのだ。それを自らに許していないのだと、桜桃は痛いほど理解した。
桜桃は目を伏せた。もう、反論する言葉はどこにもなかった。
彼の言うことが、正しいとも思えない。けれど、間違っているとも言えなかった。
ただ、この人がすべてを背負って選び続けているというその事実だけが、鉛のように重く残った。
そこへ、刹那が足音もなくそっと桜桃の隣に寄り添った。
「……姫、昊夜の言ってることは、大局で見れば間違っちゃいないんだ」
「分かってる」
「でも――」
「分かっているわ、刹那」
桜桃は目を伏せたまま、震える声で言った。
「……正しくて、だからこそ、余計に苦しいのね」
刹那はしばらくの間、痛々しい桜桃の横顔を見つめていた。それから、自嘲気味に息を吐き、静かに言った。
「俺も昔……同じことを思った」
「……同じ場面を、見たの?」
「まぁ、似たようなもんだ」
「どうしたの、その時」
「……俺には、どうにもできなかった。選ぶことも、身代わりになることもな」
刹那は少し、どんよりとした曇天を見上げた。
「だから今でも、俺は戦ってやつが死ぬほど嫌いなんだと思う」
桜桃は刹那を見た。刹那は空を見上げたまま、いつもの軽い口調を消して言葉を続けた。
「でもさ姫、覚えておいてくれよ」
「何を?」
「昊夜はああやって冷てえ顔して突っぱねたが……あいつも、ちゃんと生身の人間だ。あいつだって、血を吐くほど苦しいんだよ」
桜桃は、少し間を置いてから答えた。
「……分かってる」
「ほんとに?」
「……ええ。分かってる」
刹那は少しだけ、安心したように口の端を上げた。
「なら、いい」
二人で並んで、しばらくの間、無言のまま佇んでいた。
遠くで、処刑の始まりを告げる兵たちの野太い声が響き渡る。
桜桃は静かに目を伏せたまま、その冷たい終わりが通り過ぎるのを、ただじっと耐えるようにその場に立ち尽くしていた。
***
広場の端、炊き出しの煙がうっすらと漂う荷台の陰で、一仕事を終えた兵たちが声を潜めて話し込んでいた。
「いやしかし、今回の戦は……強い人が多すぎやしなかったか?」
「ああ、特にあの日向殿だろ。一振りしただけで、目の前の人兵が地に伏せていったぞ。あれは人間の業じゃねえ」
「朝凪殿の立ち回りも凄かったな。風が抜けるみたいで、ああいう静かで隙のない動きは、普通の軍中じゃお目にかかれない」
「強いといえば、やっぱり総大将の昊夜殿も外せねえな」
一人の若い兵が、腕をさすりながら少し身震いするように言った。
「疾風殿の援護に降り立った昊夜殿は、まるで戦場に舞い降りた鬼神みたいだったが……。いや、それより、あんなに言葉を失うほど強かったんだなと思って」
「なんだ、お前、知らないのか?」
年嵩の兵が、周囲を気にするように声を少し低くした。
「前帝を討ち取ったのは、他ならぬ昊夜殿だって噂だぞ」
「……前帝殺しの、ってあの悪名高き……」
「ああ。まあ、あくまで宮廷や都の噂だがな……。だが、今日あの圧倒的な強さと、さっきの処刑を下した横顔を見ちまうと、あながち嘘でもない、本当の話なんじゃないかって思えてくる」
「国を救う英雄が、前帝殺しの反逆者、か……」
兵たちのひそひそ声は、冷たい風に混ざりながら、いつまでも続いていた。
その声を、誰が聞いているとも知らずに。




