第二十四話 皇子、ようやく気付く
夕刻の光が斜めに差し込む執務室で、山積みにされた書類は机の端に置かれたまま、一切の手をつけられることなく放置されている。
昊夜は座ったまま、微動だにせず、ただ暮れなずむ窓の外の景色を凝視していた。
日向が、あの蘇原に来た。
表舞台から姿を消していたはずの男が、わざわざ自ら戦地へ、そして六花の元へと現れた。
あの男が、それほどまでに容易く動く理由。
そして──あの朝凪の不自然なまでの態度。
六花は日向の娘。周囲にはそう説明されていたし、昊夜も一度はそれに納得しかけた。だが、それだけでは到底、説明がつきようもない。
あの二人は、六花という存在に対して、あまりにも献身的すぎた。
あれは、親が子に注ぐ愛情や、元皇女の仕え同士として相手に向ける信頼のそれではない。
まるで――本物の主君を前にして、命ごと己を捧げて傅く、忠義の従者のように。
淡く、しかし確かに形を持ち始めていた輪郭が、少しずつ縁を帯びていく。
(六花は――桜桃様、か)
昊夜は遠くを見るように、視線を窓の外の、茜色から群青へと移り変わる空へと向けた。
その脳裏に、古い記憶の断片が、昨日のことのように蘇ってくる。
八重御所の奥、重厚な帳の垂れる御所に呼び出されたのは、十五の冬だった。
星河帝は、いつもより穏やかな顔をしていた。
「お前と桜桃の婚約を、考えている」
昊夜は一拍だけ間を置いた。四大貴族の勢力図、宮廷の思惑。様々な政治の意味を理解できる年齢だからこそ、その打診の重さに背筋が伸びた。
「……私でよろしいのでしょうか」
「どう思う」
「光栄に存じます」
帝の表情が、わずかに和らいだ。昊夜はそれを見て、内に秘めていた確かな熱を言葉に乗せて続けた。
「近衛に入りたいと思っております」
「なぜだ」
「陛下をお守りしたく。……陛下の傍で、この国を支える盾となりたいのです」
十五の昊夜にとって、星河帝は絶対的な正義であり、目指すべき孤高の頂だった。
そこで刀を振るうことこそが、自分の使命だと信じて疑っていなかった。
だが、帝は少し間を置いてから、静かに首を振った。その目には、深い慈愛と、それ以上に冷たい「未来への計算」が宿っている。
「お前はもう少し、朝廷軍で励んでくれ」
「……引き続き帝都を離れ、最前線で戦えと」
思わず問い返した昊夜に、帝は真っ直ぐな視線を返した。
「昊夜。私の傍にいれば、お前はただの『綺麗な剣』で終わる。だが、私が本当に欲しいのは、国がひっくり返ろうとも、決して折れない『黒鉄の刃』だ。……朝廷軍で、もう少し泥と血を味わってこい。そこでしか得られぬ強さがお前を、ひいてはいずれお前の妻となる、桜桃を守ることになる」
それは、いずれ訪れる激動の時代を見据えた、帝のあまりにも重い信頼の形だった。
「……はい。御心のままに」
承諾の言葉を口にしながらも、昊夜の頭には、帝の「本当に欲しいのは」という言葉の裏にある、ある男の影がチラついていた。
拝謁を終え、冷たい風の吹き抜ける回廊に出た。
ふと庭を見下ろすと、枯れ木の間に二つの人影があった。一つは朝凪だった。そしてその傍らには、小柄な愛らしい少女がいる。後ろ姿だったため、その顔は見えない。
ただ、朝凪の立ち方が、いつもと違った。臣下としての「三歩後ろ」ではない。
まるで、その小さな存在をいつでも自分の体で庇えるような、わずか「半歩後ろ」の距離。
(大事にできるだろうか。あの男のように)
帝の傍に立つことを許された男。
自分がどれほど望んでも、外の戦場へ弾き出されてしまうのに、あの男は、最初からその『特別な場所』を許されている。
自分は外で、血を流し、その果てにしか彼女の元へ帰れない。
