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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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序

 その年、狄族との和平の証として、

 神祇官一人を狄族族長の令孫のもとへ嫁がせた。


 少女は、国の平和のため、

 涙を流すことなく旅立ったという。


 しかし、その婚姻は長くは続かなかった。

 その少女がその後どうなったのかは記されていない。

 少女の名は、その後の記録に出てくることはなかった。


 ——『帝記』より


◇


 雪が、舞っていた。

 花びらのように、ひらひらと。

 静かだった。音がなかった。

 少年は、焼け野原の中に立っていた。


 昨日まで、ここに村があった。

 人がいた。声があった。飯の匂いがあった。

 爺さんが毎朝、同じ場所で煙草を吸っていた。

 隣の家の女が、いつも同じ歌を口ずさんでいた。

 子供たちが走り回って、犬が吠えて、誰かが笑っていた。


 今は何もない。

 黒い地面が、どこまでも続いている。

 雪が降りてくる。地面に触れて、すぐに消える。


 少年はしゃがんで、地面に触れた。


 まだ、少しだけ温かかった。

 温かいのに、何もない。

 それが一番、おかしかった。


 立ち上がろうとして、できなかった。

 足が動かないのではない。

 どこへ向かえばいいのか、分からなかった。


 呼びたい名前があった。いくつも、あった。

 だが声を出せば、返事がないことを知っている。

 知っているから、呼べなかった。


(俺たちが、何をしたというのだろう)


 答えは、どこにもなかった。


 空を見上げた。

 雪が、降り続けていた。


 花びらのように。桜のように。

 何も知らない顔で、ただ静かに、降り続けていた。

 雪は誰かを選ばない。


 焼けた地にも、死んだ者の上にも、

 生き残った者の肩にも、等しく降る。

 それがひどく、腹立たしかった。


 泣けなかった。泣き方を、忘れていた。


***


 冬はもう終わろうとしていた。

 八重御所の中心に建つ紫宸殿からは、白い煙が細く、まっすぐに立ち上っていた。


 厳かな香の匂いが、冷えた空気に淡く混じっている。

 

 普段は帝への拝謁や皇家の大儀に用いられる殿舎も、今日ばかりはいつもと様子が違っていた。回廊のあちこちを官たちが慌ただしく行き来している。


 それでも、誰も声を荒げる者はいない。せわしない足音も、重なる衣擦れの音も、みな一様に低く抑えられていた。その統制された沈黙が、かえってこれから始まる式の重さを際立たせていた。

 

 婚礼の朝だった。


 疾風は、冷気の満ちる回廊の端に身を置いていた。

式が始まるまで、まだ時間がある。


 従者たちは細々とした準備に追われて周囲を動き回っていたが、張り詰めた面持ちの疾風を気遣ってか、誰も話しかけてはこない。


 それでよかった。今はただ、一人で思考を沈めていたかった。


 手すりの向こう、寒々とした庭に目を向ける。

張りつめた梢の先に、白梅が二、三輪だけ、ひっそりと花を咲かせていた。


 冬の終わりに、咲く花だ。華やかさはない。ただ静かに、けれど確かにそこにある。


(椎香は、梅が好きだったか)


