第二十話 舞姫、嫌いになれない
都へと戻る道中、行軍の隊列は不気味なほどに静かだった。
いや、静かすぎた。
戦が終わったことによる心身の疲労があるのは当然だったが、重苦しさの理由はそれだけではない。
千弦は馬上から、そっと周囲の様子を見渡した。
総大将である昊夜は、微塵も表情を崩さず無言で前を向いている。
馬車の中では、桜桃が物憂げな様子で、頬杖をついて窓の外の景色をじっと見つめていた。
そして朝凪は、その馬車の斜め後ろという絶妙な位置を保ちながら、静かに馬を進めている。
誰も一言も発しない。
千弦はパチパチと瞬きをし、少し首を傾けた。
「……何か、ありました?」
誰にともなく、探るように声をかけてみた。だが、返ってくるのは虚しい馬蹄の音だけ。誰も答えなかった。
千弦は顎に手を当てて少し考えた。
(あーあ……。これ、絶対に何かありましたね、皆さん)
これ以上詳しくは首を突っ込まない方が身のためだ、ということだけは瞬時に察した。
だが、この張り詰めた空気のまま都まで何日も連れ立って帰るというのは、精神的にかなりの苦行である。
千弦が「どうしたものか」と困り果てていると、横からトントンと馬を寄せてくる影があった。刹那である。
刹那は千弦に顔を近づけ、小声で囁いた。
「重いな」
「重いですね、信じられないくらい」
「どうする?」
「どうにかしたいですね、切実に」
二人は馬を進めながら、しばらく周囲の隊列を見渡した。この嫌な空気を打破するために、生贄……もとい、使えそうな人物を探したのだ。
二人の視線が、同時に一つの背中でぴたりと止まった。
――疾風。
刹那と千弦はニヤリと目を合わせた。
「疾風様」
千弦が、わざとらしく明るい声をかけた。
「はい? なんでしょうか、千弦殿」
「武州での戦い、本当にお疲れ様でした」
「ありがとうございます。……皆さんの足を引っ張らなかったか、そればかりが心配ですが」
「何をおっしゃいますか。疾風様にとっては、これが初めての実戦、初陣だったのですよね?」
「そうですね、まあ……はい。緊張しました」
「実際に戦場に立ってみて、どうでしたか?」
「どうって……その、教科書通りにはいかないことばかりで」
疾風は馬のたてがみを弄りながら、少し真面目な顔で考え込んだ。
「……中でも、子供に泣かれたのが一番堪えましたね」
「あはは、最終的には懐かれて、笑ってくれたんでしょう?」
「そうなんですけど! 最初に全力で泣かれた時の衝撃が、その、凄まじくて……」
「一体何をしたら、そんなに泣かれたんですか?」
「ただ普通に、そっと話しかけただけなんですが!」
「話しかけただけで?」
「そうなんですよ! なんでだと思いますか! 俺、別に怪しい動きはしていなかったはずなのに!」
憤慨する若き将に、刹那が横からひょっこり顔を出して追い打ちをかけた。
「顔じゃないですか?」
「顔っ!?」
「いや、普段から結構怖い顔してますよ、疾風様」
「し、してないと思うんですけど……。ねぇ、朝凪殿! 俺、そんなに怖い顔をしてますか!?」
突然矛先を向けられた朝凪が、手綱を握ったまま淡々と、しかし容赦なく答えた。
「……少し、肩に力が入って表情が強張っていることはありますね」
「朝凪殿までそんなことを言うんですか!」
「緊張すると、自然と目つきが鋭くなるのだと思います」
「俺、そんなに緊張してたかな……」
千弦が笑いながら、擁護する。
「まぁ、子供の前では誰しも緊張しますよね」
「俺が子供相手に緊張してたってことですか?」
「いえ、逆に子供が、おっきくて強そうな疾風様に緊張しちゃったのかもしれませんよ」
「……どっちにしろ、俺のせいで泣かれてるじゃないですか!」
絶望する疾風に、刹那がニヤニヤしながらさらに言葉を重ねる。
「でもさ、終わり良ければすべて良し。最後は笑ってくれたんだからいいじゃないですか」
「そうなんですけど……最初からうまくやれなかったのが悔しくて」
「じゃあ次は、最初から笑わせればいいんですよ」
「どうやって?」
「そりゃあ、満面の笑顔で近づく一択でしょ」
「笑顔、ですか……」
疾風は生真面目につぶやくと、馬の上で顔の筋肉を無理やり動かして「笑顔」を作ってみた。
それを見た刹那の顔が、一瞬だけ引き攣る。
「……それは何というか、少し……いえ、かなり怖いですね。威嚇に見えます」
「やっぱり怖いんですか!?」
「要練習ですね。都に着くまで鏡を見てください」
「笑顔を練習するんですか、俺は! 将兵の身で!」
疾風は静かに馬に乗っている朝凪に視線を移した。
「……でも、朝凪殿だって笑わないじゃないですか」
「私は、笑おうと思えば笑えます」
「じゃあ笑ってみてくださいよ」
「嫌です」
朝凪は冷ややかに即答した。
揺れる馬車の中で、桜桃はその賑やかなやり取りをじっと聞いていた。
窓越しに聞こえてくる「笑顔を練習するんですか俺は!」という疾風の必死な叫びに、桜桃は少しだけ顔を上げた。
