第十九話 皇子、勧誘する
その夜、桜桃は深く、底のない沼に沈み込むような夢を見た。
忘れたくても決して忘れられない、あの日、すべてが血と炎に消えた夜の記憶だった。
肌を刺す、凍てつくような冷たい夜気。
鼻腔を無遠慮に突き刺す、生々しい鉄の匂い。
どこまでも、どこまでも長く伸びた宮城の回廊を、桜桃は必死に走っている。
胸を引き裂くような、悍ましい予感がしていた。
心臓が潰れそうなほど苦しくて、どれだけ口を開けても息がうまく吸えない。
それでも、足だけは止められなかった。止めれば、大切なものがすべて消えてしまうと分かっていたから。
父を呼ぶ自分の声が、他人のもののように遠くへ消えていく。
ようやく辿り着いた回廊の先は、異様な、世界が死に絶えたかのような静けさに包まれていた。
床に転がった灯火が、今にも消えそうにゆらゆらと揺れている。
その頼りない薄明かりのただ中で――星河帝が、崩れ落ちていた。
本来なら清浄であるはずの、白い御衣へみるみるうちに広がっていく不吉な赤。
どくどくと、漆黒の床へ容赦なく滴り落ちていく、父の血。
桜桃の喉の奥から、言葉にならない、形を成さない悲鳴がかすれて漏れた。
駆け寄ろうとした、その時。
父の物言わぬ骸の傍らに、誰かが立っていた。
男だった。
その手には、月光を浴びて妖しく光る、どろりと血に濡れた剥き出しの刃。
けれど、顔が見えない。
まるでそこだけ闇が深く凝固しているかのように霞がかかり、どれだけ目を凝らしても、どうしても男の輪郭を掴むことができない。
ただ、その人物は、桜桃の気配を察してゆっくりとこちらを振り返った。
――ぞくり、と全身の毛穴が逆立ち、背筋が粟立つ。
知っている気がした。
この目を。
あの射抜くような鋭い視線を。
確かに見たはずなのに、なぜか霧がかかって分からない。
どうして思い出せないのか。
あれは――あの日、父を殺したのは、一体誰だったの。
「っ……!」
そこで桜桃は、弾かれたように跳び起きて目を覚ました。
ゼイゼイと荒い呼吸が喉を激しく震わせ、しばらくの間、自分がどこにいるのかすら分からなかった。
外は、まだ深い闇の中だった。
薄い障子の向こうで、冬の容赦ない強風がゴウゴウと木々を鳴らしている。
額にはべっとりと、冷たい嫌な汗が滲んでいた。
桜桃は震える指先を、胸元で強く、痛いほどに握り締めた。
どれだけ瞬きを繰り返しても、夢の中で見たあの血に濡れた不気味な刃と、闇の奥から自分を射抜いた鋭い「眼光」だけが、いつまでも脳裏に焼き付いて離れなかった。
***
戦の後片付けがようやく一段落した頃。
昊夜は、蘇原の薄暗い詰所の外に立ち、一人で風に吹かれていた。冷えた空気の奥には、未だ硝煙と戦の匂いがかすかに混ざり合っている。
静まり返った背後から、足音もなく朝凪が近づいてくる気配がした。
昊夜は空を見つめたまま口を開いた。
「朝凪」
朝凪がぴたりと歩みを止める。
昊夜は、振り返ることなく続けた。
「以前、私がお前に言ったことを覚えているか」
朝凪は少しだけ、夜の静寂を挟むように間を置いた。
「……宮廷に仕える気がないなら、私の前に二度と現れるな、と言ったことか」
「そうだ」
昊夜は静かに言葉を重ねる。
「羽州の時は、……六花の護衛として赴いた。それは分かっている」
「ああ」
「だが、今回は違う。お前はただの神祇官の護衛の枠を超え、自ら志願して私の戦に加わった」
昊夜はそこで、ゆっくりと振り返った。怜悧な黒眸が朝凪を真っ直ぐに捉える。
「お前が私の前に現れたということは、そういうこと――すなわち、私の下につく覚悟ができた、ということでいいのか」
しばらくの間、二人の間に重い沈黙が落ちた。
朝凪はすぐには答えなかった。表情の乏しいその横顔からは、心の機微を読み解くことはできない。
昊夜は逃げ場を塞ぐように、朝凪を正面から見据えて静かに告げた。
「朝凪、私はお前の実力を、誰よりも評価している」
確かな敬意を孕んだ重い間が流れる。
その沈黙を破ったのは、朝凪のぼそりとした呟きだった。
「……随分と偉そうだな」
「何?」
「近衛中将の職は、もともと私の後釜のくせに」
「は?」
昊夜の声が、わずかに裏返るように上がった。
「いや」
「……今、何と言った」
「何も言っていない」