答えの出ない問いを胸に抱いたまま、十五の昊夜は、遠くで朝凪の服の裾を無邪気に掴む少女の背中を、静かに見つめ続けていた。
――そんな、遠い日の記憶が、脳裏をよぎった、その時だった。
不意に襖の外から声が掛かった。
「昊夜様」
呼びかけられた名に、弾かれたように顔を上げる。
襖が開くと、そこに、桜桃が立っていた。
「……」
言葉が出なかった。
さっきまで回廊の向こうに見ていた幼い後ろ姿が、いま、目の前で美しい少女の姿となって佇んでいる。
それだけではない。かつて朝凪に半歩後ろから守られていた彼女が、いまは、自分の意思で、自分だけのいるこの部屋へと足を踏み入れてきたのだ。
これほど動揺したのは、いつ以来だろうか。自分でも分からなかった。
いつもなら一瞬で取り繕えるはずなのに、それがどうしてもできない。
胸が、かつてないほど激しく警鐘を鳴らしている。
動揺を悟られまいと、自然と彼女を見る目が、いつも以上の鋭くなってしまった。
桜桃は、そんな昊夜のただならぬ顔を見て驚いたように小さく肩を揺らした。
「……千弦さんに部屋を教えてもらいました」
桜桃は、許可なく入ったことを少しだけ申し訳なさそうに言った。
「なにか用か」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、掠れていた。
動揺のあまり冷たく突き放すような響きになってしまったが、昊夜は机の下で手を握り締めていた。
「謝りに来ました」
昊夜は黙って続きを待つ。その間も、彼女の姿からどうしても視線が外せない。
「武州で、酷いことを言いました。あなたは間違っていなかったのに」
昊夜はしばらく桜桃を見ていた。
「……いや」
「いや、ではないです」
桜桃は懐から、丁寧に折り畳まれた白い布を取り出した。
あの日、肩の傷に昊夜が巻いてくれたものだ。きれいに洗われ、端にある「菖蒲」の刺繍が、灯りの下で静かに佇んでいる。
桜桃はそれを両手で、そっと昊夜の前へ差し出した。
「前にも感情で動くなと言われました。その通りだと思っています」
「……」
「でも、切り捨てたくはないんです」
言葉が、静かに落ちた。昊夜は差し出された布と、彼女の顔を交互に見つめる。
「切り捨てなくてはいけない時は、その痛みを背負おうと思います。全部救えなくても、救えなかったことを忘れないでいようと思います。…………この菖蒲のように、花を守るための刃を持つことも、恐れずに」
昊夜は何も言わなかった。ただ、差し出された布を大きな手で静かに受け取る。
彼女の真っ直ぐな言葉が、ずっと戦場で血に塗れ、擦り切らせてきた昊夜の心に、不思議なほど優しく染み込んでいくのを感じていた。
(大事にできるだろうか)
かつて自問した答えが、いま、目の前で少しずつ形を成していく。
あの男のように優しく包むことはできなくても、この手にある切り捨てるための刃が、護るためのものにもなるならば、それでいいのかもしれない。
手の中の布は、彼女の手のひらの名残か、ほんのりと温かかった。
「……甘いですか」
桜桃が、不安げに静かに問う。
昊夜はしばらく、動悸を落ち着かせるように窓の外を見ていた。手の中の布をそっと握り込み、それから、ゆっくりと前を向いた。
「甘い」
「そうですか」
「だが、それで何度も立ち上がれるなら、甘くていい」
桜桃は少し目を見開いた。
これ以上彼女の顔を見ていると、感情を抑え込めなくなりそうで、昊夜はもう視線を書類に落としていた。それ以上は何も言わない。
だが、書類をめくる彼の指先は、先ほどまでの強張りが嘘のように解けていた。