胸の中には、まだ昨日の昊夜の姿が重く残っている。
あの、すべてを切り捨てる覚悟をした鋭い目。その裏にある、触れてはいけない奈落のような孤独。全部がまだ鮮明で、消えてはくれなかった。
(いっそ、あんな冷たい人、大嫌いになれたら楽なのに……)
そう思った。でも、どうしても嫌いにはなりきれなかった。
そんな葛藤を抱える桜桃の耳に、また外からの楽しげな声が滑り込んでくる。
「おい昊夜。疾風様の笑顔が怖いから、お前が指導してやれよ」
刹那の恐れ知らずな声だった。
「……は?」
案の定、冷たい昊夜の声が続く。
「私に振るな。関係ない」
「いやいや、昊夜も人のこと言えないくらい笑顔が得意じゃないだろ。似た者同士、励まし合えるじゃないか」
「余計なことを言うな、刹那」
「事実だろ?」
そこへ、疾風の少し弾んだ声が食い気味に続いた。
「え……っ、俺と、昊夜兄上が、同じってことですか!?」
「ええ、実によく似たところがありますね」
「どこがですか!」
「怖い顔の威圧感がそっくりです」
「俺、昊夜兄上とは母親が違うので、顔立ちはそんなに似てないはずですが……」
「顔の造作じゃなくて、醸し出す雰囲気が似てるんですよ」
少しの間、外の空気が静止した。
「……雰囲気」
疾風の声が、目に見えて変わったのが分かった。
「俺が、昊夜兄上と……雰囲気が、似ている……?」
「ええ、そうですよ」
「……そうですか」
「疾風様?」
「いや、別に。何でもないが」
また少し、愛馬を進めるだけの沈黙。けれど疾風は我慢できなくなったように、また口を開いた。
「……本当に、そんなに似てますか?」
「似てます、似てます」
「……そうか」
「あ、疾風様、めちゃくちゃ嬉しそうですね」
「う、嬉しくない!」
「いや、顔がだらしなく緩んでますよ」
「緩んでない!」
「緩んでますって」
「緩んでないと言っているだろう!」
千弦が横から楽しそうにチャチャを入れる。
「疾風様、今の顔の方が全然怖くないですよ。さっきの作り笑顔の百倍良いです」
「今の顔って……」
「さっきよりずっと、表情が柔らかいです」
「……そうですか?」
「ね。昊夜様のことを考えると、自然と表情が和らぐんですねぇ」
「なっ……! そういう話をしているんじゃない!」
疾風が真っ赤になって抗議する中、刹那が「おーい」と前方を歩く背中に声をかけた。
「疾風のやつ、お前に似てるって褒められて、耳まで真っ赤にして喜んでますよ」
「……見れば分かる」
「せっかくだから、なんか一言声をかけてやったらどうですか? 兄上」
少しの、気まずいような沈黙が流れた。
「……疾風」
「はいっ!」
疾風の返事は、驚くほど早かった。隊列の後方まで響き渡らんばかりの勢いだった。
「……初陣の割には、精が出るな」
「え、あ……はは、まあ……っ」
途端に、疾風の声が、嬉しさと気恥ずかしさで上ずった。
「……そういうわけでも、ないですが。精進、します」
「そうか」
「あの、昊夜兄上は……俺と雰囲気、その、似てると思いますか?」
また少し、重厚な沈黙。昊夜は、ほんの少しだけ息を吐くように言った。
「……どうだろうな」
「どっちですか!」
「……お前が私の名前を汚さない限りは、悪くはないんじゃないか」
「悪くはない……っ!」
すかさず千弦の突っ込みが入る。
「あーあ、疾風様、今度は顔が完全に崩れてますよ」
「崩れてない!」
「崩れてます。デレデレです」
「見るな! 前を向け!」
馬車の中で、その一連のドタバタ劇をずっと聞いていた桜桃は――気づいたら、ぷっと小さく吹き出していた。
胸の中のあの重苦しい鉛のような塊は、確かにそこにある。消えてはいない。
けれど、外の男たちの他愛もない、温かいやり取りを聞いているうちに、その重みが少しだけ、ふっと軽くなった気がしたのだ。
一度笑ってしまうと、なんだかおかしくてたまらなくなり、桜桃は声を立てて笑った。
「……あはははは」
その澄んだ笑い声に、刹那が真っ先に振り返った。
「お、姫が笑ってる」
「笑ってますね」
「よかった」
刹那は安心したようにそれだけ言うと、またいつもの飄々とした様子で前を向いた。
千弦もそっと馬車の窓に視線を送り、嬉しそうに小さく目を細めている。
疾風はといえば、まだ顔を真っ赤にしたまま、必死に平静を装って前を向こうと背筋を伸ばしていた。
朝凪は、何も言わなかった。
ただ、馬車の窓から覗く桜桃の笑顔を、一度だけそっと盗み見るように確認すると、すぐに視線を前方に戻した。
いつもは静かな横顔が、少しだけ和らいでいるように見えた。
昊夜は変わらず前を向いていた。
ただ、その広い背中と、わずかに見える横顔の輪郭が、先ほどまでの刺々しいものとは、ほんの少しだけ違っている気がした。
……気のせい、かもしれない。
それでも桜桃は、もう一度だけその横顔を視線で追いかけてから、今度はすっきりとした心地で、流れていく窓の外の景色へと視線を戻すのだった。




