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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第四章 地は割れ、刃となる【武州動乱編】

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第二十五話 約束の四人

 人気《ひとけ》のない廊下の端まで辿り着き、桜桃はようやく足を止めた。


 壁に背をもたせかけ、激しく上下する胸を押さえる。

 冷たい空気を何度も吸い込んで息を整えようとするが、耳の奥ではいまだに、心臓の音がうるさいほどに鳴り響いていた。


 そして、それ以上に離れなかったのは、昊夜が言いかけたあの言葉だ。


『お前は、桜桃――』


 あと一言だった。あと一歩、逃げるのが遅れていれば、あの瞳にすべてを暴かれていただろう。


 桜桃は天井を見上げ、小さく息を吐いた。


(もう、隠しきれなくなっている……)


 自分でも、本当はとうに分かっていた。


 朝凪や日向の動き。そして今さっき、暁が何気なく落としていった「許嫁」という爆弾。


 一つひとつの綻びは小さく見えても、それが積み重なって形を成したとき、嘘の壁は内側から凄まじい音を立てて崩れ去る。


 潮時かもしれない。

 いっそ、すべてを明かしてしまえば、この息苦しさから解放されるのだろうか。


 そう思った。だが――いざ、自分の正体が「桜桃」であると公に明かされた後のことを想像しようとすると、途端に頭の中が真っ白になった。


 昊夜が、どんな顔をするのか。

 欺かれていたと知った宮廷の人間たちが、どれほど怒り狂うのか。


 あるいは、その血脈をどう利用しようとするのか。


 何より、これまで「六花」として積み上げてきた、花梨や刹那たちとの他愛のない、けれど温かい関係が、すべて形を変えて壊れてしまうかもしれない。

それが、堪らなく怖かった。


「……まだ、駄目」


 桜桃はぎゅっと目を閉じた。


 押し寄せる不安と問いに、今は無理やり蓋をする。まだ、あの白檀の香りの主に、すべての真実を明け渡す覚悟はできていなかった。


 ゆっくりと目を開け、壁から身体を離す。

 桜桃は乱れた髪を指先で整えると、残る動悸を振り払うように、夜の闇が降りる廊下を再び静かに歩き出した。


***


 厳しい冬の凍てつきが、ようやく緩み始めていた。

 