少し顔を赤くしている桜桃は気づいていないが、彼女を視界の端に捉えている昊夜の横顔は、先ほどより少しだけ、柔らかかった。
「送っていく」
昊夜が立ち上がった。
「……なぜですか」
「ここは軍と近衛の区画だ。女が一人で歩く場所ではない」
反論できなかった。
廊下を出ると、さっきまで部屋で二人きりだった余韻が残っているのか、隣を歩く彼が近く感じられて、桜桃は意識しないように必死で前を向いた。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「六花殿」
暁がこちらを見て、目尻を下げる。懐かしむような笑顔だった。
「暁様」
「日向殿と久しぶりに会ったんじゃないか。元気そうだったな」
桜桃は一瞬だけ心臓が跳ね、身体が固まった。
「……そうですね」
「朝凪とは仲良くやってるか」
「は、はあ……」
なんだか嫌な予感がして、桜桃の背中に冷たい汗が流れる。しかし暁は、全く悪気のない様子で少し苦笑してみせた。
「いや、日和殿がうるさくてな。早く二人を結婚させろって、しつこく言ってくるんだ」
「……え」
「許嫁だろ、お前たち」
ぽん、と。
あまりにも軽い調子で、とんでもない爆弾が投下された。
廊下が、一瞬で完全な静寂に包まれた。
ピキ、と音がしそうなほど、昊夜の動きが完全に止まった。
その漆黒の目が、信じられないといったように見開かれる。
(朝凪と……許嫁……?)
昊夜の脳内で、バラバラだった破片が凄まじい勢いで展開され、一つの形を結んでいく。
十五のあの日、朝凪がいつでもその身を盾にできるよう、半歩後ろに寄り添っていたあの小さな少女。
自分が死に物狂いで戦場から広場に送り届けた瞬間、迷わずあの男の胸へと飛び込んだ「六花」。
六花として生きるということは、日向の娘になっているということ。
つまり、朝凪の許嫁になっているということ――。
自分が血に塗れてまで「いつか守り抜く」と誓った婚約者候補が、名を偽り、自分の目の届かない場所で、あの男とずっと『そういう関係』でいたのか。
昊夜の全身から、かつてないほどの凄まじい「不快」と「嫉妬」が、溢れ出した。眉間がこれ以上ないほど不機嫌に歪んでいく。
その横顔の恐ろしさに、桜桃の頭の中は真っ白になった。
(え、えーと、つまり……六花は日向の娘だから……設定上、朝凪と私が結婚する予定になってる……ってこと!? えええええええ!?)
そこまで考えて、ちらりと隣を見る。
昊夜は、怖いほど無言だった。
(……なんでそんなに怒ってるの)
いや、理由を考えるのは後だ。
少なくとも、今この場で朝凪との許嫁話を続けてはいけない。それだけは本能的に分かった。
「え、えーと、その話はまた今度ということで……!」
言い終わるよりも前に、足が先に動いていた。
「おい」
昊夜の怒気を含んだ声が背後から追いかけてくる。
足を速める。
「六花」
さらに速める。背後で、彼の重い足音が迫ってくるのが分かる。捕まったら絶対にただ事では済まない。
「お前は、六花ではないだろう」
廊下に響いたその声に、桜桃の足がわずかに鈍った。
いつもなら「六花」と呼んで一歩引いていた彼が、明確な確信を持って、逃げる背中に向けてその名を放つ。
「お前は、桜桃――」
聞こえなかったことにした。
桜桃は全力で廊下の角を曲がった。そのまま、なりふり構わず全力で走った。
後ろで暁が「え? どうしたんだ二人とも。喧嘩か?」と呑気に言っているのが聞こえた。すかさず昊夜が、何かを答えている気配がした。
桜桃は振り返らなかった。心臓を激しく波打たせながら、ただひたすらに、彼の白檀の香りから逃げ切るように走り続けた。




