第十五話 舞姫、娘になる
反乱兵の掃討が完全に終わり、周囲の騒がしさが少しずつ落ち着きを見せ始めた頃。
それぞれが捕虜の連行や戦後処理のために動き始める中で、刹那だけが、真っ直ぐに日向の前に立った。
そして――。
いつもの不真面目で飄々とした態度を完全に消し去り、静かに、深く、深く頭を下げた。
それは、かつて戦場で生死を共にした上官に対する、至高の礼だった。
何年経とうが、立場が変わろうが、あの頃のままの、真っ直ぐで、一片の曇りもない敬意の表れ。
「……ご無事で何よりです、殿」
日向は無表情のまま、しばらくの間、自分の前で深く頭を下げるかつて共に戦った男を見つめていた。
「……お前もな」
短く、それだけだった。
刹那はゆっくりと顔を上げた。その端整な目が、ほんの少しだけ細められる。
それが、昔を懐かしんで笑っているのか、それとも、突如として現れた上官への別の感情なのか、遠目からは判断がつかなかった。
すぐそばで、その様子をじっと見つめていた桜桃は、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
あの、いつもお調子者で、何を考えているか分からない刹那が見せた、初めての表情。
彼の「素の顔」を、桜桃はその時、初めて見たような気がしたのだった。
首謀者が縄を打たれ、広場へと連れてこられた。
激しかった反乱は、今、ここに完全に終わった。
硝煙が燻る蘇原の空に、重々しい静寂がゆっくりと戻り始めていた。
桜桃は、広場の端にある冷え切った荷台の縁に座り込んでいた。
死者たちの弔いを終えてから、ずいぶんと長い間、ずっとそこにいた。
緊張が解けたせいか、もう立ち上がる力さえ、指一本分も残っていなかった。
そこへ、無駄のない力強い足音が近づいてきた。
「――六花」
その声に、桜桃は弾かれたように顔を上げた。
そこに立っていたのは、他ならぬ日向だった。
桜桃は小さく息を呑む。
六花――。
それは、自分の本当の名ではない。あの謀反の夜、桜桃の身代わりとなって死んでいった、日向の最愛の娘の名だ。
日向にこの名を呼ばれ、桜桃の胸はちりちりと焼けるように痛んだ。
自分が生き延びてしまったことへの後ろめたさが今さらのように押し寄せて、喉の奥がキュッと熱くなる。
「……日向」
「座っていなさい」
日向は静かに、桜桃の隣へと腰を下ろした。
しばらくの間、二人は何も語らず、ただ沈黙の中にいた。
遠くで兵たちの忙しない戦後処理の声が響いている。激動の片付けが、静かに始まっていた。
やがて日向が、無骨な手で懐から何かを取り出した。
そして、桜桃の小さな掌の上に、そっとそれを置いた。
それは、白みがかった、細かな透かし細工が施された小さな美しい玉だった。
「如月が亡くなった現場で拾いました。もみ合いの中で、衣から引きちぎれて落ちたものだと思います」
桜桃は、掌の上の玉を見つめた。冷たいはずの石は、日向の懐にあったせいで、彼の体温を帯びてほのかに温かい。
「如月は何かを追っていた。……何かを知ったから殺された」
日向の言葉に、桜桃は息を呑む。
――私のせいだ。
「……何かご存知ですか」
問いかけられ、桜桃は唇を震わせた。
「私が……星河帝の娘であることを、如月様に明かしたのです」
「……」
「謀反のことを知りたいと言うと、如月様は調べていたことがあると言いました。後日、まとめて話すから待ってほしい……と」
「そうでしたか」
日向の静かな相槌が、桜桃の胸に深く刺さった。
彼は、まるで遠くを見つめるような瞳でぽつりと呟く。
「……謀反の首謀者は、この手で討ったと思っていたが……裏にいたのか」
桜桃は何も言えず、唇を強く噛み締めて手の中の玉を見つめた。
……見覚えがあった。
(どこで――?)
必死に記憶の糸を辿る。
朝堂院で文官の手伝いをしていたときの、あの薄暗い書庫。雲英の隣に、影のように立っていた男。
――深黎だ。
いつも飄々としていて、掴みどころのない微笑を浮かべている文官。
あの男の首元に、いつも妖しく光るものがあった。白い玉を連ねた、異国の首飾り。
確か一度、糸が切れてバラバラになりかけたのを、茉莉が丁寧に直してやっていたはずだ。
そのときに間近で見た玉と、この掌にあるものは、同じ細工のように見えた。
桜桃の指先が、凍りついたように止まった。
(深黎様が……如月様を……?)
じわりと嫌な汗がにじみ、手が小刻みに震えた。
確証はない。ただのよく似た首飾りかもしれないし、恐ろしい偶然かもしれない。
だが――脳裏に浮かび上がったのは、あの静まり返った廊下での光景だった。
『如月殿が亡くなった日、あなたはどこにいましたか』
雲英が、深黎に対して静かに問いかけていた。低く、しかし逃げ場を許さない穏やかな声。あれは調べていた人間の声だった。
あのとき、深黎はただ微笑み『覚えてません』と答えた。
桜桃は廊下の端で、たまたまそれを目撃していただけだった。そのときは深く考えもしなかった。
だが今、この温まった玉を手にして。
(雲英様も、深黎を疑っている……?)
