第二十一話 元近衛大将、否定しない
蘇原から少し離れた朱明家の仮陣所では、日和が暁から今回の戦の詳細な報告を受けていた。
向かいに座る暁が、軍の損害や州府の現状について淡々と経緯を説明する。日和は顎に手を当て、険しい表情でその言葉に静かに耳を傾けていた。
報告が中盤に差し掛かったその時、天幕の重い帷が音もなく開いた。
不意の気配に日和が顔を上げると、同時にその身体が石のように固まった
「……兄上」
一拍置いて、信じられないというようにもう一度、今度はひっくり返った声が響く。
「――兄上!!」
ふらりと入ってきたのは、他ならぬ日向だった。
彼は取り乱す妹を前にしても特に驚いた様子はなく、いつも通りの不遜な態度で空いている席に腰を下ろした。
「日和」
「なぜここに……! 連絡もなく……!」
「通りかかった」
「こんなところに通りかかるわけありますか!」
日和は思わず声を荒らげたが、兄のあまりにも泰然とした態度に毒気を抜かれ、深く息を整えた。
横から、暁が静かに助け舟を出すように口を添える。
「……日向殿が戦場に駆けつけ、加勢してくださったおかげで、暴動の鎮圧は予想よりも早く完了しました」
「そうか……」
日和は改めて日向を見た。
何年もまともに言葉を交わしていなかった、実の兄の顔。その刻まれた皺と、変わらぬ底知れぬ眼光をしばらく黙って見つめていた。
謀反の後、風の噂で生きているとは聞いていたが、こうして実際にこの目で見るまでは信じられなかった。
日和は、少しだけ肩の力を抜いて、安堵のため息を漏らす。
「……何はともあれ、ご無事で何よりです」
「お前もな」
気を取り直すように、戦後処理の報告が再開された。
暁が州府の財政や役人の処分について話を続ける中で、日向が不意に、懐から折りたたまれた二枚の紙を取り出した。
「日和、これを」
掠れた声とともに、机の上へ置かれる。
不審に思った日和が一枚目を手に取り、丁寧に広げて目を走らせた。一瞬ごとに、その表情が険しくなっていく。
「……これは」
「蘇原の州府に直接届いていた公文書だ。今年の徴収基準を、例年より大幅に引き上げるよう指示している」
「これをどこで……?」
「戦後のどさくさの中、州府の奥の執務室で見つけた」
日和は食い入るように文書を見つめた。
「……民部省から?」
「ああ。署名も印もある。形式にも不備はない」
「では、中央から下りた指示だったのですか」
「少なくとも、この文書はそうだ」
日向はそう答えると、もう一枚をその隣へ広げた。
「だが、妙なのはこっちだ」
暁と日和の視線が、同時に二枚目へ落ちる。
「蘇原周辺に置かれていた地方兵の配置変更書だ。西部街道の警備を理由に、兵の一部を蘇原から外している」
日和が顔を上げた。
「それなら、私も聞いています。あの頃、西部の治安が悪化したと」
「俺も調べた」
日向の指が、文書の日付を叩く。
「襲撃は二件。いずれも小規模で、死者も出ていない。それに対して動かした兵が多すぎる」
日和は何も言わなかった。
日向は一枚目の徴収指示書を引き寄せ、二つの日付を並べる。
「そして、蘇原の徴収基準が引き上げられたのと、ほぼ同じ時期だ」
天幕の中が静まり返った。
暁が日向を見る。
「……偶然だと思いますか」
「思わん。一つなら、判断を誤ったで済む。不作の年に徴収を誤り、民を追い詰めた。それだけなら、ただの失政だ」
日向の指が、今度は配置変更書へ移る。
「だが、同じ頃に、蘇原から兵まで遠ざけている」
日和の顔から、ゆっくりと血の気が引いた。
「……まるで」
以前、暁の前で飲み込んだ言葉が、今度は止まらなかった。
「反乱を、起こさせるために」
「ああ。民を限界まで追い詰め、そのうえで、暴発したときに抑える兵を退かせた」
暁が眉を寄せる。
「では、州府が」
「まだ分からん。徴収の指示は中央から下りている。兵の配置変更も、正規の手続きを踏んでいる。誰かが偽の文書を作ったという話ではない」
「ならば……」