 ふと頭をよぎった疑問は、すぐに確証を失って霧散する。


 これまでの月日の中で、彼女の好きな花すら尋ねたことがなかった。


 聞く機会などいくらでもあったはずなのに、そのときの自分は、彼女の何を見ていたのだろうか。


 そんな些細な悔恨が今になって、妙に引っかかった。


 背後で、衣服が擦れる微かな音がした。


 振り返ると、控えていた従者が深く一礼して告げる。


「そろそろお時間でございます」


 疾風は短くうなずき、息を深く吐き出した。


 重い足取りで回廊を歩く。紫宸殿の重厚な扉が視界に入ると、その両脇に立ち並んでいた者たちが、一斉に深く頭を下げた。


 静かに扉が開かれる。


 室内には、すでに張り詰めた空気が満ちていた。


 翠陰家の者たち、皇族側の者たち、そして中央に控える官たちが、それぞれ定められた位置に整然と並んでいる。

 白く細い香の煙が、人々の間を薄く漂っていた。


 その正面に、椎香がいた。


 一切の穢れを排したような、純白の衣を纏っている。髪は隙なく丁寧に結い上げられ、小ぶりな簪がひとつだけ挿されていた。


 その顔はまっすぐ前を向いている。少しの揺らぎも、迷いも見せない、酷なほどに端正な横顔だった。


 疾風は一歩を踏み出し、彼女のもとへと歩いた。

 その隣に並ぶ位置まで進み、足を止める。


 気配を察したのか、椎香の視線が動いた。目が合う。ほんの一瞬、瞬きをするほどの短い時間だった。それから彼女は、何事もなかったかのようにまた前を向く。


 その冷ややかな瞳の奥に何があったのか、今の疾風にはどうしても読み解くことができなかった。


 怒っているわけではない。悲しみに沈んでいるわけでもない。ただ、どこか――途方もなく遠かった。


(俺の手では、届かないところにいる)


 そう直感した。確信して、それでもなお、その隣に立っている自分がいる。


 滑稽で、馬鹿みたいだ、と自嘲する。


 だが、ここから逃げ出すつもりも、手を離すつもりもなかった。


 やがて、宮内卿の赤楊が厳かに口を開く。


「これより、婚儀を執り行います」


 澄んだ声が、静まり返った室内の隅々にまで染み渡っていく。


 疾風は正面を見据えた。


 椎香もまた、前を向いたままだ。


 二人の間に、交わされる言葉はない。


 ただ、同じ寒空の下で、同じ方向を向いて並んでいる。


 それでも疾風は、今はただ隣に立つことしかできないのだと思った。


 同じ場所に立ち、同じ方向を向いている。

 今は、それだけでいい。


 いつか彼女がこちらを向いてくれる日まで、待てばいいのだと――このときの疾風は、そう思っていた。


 式が厳かに終わり、集まった人々が静かに散っていった後。


 奥殿の片隅にある一室で、雲英は椎香と静かに向き合っていた。


 遠くで響く宴の喧噪は、厚い壁に遮られてここまでは届かない。


「おめでとうございます」


 雲英は声音を落とし、静かに祝福の言葉を口にした。


 椎香はそれに応じるように微笑む。それは先ほどの婚礼の間で見せたものと同じ、寸分の狂いもない、完璧に形の整った貼り付けたような笑い方だった。


「ありがとうございます」


「疾風殿は、真っ直ぐで、良い方です」


「……ええ」


 椎香の視線が、雲英から外れ、窓の外へと逃げる。皇居の庭に咲く白梅が、冷たい風に吹かれて小さく揺れていた。


 雲英はその視線の先を、静かに見つめ返していた。


「椎香様、これからも、よろしくお願いいたします」


 添えられた言葉はそれだけだった。


 だが、椎香はその短い一言に込められた、目に見えない責任と選択の重さを誰よりも知っていた。


「……こちらこそ」


 かすかに声を震わせ、短く答える。

 雲英は満足したように一礼すると、足音を忍ばせて部屋を出ていった。


 残された椎香はしばらくの間、閉ざされた扉をじっと見つめていた。


 やがて、諦めたようにゆっくりと窓の方へ向き直る。


 視線の先で、白梅がまた、寒風にしなるように揺れた。


(これでよかったのよ)


 自分に言い聞かせるように、心の中で強く思う。

 