桜桃は玉を見つめた。
(雲英様は、深黎様の何を知っているのだろう)
桜桃はゆっくりと顔を上げた。
「……この玉に、見覚えがあります」
声が、恐怖で少し掠れていた。
「誰のものか、心当たりが?」
「……深黎様という方の、首飾りの玉と似ています。中務省の文官の……」
日向の目が、底知れない光を帯びて細くなった。
「確かか」
「確かではありません。でも、茉莉様が、その首飾りを直しているのを私は横で見ていました」
日向は黙って、桜桃の言葉を頭の中で噛み砕いているようだった。
「……それから、如月様が亡くなった日に何をしていたか、雲英様が深黎様に問いただしているのを、廊下でたまたま耳にしました。そのとき、深黎様は答えを濁したのです」
日向は静かに息を吸い、それから、肺の奥の熱を吐き出すように、長く息を吐いた。
「……深黎……狄族、か」
日向はそれだけを呟いた。
桜桃は冷たい玉を手の中に包み込んだ。こんなに綺麗な細工の玉が、如月を手にかけたかもしれない男のものだなんて。
桜桃は小さく息を吐き、気になっていたことを問いかけた。
「……これを届けるために、わざわざこの危険な武州まで、一人で来てくださったのですか?」
「そうです」
「お手紙でも、よかったのでは……」
「心配だからに決まっているでしょう」
日向は静かに、けれど、これ以上ないほどはっきりと言った。
桜桃は言葉を詰まらせ、ただ日向の横顔を見つめた。
あの謀反の夜のことを、今でも鮮明に覚えている。
血の海に倒れた先帝の前に立ち尽くし、絶望に身を震わせていた日向の姿を。主君の亡骸を置いていくこともできず、けれど桜桃を逃がすために、その背中を押し出すしかなかった、あの引き裂かれるような夜を。
あの夜、日向の本当の娘である六花は、桜桃の身代わりとなって炎の中に消えた。
『私が生き残ってしまったことは、本当に正しかったのだろうか』
『あの子の命を奪ってまで、私がここにいる意味はあるのだろうか』
その痛切な問いが、これまで何度も、何度も桜桃の胸の中で渦巻いていた。今この瞬間も、喉の奥までその言葉が出かかっている。
けれど、それを口にしてしまえば、目の前の男がどれほど傷つくか、そして生真面目な彼が全力でそれを否定しようとするのも、痛いほど分かっていた。
だから、言えなかった。言えずに、ただ唇を噛み締めて日向を見つめることしかできなかった。
日向はしばらくの間、沈黙していた。
慰めの言葉をかけるような器用な男ではない。
桜桃の父も自分の娘も守れなかった自分が、言えることなど何もなかった。
じっと腕を組んだまま、静かに前を見つめていた日向だったが、やがて、ふっと小さく、呆れたように息を漏らした。
「……下らないことを考えるな」
日向は前を向いたまま、ぶっきらぼうに、しかしひどく優しい声で言った。
「あの子に『桜桃様を頼む』と言ったのは、この俺です。あの子は父親の言葉を真に受けて、自分の意志でその役目を全うした。ただそれだけのことです。……あなたが今こうして生きて、ここにいることが、俺とあの子が選んだ選択の、唯一の結果だ」
日向はゆっくりと、桜桃の方へと向き直った。
その瞳には、決して揺らぐことのない武人としての誇りと、亡き娘への、そして今を生きる桜桃への深い情が鈍く光っている。
「だから、答えの出ないことで悩む暇があるなら、しっかり飯を食って、前を向いて生きなさい。……お前は、『六花』なんだからな」
その言葉が引き金だった。桜桃の目から、必死に堪えていた涙がポロポロと溢れ落ちた。
日向の瞳から、言葉以上の重みを持って伝わってくる。あの日からずっと、生きろ、と。彼はその背中でずっと言い続けてくれていたのだ。
日向はそれ以上、桜桃の涙を見ることはしなかった。
背を向け、大股で歩き出す。
「……日向! 会えて、本当によかったです……!」
震える声で桜桃がその背中に投げかけると、日向は足を止めず、ただ一度だけ片手を高く上げた。
桜桃は涙を拭い、夕闇に消えていく日向の大きな背中を、静かに見送った。彼が向かう先には、戦後処理の続く州府の建物があった。
しばらくして、どこからか刹那がひょっこりと姿を現した。
「あれ、日向殿は?」
「……行ったわ」
刹那は少しだけ呆然と固まった。
「……マジであの人、何しに来たんだよ」
「ふふ、私もよく分からない。でも……」
「……まぁ、あの殿らしいっちゃ、らしいか」
刹那はやれやれと肩をすくめ、いつもの飄々とした顔に戻った。
それから、桜桃の隣に腰を下ろすと、少しだけ赤く染まる星空を見上げた。
戦の終わった静寂の中、二人は言葉を交わすことなく、ただ並んで静かな夜空を見つめ続けていた。