「本物の命令を出せる人間を、誰かが動かした。あるいは、本物の命令を出せる場所に、最初からそいつがいる」
日和は二枚の文書を見つめたまま、静かに問う。
「……誰なのですか」
「さあな」
日向は短く答えた。
「だが、蘇原の民が勝手に暴れたわけでも、相良が欲を出しすぎただけでもない。誰かがここを燃えるように仕向けた。その痕跡だけは残っている」
暁は痛ましげに目を伏せた。
飛燕の顔が脳裏をよぎる。
民のために立ち上がったはずのあの男もまた、何者かの大きな意志によって、知らず知らずのうちに操られていたのだろうか。それとも――。
日向は折りたたまれた文書を、大きな手で暁の方へと押し出した。
「お前が持っておけ」
「……はい」
暁は文書を受け取り、大切に懐へと仕舞い込んだ。
一通り真面目な話が落ち着いたところで、日和は張り詰めていた緊張を解き、深くため息をついた。
「……それにしても兄上、早く我が家に戻ってきてください。私の娘たちは皆、他家へ嫁いでしまい、朱明の正統な跡継ぎがいなくて困っているのです」
「急ぐな」
「急がないと、いつになるんですか。もうお互い若くはないのですよ」
「……そのうちな」
「そのうち、では困ります! 私は一刻も早く、兄上に正式に当主の座を継いでもらいたいのです」
「そう言われても、俺にだって跡継ぎはいないぞ」
兄妹の押し問答を横目で見ていた暁が、そこで静かに口を開いた。
「……六花殿がいるではないか」
今度は日和が、呆気にとられた顔で暁を見た。
「……それが、六花とも随分連絡が取れなくて困っているんだ」
「彼女は今回の武州の戦に同行されていましたよ。日向殿の娘御でしょう」
「六花が……戦地に!?」
日和は、裏切られたと言わんばかりの目で日向を凝視した。
「兄上! なぜそれを、今の今まで私に言わなかったのですか!」
「言う機会がなかった」
「機会がなかったって……! 一体あの子は今、どこで何をしているんですか!」
「宮廷で、神祇官として働いている」
「宮廷で!?」
日和はあまりの衝撃に、少し頭を抱えて座り込んでしまった。
自由奔放な兄だけでなく、その娘までが自分の預かり知らぬところで歴史の表舞台に立っている。
それから、日和はふと何かを思い出したように顔を上げた。
「……待って。そういえば、六花には『許嫁』がいたはずだろう」
日向は何も言わず、ただ黙っていた。
「朝凪だ。あの男は今、どうしている」
「宮廷にいる」
「なら話は早い。そのまま朱明へ婿に迎えればいい。六花と婚姻させ、いずれ家を継がせる」
「勝手に決めるな」
「何が不満なんです。以前会ったときも、随分しっかりした若者だったでしょう。近衛での評判も悪くない」
日和はそこで少し考え、満足そうに肯いた。
「あれなら六花を任せてもいい。兄上のように、家を放り出してどこかへ消えることもなさそうですし」
「……俺を基準にするな」
「何より、あの子が朝凪を嫌っていないのだろう?」
日向は答えず、静かに温い湯飲みを持ち上げた。
「だったら決まりです。六花を朱明へ戻し、朝凪を婿に迎える。これで跡継ぎ問題も一挙に解決するではないか」
「……考えておく」
「考えておく、じゃないんです! いつまであの二人を放っておくつもりですか!」
「だから急かすな」
「急かさないと、兄上は一生動かないでしょう!」
暁は、黙って二人のやり取りを見つめていた。
それから、静かに長い睫毛を伏せる。
──六花。
六花が幼い頃に一度会ったきりで、もう顔も覚えていなかったが。
神祇官として武州に現れた、瑞々しくもどこか高貴な雰囲気を纏った娘。
普段は世捨て人のように生きている日向が、わざわざ重い腰を上げてまで武州の戦場に現れた理由。
そして、常に傍に寄り添い、彼女を護っていた朝凪。
何より今、日和が口にした「六花の許嫁」の名が――朝凪。
暁は思考を巡らせながら、静かに茶を一口、喉へと流し込んだ。
(やはり、日向殿の娘だったか)
また一段と確信が深まっていった。