 そう思いながらも、なぜか胸の奥の鉛のような重みは、いつまでも消えてはくれなかった。


***


 朝議の間は、不穏な静けさに包まれていた。

 進行役を務める民部卿の橘の声が、厳かに響く。


「武州動乱の件ですが」


 橘が、机上の別の書状を取り上げた。


「民部省から蘇原へ下った徴収指示について、内部の調査が終わりました。基準の算定に関わった者についても、処分を済ませております」


 清明が視線を上げる。


「結局、どこに問題があったのです」


「武州から上がった報告の精査が不十分なまま、担当の官吏が徴収基準を定めていました。監督にあたった者も含め、すでに職を解いております」


「兵の配置については」


 橘はそこで、雲英へ視線を向けた。


 文書の往来について調べていた中務省から報告を引き継ぐように、雲英が静かに口を開く。


「こちらも関係する記録を照合いたしました。西部街道の治安悪化を受けて配置を改めたものですが、報告を過大に受け取った形跡があります」


「徴税と兵の配置に、繋がりは?」


 清明が問う。


「確認できませんでした」


 雲英は穏やかに答えた。


「時期が重なったことは事実です。しかし、それ以上のものは残っておりません」


 清明はしばらく黙っていた。


「……では、二つの判断が重なった結果、蘇原をあそこまで追い詰めたと」


「記録を見る限りでは」


 雲英の声音に揺らぎはなかった。

 橘が悔しげに眉を寄せる。


「民部省については、私の監督が至らなかったことも事実です。今後、地方から上がる報告の確認を改めます」


 清明は小さく息を吐いた。


「分かりました。処分についてはそれで進めなさい」


「はい」


 雲英も静かに頭を下げた。


「中務省でも、関連する記録は引き続き保管しておきます」


 その件の議論は打ち切られ、議は次へと進んだ。


 橘が再び、別の書状を取り出す。


「辺境より報せが届いております」


 その一言で、室内の緊張が一段と増した。


「狄族の一部が、不穏な兵の動きを見せ始めているとのことです」


 誰も、すぐには口を開かなかった。互いの出方を探るような沈黙が流れる。


 清明は手にした扇を弄びながら、居並ぶ官たちの顔を静かに見渡した。


  突然の凶報に動揺を隠せず目を見張る者、深く眉をひそめて事態の重さを測る者、関わりを避けるように視線を伏せる者。それぞれの思惑が、その表情に映し出されていた。


「規模は」


 問いを投げかけたのは、暁だった。


「まだ正確には把握できておりません。辺境の郷司からの第一報であり、州司も現在は詳細を確認中とのことです」


「ただの水利を巡る小競り合いか、あるいは組織的な別の動きか」


「……そこまでは、まだ」


 橘は言葉を濁した。これ以上の情報がないのだ。その歯切れの悪さだけで、事態の全容が未だ霧の向こうにあることが十分に伝わってきた。


 清明は、手の中で扇をぱちりと心地よい音を立てて閉じた。その音が、場を支配していた微かな動揺を打ち消す。


「引き続き、現地からの情報を集めなさい。動くのは、事態の全容が見えてからで遅くはありません」


「承知いたしました」


 橘が深く一礼する。


 やがて、玉座に鎮座する帝・虚空が、重い口を開いた。短く、しかし拒絶を許さない響きを伴って。


「調べよ」


 絶対の一言によって、議はそのまま、次の議題へ移っていった。


***


「謀反の夜、帝を手にかけたのは昊夜殿下ではないか」


 そのような噂が宮廷を覆ったのは、まもなくのことだった。


 火種が誰の手によるものか、それを知る者はいない。

 だが、噂はまるで澱んだ空気そのものに溶け込むように、急速に侵食を広げていった。


 花梨はあてもなく回廊を歩いていた。


 昨日も、今日も、同じ場所を行き来する。宮廷の深部で耳にする悪意ある囁きが、胸に棘のように刺さる。


(真実は、どこにあるの)


 そう自問し、歩を早める。向かうべき先がどこなのか、答えはまだ見つからない。


 それでも、ただ立ち尽くしていることだけは、彼女にはできなかった。




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