 氷に閉ざされていた帝都の川面に、音を立てて水が流れ出していた。


「無事に戻られましたね」


 深黎の言葉に、その人物はゆっくりと扇を開いた。


「ええ。しかも以前より、民の信を集めたようです」


「武州でも、ですか」


「因州や羽州の奇跡だけでは、遠い土地の噂に過ぎませんでした。けれど今度は、動乱の地へ自ら赴き、民の前に立った」


 扇の向こうで、静かに目を細める。


「これで、あの方の言葉を疑う者はますます減るでしょう」


 深黎は懐から小さな包みを取り出した。


「……例のものです」


 その包みに視線だけを落とす。


「手に入りましたか」


「はい」


 包みを受け取らず、静かに問い返す。


「効き目は」


「十分かと」


 しばらく沈黙が流れる。やがて、どこか安堵したように微笑んだ。


「ようやく……揃いましたね」


 深黎も静かに頷く。


「神嘗祭には、間に合います」


 パチンと扇を閉じた。


「それは良かった」


 窓の外では、白梅の固い蕾が、冬の日差しを受けて静かに膨らみ始めていた。


 長く冷たい季節のただ中にありながら、その枝先には、まだ遠い春の気配が確かに宿っている。けれど花開くには、もう少しだけ時を待たなければならない。


 その人はその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。 


***


 桜桃の元に花梨から一通の文が届いた。

 短い、けれど断り切れない力を持った文字が並んでいた。


『皇居へ来なさい。四人で話しましょう』


 宛名は桜桃、椎香、柳の三人の名が連なっていた。


 客殿へ足を運ぶと、そこにはすでに花梨が腰を下ろしていた。机の上には色鮮やかな菓子が並び、香ばしい茶の湯気がふわりと白く立ち上っている。


「六花ちゃん、お帰りなさい!」


 桜桃の姿を認めた瞬間、花梨はぱっと大輪の花が咲いたように顔を明るくした。


「ありがとうございます、花梨様。ご無事で何よりでした」


「ふふ、私はずっとこの安全な皇居にいたから、無事も何もないのだけれど」


 花梨は悪戯っぽく少し笑った。


「でも、本当に心配していたのよ。戦火の激しい武州へ行くなんて言うから……。ちゃんと怪我もなく帰ってきてくれて良かった」


 桜桃は、「偽りの名」への罪悪感を隠すように、少しだけ目を伏せた。


「……ご心配をおかけしました。ありがとうございます」


 そこへ、凛とした足取りの椎香がやってきた。それから少し遅れて、物静かな柳が姿を現す。


『六花ちゃん。無事に帰ってきたら、またこうして話しましょう。お兄様も含めて』


 桜桃が因州へ雨乞いの舞姫として派遣されることが決まった時、花梨が言ったあの約束。いま、こうして四人が揃った。


 柳は席に着くと、まずは椎香の姿をひと目じっと見て、それから桜桃へと視線を移した。


「……約束を果たせて良かった」


「ずいぶん、お待たせしてしまいました」


「いいえ」


 柳は静かに言った。


「椎香殿がこうして元気そうで。本当に、それだけで良かった」


 その言葉の響きに、桜桃はくすりと笑い、柳を見た。


「柳様はずっと、椎香様のことを気にされていましたもんね」


 柳は視線を泳がせ、取り繕うように冷淡さを装う。


「私はただ、一度交わした約束は、男として果たさなければと思っているだけです」


「どんな気持ちで待っていたかは、別として?」


「……別として」


 二人のやり取りに、花梨が穏やかに、しかし核心を突くように口を挟んだ


「お兄様は素直じゃないから」


「花梨、それ以上は言わなくていい」


「……はーい」


 笑いながら、温かい茶を口にする。


 しばらくの間は、とりとめのない話が続いた。武州の凄惨な戦場の様子、そして留守中の都の動向。


 そんな中、ふと花梨が茶碗を置き、椎香の顔を覗き込んだ。


「ねえ、椎香ちゃん。最近はどう? 調子はどうかしら」


「……まあ、ちょっとね」


 椎香は視線を落とし、言葉を濁した。その様子に、花梨の聡明な瞳がわずかに光る。


「――疾風様のこと?」


 その名が出た瞬間、椎香の顔が目に見えて曇った。彼女は小さくため息をつくと、観念したように声を潜める。


「……正式に求婚されたの」


 思わず声を上げたのは桜桃だった。驚きで身を乗り出す。


「ええ!」


「疾風が武州から戻ったら返事が欲しいと言われて」


「疾風様が武州に行ってる間ずっとそれを抱えてたんですか」


「そう。全然落ち着かなかった」


 花梨がふと思い出したように、椎香へ顔を向けた。


「そういえば椎香ちゃん。宴のときに『将来を誓い合った仲』だと言っていた方はどうなさるの?」


「……」


 椎香の手が止まった。


「花梨、見てたの?」


「ええ。偶然」


 桜桃は目を丸くする。


「椎香様、そのような方がいらっしゃったのですか?」