昊夜は眉をひそめ、しばらく朝凪の顔を険しく睨みつけた。
朝凪はどこ吹く風といった様子で、静かに前を向いたままだ。
昊夜は小さく息を吐き、再び本題へと戻った。
「……朝凪、私を主君として選べ」
朝凪はやはり答えない。
昊夜は一歩も引かずに続けた。
「この混迷を極める国を正すには、お前の力が必要だ。それだけだ」
またしても、沈黙が二人を包み込む。
やがて、朝凪がゆっくりと、静かに口を開いた。
「……お前が次の帝になるというのなら、私はそれでもいいと思っていた」
昊夜の目が、わずかに動く。
「どういう意味だ」
「お前のやり方は……大局を見て、時に非情な決断を下すその在り方は、星河帝とよく似ている」
朝凪は、淡々とした声音のまま続けた。
「星河帝が生きておられたなら、私は何も迷わず、星河帝の意志を継ぐお前の刃となり盾となっただろう」
「……だが、今は迷っていると」
「ああ」
「なぜだ」
朝凪は少し間を置いた。その脳裏には、夕闇の広場で傷ついた人々に水を配り、冷え切った手を擦り合わせながら声をかけ続けていた桜桃の姿があった。
「――見てしまったものがあるからだ」
「何を」
朝凪は、誰の名も直接は口にしなかった。
「……傷ついてなお、全てを、一人残さず助けようと手を伸ばしてしまう……そんな人間を、見てしまった」
昊夜の胸に、鋭い痛みが走った。
誰のことを言っているのか。朝凪の視線の先にいつも誰がいるのか。
「それが、この乱世において、どれほど甘くて危ういものかは分かっている」
「分かっているなら――」
「それでも」
朝凪の声の響きが変わった。静かな、しかし絶対に折ることのできない、武人としての強固な意志。
「……私は、その甘さを、命に代えても守ってやりたいと思う」
静寂が、詰所の外を支配した。
昊夜はしばらく黙っていた。朝凪が一体何を見て、誰のために自分の誘いを拒み、迷っているのか。
その「甘さ」が、かつて帝都の大火で失われたはずの、あの至高の光であることに、昊夜は気づきかけていた。
しかし、それを今ここで引き摺り出す確信も、資格も、まだ持ち合わせてはいない。
「私たちは……人の死に、慣れすぎた」
朝凪は自戒を込めるように、寂しげに続けた。
「慣れるしかないと割り切り、切り捨てることを、当たり前だと思いすぎた」
朝凪は小さく、夜の冷気を吸い込んで息を吐いた。
「ただ一人、慣れなかったのは刹那だけだ。だからあいつだけが、戦場から離れた」
昊夜は何も言い返せなかった。
自分が今日下した処刑の判断、その冷たい天秤。慣れなければ、この席には座れない。
「……無理だ」
朝凪が静かに、決定的な拒絶を告げた。
「お前を選ぶことは、私にはできない」
昊夜は黙ったまま、朝凪の横顔を見つめた。
朝凪は「今は無理だ」とは言わなかった。「いつかは」という含みも残さなかった。
ただ、絶対に交わらない平行線のように「無理だ」と言った。それだけだった。
昊夜はやがて、諦めたように静かに歩き出した。すれ違いざまに、言い残す。
「……考えておけ」
朝凪は答えなかった。
昊夜の背中が、静かに遠ざかっていく。
朝凪は、その背中をただ見送りながら、十年ほど前、朝凪がまだ朝廷軍に所属していた頃に、自分の後輩として朝廷軍に入ってきた昊夜の姿を思い出した。
剣を教えたのは自分だった。昊夜は素直に、すべての技術を吸収していった。
あの頃の昊夜は、もうどこにもいない。
「一人を斬って百人を救う」
それは大局で見れば、決して間違いではない。
けれど、あの頃の昊夜なら、百一人すべてを救う道を探し求めたはずだ。
「考えておけ」と昊夜は言った。
だが、どれだけ思考を巡らせても、導き出される答えは変わらない。
昊夜の進む道と、自分の歩む道は、もう二度と交わることはない。そう思い定めていた。
ただ――。
朝凪は静かに、長い睫毛を伏せた。
傷ついてなお、他者のために手を伸ばし続ける桜桃を、この先も守り続けるというのなら。
いずれ、彼女の信念と、この冷たい世界が衝突する日が来るだろう。
そうなった時、彼女の盾として、昊夜の前に立ちはだかることになるかもしれない。
その時、自分は一体何を選び、誰を斬るのか。
風が激しく木々を鳴らす中、その答えだけは、今の朝凪にもまだ、よく分からなかった。




