第二十六話 椎香の選択
椎香が去り、部屋には桜桃、花梨、柳の三人が残された。
空いた茶碗や菓子皿を侍女が手際よく片付け始めるのを手伝いながら、桜桃はふと柳へと視線を向けた。
柳は、椎香が去っていった回廊の先を、窓からまだ見つめていた。その横顔には、いつも通りの淡泊さのなかに、割り切れない複雑な影が落ちている。
「……心配ですか」
「ええ」
柳はあっさりと認めた。
「ですが、私にできることはありません」
「そうでしょうか」
「椎香殿自身が決めることです。私が口を挟めば、それもまた、彼女を縛るものになる」
桜桃はしばらくの間、柳の顔をじっと見つめ返した。
柳は至って真顔だった。感情を押し殺しているわけでも、その場を誤魔化すために嘘をついているわけでもなかった。彼は、本当にそれだけだと思っているのだ。
胸の奥にある感情の正体に、まだ名前をつけられていない、あるいは、あえてつけていない。
桜桃は、それ以上無理に踏み込むことはしなかった。
柳は前を向いたまま、少しの間、沈黙を守っていた。かすかに動いた視線が、椎香の座っていた空の座席へと落とされる。
それから、決意を秘めたように静かに口を開いた。
「……椎香殿が、何にも縛られず、自分で自分の行く先を決められるといい、と思っています」
「はい」
「家のためだとか、大義のためだとか、誰かに無理に決められるのは……椎香殿らしくない」
「そうですね。私も、そう思います」
「だから――」
柳はそこで言葉を止めた。
それ以上は何も言わず、しばらく何かを深く深く考えるような顔をしていた。
その続きが、言葉として紡がれることはなかった。
けれど、ただ見守るだけだった彼のなかで、何かが静かに、しかし決定的に動き始めたことだけは、その張り詰めた表情が雄弁に物語っていた。
桜桃はそれを見て、あえて何も言わずに、ただそっと微笑んだ。
***
椎香は帰り道、宮城の大きな門の前を通りかかった。
夕闇が迫るなか、門兵の詰所を通り抜けようとしたそのとき、ふと見知った顔が視界に飛び込んできた。
近衛としての威厳をまとい、佇んでいるのは朝凪だった。
椎香は少しだけ足を止めた。
気配を察したように、朝凪がこちらに気づき、静かに一礼する。
「……久しぶりね、朝凪さん」
「お久しぶりです」
椎香はしばらくの間、朝凪の端正な横顔をじっと見つめていた。
気づけば椎香は、見えない何かに吸い寄せられるように、彼の方へと歩み寄っていた。
「……少し、いいですか」
「はい」
詰所の脇、人通りの途絶えた石壁の影に、二人は並んで立った。
椎香はしばらく何も言わず、ただ手元の衣の端をきつく握りしめていた。朝凪はせかすこともなく、何も言わずにただその沈黙を待っている。
「……疾風に、求婚されたの」
椎香がぽつりと零した。
朝凪の表情は動かなかった。
「聞いています」
「あいつ、戦から戻ってきたら返事を聞かせて欲しいって……そう言って戦地に向かったわ」
「そうなんですね」
椎香はまた、しばらく黙り込んだ。心臓が痛いほどに脈打つ。
「朝凪さん」
「はい」
「――止めてくれない?」
朝凪は、その涼やかな瞳を静かに椎香へと向けた。
「止める、とは」
「この縁談よ。あなたが、もし『やめてくれ』と一言言ってくれたら……私には、周囲から反対されたという理由ができる。抗うための言い訳ができるの」
朝凪はしばらくの間、彫刻のように黙り込んでいた。
夕暮れの冷たい空気が二人の間を通り抜けていく。
「……それは、止められません」
「なぜ」
「椎香殿、それは――あなたが決めるべきことだからです」
椎香は、自嘲気味にふっと目を伏せた。
「……分かってた。あなたなら、そう言うと思ってたわ」
「すみません」
「謝らなくていいわよ。あなたが正しいんだから」
しばらくの間、決定的な沈黙が二人の間に落ちた。
冷たい風が吹いた。椎香の髪が靡く。
「……父が流罪になって、亡くなって」
椎香が、震える声を静かに紡ぎ出す。
「翠陰家は落ちる一方よ。このままでは家がどうなるかくらい、私だって分かってるわ」
「はい」
「疾風との縁談が、我が一族を建て直すために悪い話じゃないってことも……全部、分かってる」
「……ええ」
「でも、嫌なのよ」
椎香の声が、ついに堪えきれず微かに掠れた。
「駒にされるのが。誰かの都合や、家の存続のためだけに、『はいそうですか』って嫁いでいくのが」
朝凪は何も言わず、ただその悲痛な叫びを黙って受け止めていた。
「疾風が、男として嫌いなわけじゃないの。あいつは優しいし、幼馴染だもの。でも、こういう形で勝手に外枠を決められるのが……どうしても耐えられない」
気付けば、椎香の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ち、頬を伝っていた。
自分でも泣いていることに気づかなかったらしく、椎香はハッとして少し驚いた顔をした。それから、ひどく悔しそうに指先で手早く涙を拭う。
「……みっともないわね。取り乱したりして」
「そんなことはありません」
朝凪は静かに、しかし断固とした響きを込めて言った。
「誰かに縛られたくないという椎香殿のそのお気持ちは、人として、至極正しいと思います」
「正しくても、現実にはどうにもならないのよ」
「……そうですね」
椎香は少しだけ笑ってみせた。悲しみと諦めが混ざり合った、泣き笑いのような、痛々しい顔だった。
「本当に、意地でも止めてくれないのね」
「止めません」
「薄情な人ね」
「……そうかもしれません」
椎香はまた小さく、今度は少しだけすっきりと笑った。それから、赤くなった目で暮れなずむ空を見上げた。
「……結局、自分で決めるしかないのよね。誰も代わりに泥を被ってはくれない」
朝凪は答えなかった。答えなかったが、その沈黙こそが「その通りだ」という答えだった。
椎香はしばらくの間、その暗くなっていく空を見つめていた。それから、迷いを断ち切るように踵を返した。
「……ありがとう、朝凪さん」
「私は、何もしていません」
「ううん、私のくだらない話を、最後まで聞いてくれたわ」
朝凪は静かに頭を下げた。
椎香の背中が、門の向こうへと消えかけていく。
朝凪は、しばらくその去り行く後ろ姿を見つめていた。
結局、自分は彼女を止められなかった。いや、止める言葉も、それだけの資格も持っていなかった。
ただ、没落しかけた貴族の娘の境遇に、一時の同情を寄せた。それだけだった。
椎香が、完全に背を向けて歩みを進めようとした、まさにその時だった。
門の向こうから、真っ直ぐな声が響いた。
「――椎香」
椎香は、落雷に打たれたかのように、ピタリと足を止めた。
その声に、聞き覚えがありすぎた。
驚きに目を見開きながら、ゆっくりと振り返る。
門の視界の先に、静かに佇む人影があった――。