「いたというか……」


 花梨がにこやかに椎香を見る。


「赤みがかった髪の、背の高い方だったでしょう? この前、門に立っているのを見かけた気がするけれど」


「……門?」


 桜桃は記憶を探るように眉を寄せた。


 赤みを帯びた髪。門に立つ男。

 一人だけ、思い当たる顔がある。


「……朝凪に似てるような」


 椎香が盛大にむせた。


「椎香様?」


「な、何でもないわ」


「でも、朝凪も門に――」


「別人よ」


「……そうですか」


 花梨だけが、何かを察したように椎香を見ていた。


 桜桃は椎香の横顔を心配そうに見つめた。


「……その方がいるから断るんですか」


「その方は関係ないけど……断りたいのよ」


 椎香は少し疲れたような顔を見せた。


「ただでさえそれで頭がいっぱいなのに」


 彼女はさらに声を落とし、周囲を気にするように視線を巡らせる。


「……皇后様が、裏で動いていると耳にして」


 桜桃の肌が粟立つ。


「皇后様が? 椎香様に、何か直接圧力をかけてこられたのですか」


「求婚の返事を急かすような文は来ているわ。けれど、それだけじゃなくて……」


 椎香の視線が、花梨へと向けられた。

 花梨は、静かに茶を持ったまま、微動だにせず佇んでいる。


「……花梨に」


 その言葉に、柳の顔が険しくなった。


「花梨」


「大丈夫よ」


 花梨はいつもと変わらぬ、にこやかな笑みを浮かべた。

 にこやかだったが――その美しい目は、寸分も笑っていなかった。


「皇后様が邪魔なのは、たぶん私自身じゃないわ。青陽家よ」


「……青陽家?」


「私が昊夜様の傍にいれば、青陽家が昊夜様の後ろにつく。そう見られるでしょう?」


 花梨はまるで他人事のように、淡々と言った。


「向こうは疾風様の地盤を固めたい。だったら、昊夜様に余計な後ろ盾がつく前に、引き離しておきたいと思っても不思議じゃないわ」


「……それは、あまりにも理不尽な」


 桜桃が言葉を詰まらせる。

 花梨が何かを企んだわけでもない。ただ誰かの傍にいるというだけで、その存在そのものが政争の一手として数えられてしまう。


「そういうものでしょう。宮廷なんて」


 花梨は、恐ろしいほどあっさりと言ってのけた。


「向こうは向こうで、自分の息子の地盤を固めるために必死なんだと思う」


「花梨様はどうするつもりですか」


「するべきことをするだけ」


 花梨の声はどこまでも静かだった。


「邪魔されても、できることをする。それだけ」


 柳はしばらく妹の痛々しいまでの覚悟を見つめていた。


「……花梨は強いな」


「強くないわよ」


「強い」


「お兄様」


 花梨は柳を見つめ返し、今度は心からの小さな笑みをこぼした。


「ありがとう」


 椎香は、その兄妹の絆の深さをじっと見つめていた。それから、自嘲気味に小さく笑う。


「……花梨みたいに強くなれたらいいんだけど」


「椎香ちゃんは椎香ちゃんでいいの」


「花梨はそう言うけど」


 椎香は再び口を閉ざし、手元の茶碗を見つめた。


「……疾風のことは、嫌いじゃないの。幼なじみだから。ただ、そういう目で見たことがなかっただけで」


「急に言われても気持ちが追いつかないですよね」


 桜桃が深く同意すると、椎香は小さく頷いた。


「そうなの。それなのに、母上たちや周りの人間が勝手に先走って、家だの血筋だのと言って動いているのを見ていると、なんだか……」


「腹が立つ?」


 花梨が、静かにその感情を言語化した。


 椎香はハッとしたように顔を上げ、きっぱりと言った。

「……腹が立つ」


「それが答えじゃないかしら」


「え?」


「自分で決めたいってことでしょう」


 椎香はしばらくの間、花梨の顔を見つめていた。

それから、何かが腑に落ちたように、少しだけ目を伏せて微笑んだ。


「……そうかもしれない」


 それまで静観していた柳が、静かに口を開いた。


「誰かに決められるより、自分で決めた方がいい」


「……そうね」


「どちらを選んでも」


 椎香はしばらく黙って、柳の言葉の重みを噛み締めていた。

 それから、小さく、しかし迷いのない動作で頷いた。


「……うん」


 桜桃は、ぬるくなった茶を一口、喉へと流し込んだ。


 花梨は、皇子妃としての重圧と、最高権力者である皇后の影に正面から立ち向かっている。


 椎香は、周囲の雑音に惑わされず、自分自身の本当の答えを探そうと足掻いている。


 この穏やかで、一見平和に見える皇居の中――見えないところで、無数の陰謀が恐ろしい速度で動き始めている。


 そして自分自身もまた、その渦中から決して逃れられない運命の中にいることを、桜桃は茶碗の底を見つめながら、静かに実感していた。


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